磨かれた体育館の床を、ボールが勢いよく弾む音と、バッシュが踏みしめるキュッキュッという音が埋め尽くす。当然だが余計な私語などは一切なく、人の声といえば規則的なかけ声だけだ。課せられた練習メニューを決められた時間内にこなせなければ、この部にはいられない。特にレギュラーであるならば余計にそうである。
いくらチームが強いとはいえ練習メニューの内容が厳しいのは誰もが同じだ。息を切らし、汗を飛び散らせながらボールをつく。

切りのよいところでホイッスルが鳴り、クールダウンと水分補給の時間になった。止まることを知らない汗をタオルで拭いながら、レギュラー部員たちの様子を伺う。
特に最近一軍に上げた、正しくは僕が見出して一軍へ入れた黛千尋に関しては、他の部員に比べてまだ圧倒的に練習量が足りない。
何より、テツヤ以上に能力の高い新型として仕立て上げなければならないのだ。なので暇を見つけては彼にミスディレクションの技術、パスの仕方、ディフェンスのポジションへつくタイミングなどを教え込んでいるが、やはり下級生に敬語を使われないのが気に入らないのか、それとも彼の元来の性質なのか、憎まれ口や文句がちょくちょく飛び出す。こういうタイプには今まで接したことがないからか新鮮で、近頃それを面白いと感じている自分がいた。

その黛千尋…もとい千尋の先ほどのパス練習のフォームに思うところがあり、名前を呼んで声をかける。

「千尋、ちょっと」

すると千尋は汗を拭きながらすこし眉間に皺を寄せてこちらを振り返った。あまり光を映さない瞳も、心なしか怪訝そうに見える。
僕に対して嫌悪感を露わにする人間は周りにそうそういないので、こういった反応はやはり新鮮に感じる。色素の薄い髪が汗に濡れて項に張り付いているのを見届けてから、手招きのジェスチャーで千尋を僕のもとへ来させた。

「…なんだ、文句か?」

表情以上に不機嫌さの込められた声でうざったそうに僕を見る視線。これを追々きちんと躾て従わせるのを想像して僕はひっそりと口の端を持ち上げた。

「いや、文句ではないさ。パスのフォームについてすこし修正があってね」

「やっぱり文句じゃねえか」

千尋はいかにも面倒くさいといった様子ではぁ、とため息をこぼしてタオルを首にかけ直す。その時にふわりと甘やかな匂いが鼻先をくすぐった。
洗ったばかりのタオルが発する香りとも違う、わずかに人の匂いが混ざった、特有の甘い匂い。…これは、千尋の匂いだ。

「ああ。でもそれより」

僕からぐっと近付いて、鼻先ですんと確認するように深く匂いをかいだ。鼻腔に心地よくなじむそれは、きっと千尋そのものの匂いなのだろう。
この身長のせいでバスケ関係では見下ろされることが多いが、今に限ってはこれが上手く作用しているらしい。ついでに隙だらけな首筋をべろりとひと舐めしてやったら、当たり前だがしょっぱかった。千尋は僕の突然の行動に頭が着いていかなかったようで、数秒凍りついたのち顔を真っ青にして慌てて離れた。

「ひ、っおまえ!舐め…っ」

「隙だらけだったからな」

「はぁ!?」

信じられないといった顔でこちらを見る視線に応えるように、にやりと笑ってみせる。これでまたひとつ彼の新しい表情を見ることができた。

「それよりフォームについての修正があるからちゃんとこちらへ来い。確認が出来ないだろう」

「おまえが危険だから近寄りたくねえんだろが!」

「来ないのならこちらから捕まえるだけだ。玲央」

このやりとりを見ていたと思われる玲央がなあに征ちゃんと楽しげに近付いてきたので、千尋を捕まえるよう命じる。玲央は、あらそんなのお安い御用よとにこにこしながらあっという間に逃げようとする千尋の後ろへ回り込み、羽交い締めにしてしまった。その素早い身のこなしはやはりさすがだ。

「んー…黛さんっていい匂いするのね、甘いフローラルな香り」

「おいやめろ嗅ぐな」

「だって近いから香ってくるんだもの。柔軟剤かしら?」

捕まえた玲央もやはり同じことを思ったらしい。ただ千尋と密着し続けていることが羨ましいことこの上ないが、僕から玲央に捕まえろと言った手前そこは飲み込んでおく。

「じゃあ離せよ…!」

「嫌よ、離したら征ちゃんに怒られちゃう」

「知るか!」

なおも口による抵抗を止めない千尋も往生際が悪いと思う。ここはいっそキスでもして黙らせるべきだろうか。いや、しかしそこまでしてしまっては今後千尋が僕に隙を見せてくれる可能性が限りなくゼロになってしまう。天帝眼を使わずとも、それは想像に難くなかった。
とりあえず玲央にいまだ捕まっている千尋へと近付いて、彼をじっと見つめる。

