暗くて良く見えないから
真っ暗な部屋だった。私が今開けた扉以外その部屋に光が差し込む所は無く、まるで異次元のような、或は黒く塗り潰された壁を目の当たりにした気がした。部屋に入り扉を閉めるといよいよその部屋は黒に包まれた。何も見えない。暫くして私の目は段々暗闇に慣れてきた。暗い部屋の中に白いなにかが居た。なにかというのは間違いかもしれない。私はそこにいるそれを知っている。
「千歳」
ぴくりと白い背中は震えた。真っ暗な髪はすっかり闇に溶けてしまっていたけど、それが千歳だと私は分かっていた。
ゆっくり歩み寄ろうとすると足元に何かがあった。うっかりそれを蹴りかけた足を留め、それを拾い上げた。ラケットだった。カバーにも包まれていないラケットだった。暗闇に浮いて見える白いガットは規則正しく並んでいる。私はそれをまた床にそっと置いた。
「みんな、心配しとったで」
「退部届ば、もう出したばい」
「あれ、白石に破られたで。せやからまだ千歳はテニスを」
それを最後まで言い切る事は出来なかった。いきなりこちらに跳び掛かってきた千歳に肩を掴まれ、床に倒れた。大きな手が私の肩をすっぽりと包み、そのまま砕いてしまうのではという程の力が掛かる。
「もう、俺テニスはやらん」
「したいくせに」
「やらん」
「…どうしたの?」
出来るだけ優しく、声色を変えて尋ねると千歳の手は緩んだ。私に覆いかぶさったまま微かに震えているらしい。暗過ぎてその表情までもは伺えなかったけど、ひどく狼狽しているようだった。そしてそのまま一気に話し始めた。
「テニスば極めるため俺は練習してきたったい。目ば怪我して無我に出会ってからはそればかりにかまけた。楽しかったばい。ばってん、気付いたんよ、もう俺は先の扉には入れん。疲れた」
搾り出すような声だった。いつもの余裕を含んだ声はそこになく、弱みをさらけ出した千歳がそこにいた。
私は苦しくなった。千歳に触れられた肩が鈍く鼓動と同じリズムで痛んだ。
首筋にあたたかいものが落ちてきた。千歳は泣いていた。普段涙を見せない彼が泣いていた。どんなに辛い事があっても私の前で無く事は無かった千歳は今私の上で泣いていた。
「千歳、」
嗚咽を漏らして無く千歳が私の胸元に顔を埋めた。泣きじゃくる子供のように時折頭を揺さぶって泣いていた。
「千歳、」
「…こづえ」
「疲れたからって楽になっちゃだめ。苦しくなるだけだよ」
そう言うと千歳は一度だけ微かにゆっくりと頷いた。
暗くて良く見えないから、涙は見えないふりをしてあげる
100220