ワンサイド・ラブコール
日直の号令を聞き流して、今まで使っていた数学の教科書をカバンに突っ込む。代わりに次の時間の英語を取り出そうとしたら、そこにあるはずの、ビビッドカラーの冊子はなかった。そういえば、昨日寮で予習をして、そのまま机の上に置いてきたような気もしないではない。そのことに肩を落とすよりも先に、やった、と思う自分に呆れつつ、隣のクラスに向かう。しかたがない、恋をすると、誰しも少なからず馬鹿になってしまうのだ。
教室の前で、深呼吸をひとつした。ドアに手をかけて、スライドさせて、少し身を乗り出せば、すぐそこに目当ての人がいる。

「葦木場くん、英語の教科書貸して!」

「いいよ、ちょっと待ってね」

はい、と長い腕で差し出される教科書を受け取って、大切に胸の前で抱えた。

「ありがとう、借りてくね」

手を振って見送ってくれる葦木場くんに、私もささやかに振り返してから、自分の教室に滑り込む。ほんの少し話しただけなのに、心臓がうるさい。葦木場くんのことだし、たとえそうだとしても気づいてなんていないはずだけれど、頬が赤くなってはいないだろうか。ぺたぺたと触っていると、泉田くんに体調が悪いのかと心配されてしまった。
授業が終わって、昼休み。教科書を返そうとあの長身を探したけれど、教室の中には見当たらない。しかたがないとは思うけれど、正直かなりがっかりしている。貴重な話す機会をひとつ、ムダにしてしまった。そのまま誰もいない席に教科書を置いて戻ろうとして、ふと閃く。転がったままの葦木場くんのシャーペンを手に取り、次にやるであろうページに走り書きをした。すき。自分で書いた二文字に急に恥ずかしくなる。それでも消さずに逃げ帰ったのは、せめてもの意地だ。誰のことが、なんて書けやしない私の、それが精一杯だった。

そんなことをした日から、葦木場くんとは何度かすれ違った。しかし、あの落書きの真意について追及されることはなく、ドキドキしていた自分が馬鹿みたいだと、実際馬鹿なんだけれど、そう思う。挨拶はする、でもそれ以上の会話はない。そのことがどうにも悔しくて、去年頑張って聞き出したアドレス宛にメールを送った。質問だったらいくら葦木場くんでも返信をくれるのではないかと、そんなことをしてみたのだ。結局、それも成果がでないまま今に至る。葦木場くんはやっぱり葦木場くんで、たぶん、携帯なんて見てもいないんだろう。読んで返信してくれてないなら、いくらなんでも泣きそうだ。いやいや、大丈夫、そんなはずはない。私の好きな人はそんなことをする人じゃない。携帯を携帯しろって怒られてるのも見たことがある。きっと、今回もそうなのだ。
そうして、いい加減葦木場くんへの送信メールがフォルダの一角を占領してしまった頃、廊下で話している葦木場くんを見かけた。一緒にいるのは、葦木場くんと同じ自転車部の黒田くんだ。もしかしたら私に気づいてくれるかな、なんて下心半分で近寄ってみる。

「このミョウジってやつ、お前のこと好きなんじゃねぇの」

彼らの後ろ一メートルくらいまで来たとき、ちょうどそう言っているのが聞こえてしまった。そうです、その通りです。もちろん、聞いてしまった手前、平然とその横を通ることなんてできない。いたたまれなくなった私は、そのまま回れ右をして教室へと逃げ帰った。そう、私は確かに逃げ帰ったのだ。そして、何とかしてこの気恥ずかしさを追い払おうと努力していた。泉田くんには度々心配をかけて申し訳ない。だが、そんな私の努力もむなしく、元凶がやって来てしまった。クラスメイト経由で呼ばれてしまっては、無視などできるはずがなかった。

「どうしたの、うちのクラスに来るなんて珍しいね」

ドア枠に収まるように背中を丸めても、まだまだ高い位置にある顔を見上げながら尋ねる。黒田くんはよく泉田くんに会いに来るけれど、葦木場くんが来るのは本当に珍しい。

「えーっと、なんだっけ」

葦木場くんの視線が宙をさ迷った。自分から呼んだくせに、用件を忘れてしまったようだ。さすが、天然。つい笑いそうになって、慌てて口元をおさえる。

「そうだ。数学は難しかったし、調子は結構いいよ、あと、その猫は先輩がかわいがってるやつだと思う。それから……」

指折り数えながら紡がれる言葉を、私はぽかんと聞いていた。せっかく葦木場くんが話しかけてきてくれたというのに、内容は右から左へ素通りしていく。ようやくメールの返事をしてくれているのだとわかったときには、葦木場くんは満足そうな表情で私を見下ろしていた。

「そういえば、ミョウジちゃんってオレのこと好きなの?」

突然の問いかけに、あ、だとか、は、だとか、意味を持たない音が口からこぼれ落ちる。黒田くんめ、余計なことを。でもありがとう。何とかこたえようとしたその瞬間、予鈴が鳴って、葦木場くんの注意が私から逸れた。頷くタイミングを逃した首が、不自然な角度でぎくりと固まる。移動教室だと駆け足で去っていく後ろ姿を見送りながら、葦木場くんに恋をするのは大変だと、私はしみじみと思うのだった。




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