※1146さんが猫化する話の第二弾です



今日はてんでついていない。まず辺縁プールで仮眠を終え起き上がった時に頭上に張り出していたパイプで頭をしこたま打った。こぶが出来るのではと痛む箇所をさすりつつ出た巡回の最中、遭遇した雑菌との戦いで菌の分泌した粘液で盛大に滑って転んだ。その現場は友人の好中球らにもしっかりと目撃されている。その上2048番に指摘されて気付いたのだが、滑った際踏ん張ろうとして布に無理がかかったらしく、制服のズボンの尻部分の縫い目が少し裂けた、らしい。…この後出来るだけ早く制服を替えに行かなければ。

恥ずかしい思いはしたものの細菌駆除は問題なく済んだので、とりあえず急ぎ足で造血幹細胞の受付へ向かうことにする。その途中で、軽く一息入れようと飲み物の自販機へ向かった。
上手くいかないモヤモヤや嫌な思いも、茶を飲めば少しは落ち着くだろう。そう思いながら通りをしばらく歩けば、馴染みの自販機が見えてきた。これで気を持ち直そう、といつも口にするお気に入りの緑茶のあたたかいボタンを押そうとしたが、そこに灯っていたのは無情にも売り切れの四文字だけだった。
流石にここまで不運が重なると、いくら些細なことばかりとはいえやはり気持ちが落ち込む。今日はたまたまそういう日なのだ、と言い聞かせてはみても、今この瞬間一番運が悪いのは自分なんだろうとついネガティブになってしまう。思わずはぁ、と軽くため息が漏れた。その瞬間、全身の毛が弥立つ感覚と同時に急激に身体のかたちが変えられるような、くしゃりと縮められるような感覚に襲われて。がちゃん、とナイフホルダーが落下した音がやたらと耳に大きく響く。
しまったと気付いた時には、もう自分の身体は身軽で小さな生き物の姿へと変貌していた。ああ、久々にやらかしてしまった…。更に落ち込みたくなる状況だが、感傷に浸ってなどいられなくなった。こんな往来で元に戻るわけには絶対にいかない。着用していた制服の中から抜け出すと、とりあえず近くに人ひとりが滑り込めるようなスペースはないかとうろつく。この辺りは遊走路も少なかった記憶がある。ここから一番近い遊走路でも、猫の足ではどれぐらいかかるか分からない。必死に考え込んでいたせいで、俺は近付いてくる人影に気付かなかった。上から影が差したことでようやく気付いてそちらを仰ぐと、よく見知った赤い帽子の赤血球がにこにこしながらこちらを覗き込んでいた。


「…かわいい〜!」


まずい、そう直感したが遅かった。赤血球はきらきらと目を輝かせながらこちらへ腕を伸ばし、素早く俺の身体を抱え上げた。軽く頭を前から後ろに撫でられ、あやすように指先で顎の下を擽られてつい気持ちよさにとろんと意識が緩んでしまう。


「ああ〜すっごいふわふわ…!キミ、大人しいしいい子だねえ…どこから来たの?」


いかん、撫でられてうっとりしている場合ではない。この調子ではしばらくは逃がしてもらえないだろう。だが今この腕から無理に抜け出そうと暴れれば、少なからず赤血球の腕を俺の爪で傷付けてしまう危険があった。
見つかったのが事情を知っている者なら建物の影に誘導してもらえたし、キラーTや免疫細胞だったなら多少手荒にはなるが全力で抵抗することも出来た。しかし赤血球に罪はないし、守るべき対象に怪我をさせるなど言語道断だ。
どうすればすぐに逃がしてもらえるかと頭を回す俺をよそに、赤血球は俺の手を握って肉球をつついて遊んでいる。…だめだ、擽ったくて集中できない。
いつ戻るか分からない不安の中、そこらを見回してみても都合のいい解決策など降ってくる訳もなく。やむを得ない、赤血球には後で全力で詫びを入れようと脚に力を入れ飛び出そうとしたところで、後ろから聞き慣れた低い声が降ってきた。


「オイ、赤血球。そいつ…」
「え?あ…!キラーTさん!」


耳が声を拾ってぴくりと動く。赤血球と同時に後ろへ振り向けば、案の定金の癖毛を持った体躯のいい男──キラーT細胞がそこに立っていた。俺のこの変身体質を知る数少ない相手だ。天の助け、とは正にこのことだと感じる。