「征ちゃん?」

「…なんだよ」

パスのフォームの修正、という本来彼を呼びつけた目的を忘れたわけではない。だがそれを後回しにしても構わないと思うほどには千尋の方が気になっている。それは知っていてもらわなくてはならない。

「千尋、僕は君が好きだ」

あまり感情の宿らない瞳を、まっすぐに見つめて言った。薄い瞼がみるみる持ち上げられて、僕が一軍へ彼を勧誘したときの驚きの表情を思い出させた。いや、それ以上にわけが分からないという顔をしている。色の薄い睫毛がまばたきのたびに揺れる。そしてすぐまたいつもの皮肉っぽい斜に構えたときの表情になった。

「っは…、冗談やめろよ」

この程度では僕に靡かない、といった風に歪められた薄い唇。やはり千尋は面白い、ならば無理やり分からせるしかないようだ。玲央の目の前で男同士のラブシーンを繰り広げるのは少々悪いが、致し方ない。
僕は千尋の胸倉をつかみ顔を引き寄せて、いつも毒しか吐かない小憎たらしい唇を自分の同じそれで塞いでやった。

「ん、っ!?」

また見開かれた瞳は、低くなり始めている午後の日差しを受けて淡い光を散らした。先ほどよりも強く香る甘い匂いに、からだの内側に燻る衝動を煽られる。
想像していたよりその薄い唇は柔らかく、かさついていて、千尋がそういったことに無頓着であることを物語っていた。あとで玲央に相談して千尋に合うリップクリームを買ってやることにしよう。
最後にぺろりとあかい上唇を舐めてからゆっくり離れると、千尋は白い頬を紅色に染め変えてうつむいた。それは僕がやっと千尋の心を中から乱すことが出来たというしるしだった。

「…っとに、なんなんだよおまえ…!」

絞り出すように千尋がつぶやく。ぱさついて広がる髪の隙間から覗く耳も赤くて、ああ、かわいいなあという感想が浮かんだ。

「愚問だな。千尋が欲しいんだ」

「…そういうことは出来れば美少女に言われたかったね」

厭味をこぼす声は、呆れているようにも拗ねているようにも聞こえて、それがもうただの強がりだということを伝えていた。好きにしろ、という投げやりさすら感じられる。まあいい、ほしいと思ったものはあらゆる方法を尽くして確実に手に入れる僕の性質を、これからその身を以て知ればいいのだ。

「千尋に美少女は似合わないさ。それに僕がいるだろう、余所見などさせない」

大きなため息とともに目に見えてがっくりと肩を落とす千尋。もとから白い頬はより青白く色を失っていた。

「大丈夫か、千尋。顔が青いぞ」

「誰のせいだよ…」

「あら、じゃあそろそろ離したほうがいいかしら」

「ああ、すまない。ありがとう、玲央」

「どういたしまして」

途端に千尋は力が抜けたようにぺたりと床に座り込んだ。そんなに体調が悪いなら保健室へ行かなくてはならないな。玲央に伝言を頼んでおこう。

「体調が悪いなら保健室へ行こう、僕が付き添う」

「勝手にしろ」

勝手にしてもいいとのことだったので、座ったままの千尋を、脚をそろえて横向きに抱き上げた。うん、大丈夫だ。むしろ千尋はこの身長にしてはずいぶん軽いんじゃないだろうか。永吉のようにとまではさすがに結構だが、もうすこし筋肉を付けた方がいいとも思う。
近くふれあったことでまた甘い匂いに鼻先をくすぐられて、鼓動が弾んだ。

「…っておい!なんで姫抱きなんだよ!降ろせ!」

「勝手にしろという言葉に従ったつもりだが」

「こんな勝手は許してねえ!」

「暴れると舌を噛むぞ」

「こんな恥晒すくらいなら舌噛んで死んだ方がマシだ!」

千尋も往生際が悪い。僕はおまえを逃がすつもりなんて毛頭ないのだから、大人しくすればいいものを。
離せ降ろせとまだもがく千尋をがっしりと抱え上げて体育館の扉をくぐったところで、僕はこの思い通りにならない捻くれた先輩を黙らせるべく、もう一度そのかさついた唇にキスをくれてやった。





柔軟剤系男子の憂鬱



黛さんって体臭も薄そうなのできっと柔軟剤のいい匂いがするはず!





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