「貴志部」

彼の声は優しくて、名前を呼ばれるたびに心が軽くなる。どんなに周りがざわついていても、彼の声は必ず俺の耳にまっすぐ届くんだ。

「はい!」

嬉しい気持ちが抑えられないまま、勢いよくアフロディ監督のもとへ急ぐ。ああ、いけない、今は部活中だから、監督が無意味な用件で俺を呼ぶわけがないんだ。俺は浮ついた気持ちを落ち着けるために一度だけ深呼吸をした。

「今日もみんな調子がいいみたいだね。ホーリーロードの雷門戦以来、本当にいきいきしているよ」

監督がグラウンドを見渡しながらゆっくりと告げる。横顔を見たら、金のまつげが秋の日差しを受けて光を散らした。綺麗だなぁ、とまばたきさえ忘れて見惚れてしまう。

「あっ、はい…雷門とのあの戦いは、俺たちにとって大事なものでした」
「でも、何より監督が俺たちを導いてくれたから、雷門と全力で戦えたし、負けたけどすっきりしたんだと思ってます。俺たちの進むべき道が定まったのは監督のおかげです」

俺がそう言うと監督は微笑んでから、僕はそんなに大層なことはしていないよ、と控えめなことを言った。けど実際にチームがひとつにまとまることが出来たのは監督の一声があったからこそだ。俺は情けないことに、キャプテンでありながらみんなを引っ張ることが出来なかった。それを思うとほんのすこしため息が出る。木戸川サッカー部のこれからはきっと明るいだろうけれど、俺がキャプテンでいいのだろうか。ひとたび後ろ向きなことが浮かぶと、そこからどんどんマイナスな方へ考え込んでしまう。
基本的にネガティブではないつもりだが、総介のように自分の実力に自信があるタイプでも、跳沢のように悪いことはあまり気にしないタイプでもない。じゃあ俺ってなんなんだろう。
ぐるぐると悪循環な思考にはまって、ついに俺はキャプテンをやめるべきなんじゃ、と最悪の結論を脳みそが叩き出そうとした瞬間。
監督の手が俺の量の多いくせっ毛を優しくまぜた。

「また考えてすぎているね?責任感がちょっと強すぎるのは貴志部の良くないところだよ」

上から降ってくる監督の声はどこまでも優しい。咎めるでも、なじるでもなく、諭すような口調だった。

「たまには自分のことを甘やかしてあげないと。貴志部がキャプテンだから、木戸川のみんなは僕の言うことを信じてくれたんだ。貴志部はこの木戸川サッカー部に必要な存在なんだから、もっと自信を持っていいんだよ」

監督の言葉が俺の鼓膜を揺らす感覚が心地いい。胸の中で澱んでいたものがみるみるうちに溶けて、代わりに監督の言葉がすとんと収まった。そのあたたかさに思わず涙が滲む。ありがとうございます、と言った声が震えていなければいいけれど。そう思いながら練習に戻ろうとしたところで再び監督の声に動きを止められて。

「そうだ。貴志部、忘れ物だよ」
「え?」

振り向けば監督の顔が近付いてきて、急な展開に心臓がひときわ大きく跳ねる。つい脊髄反射でまぶたを閉じてから、監督はコロンでもつけているのだろうか、爽やかな甘い匂いにふわりと包まれた。次の瞬間、目元に柔らかいものが触れてすぐに離れていった。

「案外、甘いものなんだね」

監督の意味深な物言いがわからずにぽかん、と立ちつくしたけれど、目尻に滲んでいた涙がすっかりないのが監督の仕業であることに気づいて耳まで一気に赤くなったのを感じた。触れられた目元から熱が引かない。ああ、この先どんな顔で監督に接したらいいんだろう。チームメイトにする言い訳も思いつかない。
赤らんだ両頬を隠すように手のひらで包んでみたものの、熱を持ったままのそれは簡単に冷えるはずもなくて。むしろこの行動が女子みたいだと気付いて慌ててやめる。
とりあえず練習に戻ったら、総介に「おまえ、百面相してたぜ」と笑われてしまった。俺はそんなに変な顔をしていたのか。うう、恥ずかしい。
からかわれたのも頬が熱いことも全部まとめて監督のせいにしてから、頬の熱を吹っ切ることも含めてボールを蹴りに急いだ。涼しい秋風が俺たちの間を縫って、晴れ渡った空へ軽やかに吹き抜けていった。





初恋

(甘いいたみ、持てあます想い、眩しいしあわせ、
何もかも、あなたがくれたもの)




貴志部くんの淡い初恋は照美監督だって信じてる



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