「この子のこと知ってるんですか?」
「おう」
「良かった〜!迷子かなって思ってたんですよ!どこの子なんですか?」


キラーTなら上手く連れ出してくれる、と期待しながらその答えを待っていると、不意にしっかりとした俺以上に逞しい腕がこちらへ伸び、次いで身体がふわりと浮く感覚がして。あっという間にキラーTの胸に抱え直されていた。猫の習性なのか、俺自身の気持ちなのかは分からないけれど。ああ、すごく安心するにおいだ、とぼんやり思う。


「こいつ、俺のだからな」


赤血球に向かって言われた言葉なのだが、それを聞いた途端顔が熱くなった。きっと今キラーTは得意げに笑っているに違いない。この男はたまに、こういう恥ずかしいことを平気で言ってのける。


「お前、まだ仕事あんだろ。こいつは俺に任せて戻れよ」


俺を片腕に抱きながら、自販機の前に置き去りにしてしまっていた制服の一式をさりげなく拾い上げると、キラーTは赤血球に仕事へ戻るよう促した。


「あっ…は、ハイ!」
「じゃあな」
「お疲れ様でした!」


後ろからかけられた赤血球の声を聞きながら、俺たちはその場を離れた。



***



その後キラーTが手近な物陰を見つけてくれたおかげで、俺は無事人目に付くことなく元に戻れ、事なきを得た。とりあえずひと安心、ではあるが、先程言われた言葉を思い返すとまた頬が熱を持つ。制服を着込みながら、込み上げる照れを誤魔化したくてつい怒ったような、拗ねたような言葉が出てしまった。


「赤血球にあんなことを言うなよ…しかも人前で」
「別におかしいことなんか何も言ってねえだろ、本当なんだから」


腕を組み細胞壁へ寄りかかりながら、しれっと言い放つキラーT。しかしそれもなかなか様になっているのだからなんだか悔しい。とはいえすんなり納得はできなくて、ついごねてしまう。


「しかし」
「いーから、早く服着ちまえ。そのままだとここで襲うぞ」
「な、ん 、…」


宥めるためか、これ以上文句を言わせないためか、唇を軽く塞がれすぐに離される。短い口付けに物足りなさを感じてもっとと先をねだってしまいそうになるが、今日はまだ仕事が残っている。触れ合うのはもう少しお預けだ。


「俺にしたら、本当の姿じゃねえとはいえお前は俺のもんだってはっきり言えてよかったけどな。主張はしとかねぇとだろ」


得意げにそう告げてから、くしゃりと俺の硬い髪を大きな掌があやすように混ぜた。そういう風にされてしまったら、これ以上文句は言えない。けれど照れさせられっぱなしはやっぱり癪で。


「……キラーTも、何か動物になってしまえば俺だってそう言えるのに」
「……」


思わずぽつりと、彼への独占欲が言葉になってこぼれてしまった。その瞬間、キラーTの動きが止まる。…これはもしかして引かれた、のか。心の中で呟いたつもりだったのに、声に出ていたことに自分自身で驚いてしまう。俺はいつの間にこんなに欲深くなっていたんだろう。
まだ訂正は出来るだろうかと恐る恐るキラーTに尋ねてみる。


「…えと、キラーT、今のはちが」
「好中球」
「は、い」
「今日残りの仕事はサボれ、班長権限行使してオレ経由で好中球課に半休申請通すから」
「…は?」


訂正しようとした言葉を遮られ、緊張から咄嗟に敬語で返す。その後言われた内容は思いがけないもので一瞬理解が追いつかず、間抜けな声で聞き返してしまった。しかしそれへの説明はなく、代わりに腕が掴まれ、壁に背を押し付けられて。状況に着いていけずにいると、次いでキラーTの鼻先が首元に埋められ、熱いものが皮膚に触れたと同時に小さく走る小さな痛み。慌てて押し返そうとするものの、がっちりと押さえ込まれた腕はびくともしなくて。それでも制止しようと声をかけてみるけれど。


「…ちょ、っキラ、待て、」
「お前がスイッチ入れたんだからな?好中球」
「な、ッこら…!」


にやり、と好戦的な笑みを向けられて、体の奥に熱が灯るのを感じてしまった。俺はこの、獲物を捕えんとする獅子のように鋭く光る金がとても好きなのだ。


後日、赤血球から「キラーTが飼っている(らしい)白くてふわふわの猫の話」を嬉しそうに聞かされ照れまくることになるのを、この時の俺はまだ知らない。





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