一生、想いを伝えられない人がいる。
そう言うと、意中の人は意外そうな顔をした。

「へぇ、お前好きな人いたのか」

昼休みの会社の屋上には、小雨が降っている。
その肌寒い屋上で先輩は、人の気も知らないで呑気にカップラーメンを啜っていた。
インスタント食品が大好物だという悲しい食生活の先輩は、わざわざそれ専用の高いマグに熱湯を注いで持ってくる。マグはお昼くらいまでなら、比較的熱い温度を保ってくれるので、先輩には必須アイテムのようだった。
社員食堂に行けばポットがあるのに、先輩は頑なにそうしないのだ。

先輩と俺は、毎日ここで一緒に昼飯を食べる。
先輩は入社した当初から屋上がお気に入りらしく、この場所以外で昼飯を食べようとしない。
雨が降っていたって、雪が降っていたって、日差しが強くてクラクラしたって「屋根があるからいいじゃないか」と笑う。

「好きな人いたのかって……そんな驚くことです? そりゃ年齢も年齢だし、恋の一つや二つ、するでしょ……」

俺はサンドイッチに齧り付きながら不貞腐れた。もう三日連続サンドイッチだ。
俺の方こそ社員食堂に行くべきなのに、やはり俺もそうしない。出勤途中の駅の中にある小さなコンビニで、適当に買って来る。
朝は意識が朦朧としているから、昨日の昼に何を食べたのか咄嗟には思い出せず、完全なる自業自得で三日連続サンドイッチという羽目になっている。

「そうなの? お前は女性に興味なさそうに見えたから」

俺は先輩に気付かれないように、ふうと溜息をつく。
確かに、女性には興味ないんだけどね……。
先輩のことを好きだと悟られないようにしているけど、こうも鈍感だと流石に虚しくなってくる。

先輩は俺よりも二つ年上。
もうすぐ三十歳になる……誕生日は昔聞いたことがあるような気がするけど、覚えていないから、もう三十歳になってるかも。
結婚はしていないはず。でも、会社ではとにかくモテる。本人は全く気がついていないようだけど、女性社員がいっつも色目使って先輩を見ているから。
それでも浮かれた話は一切ない、根っからの仕事人間……。

「今の」先輩について知ってることは、このくらい。
プライベートな話も今では滅多にしないので、こうして先輩と、学生のような恋愛トークをすることは非常に珍しいことだった。

「で、それはどんな女性?」
「結構ズカズカ来ますね」
「別にいいじゃん? 俺仲良しの同期もいないし、お前くらいしか話し相手いないんだよ」

暫し悩む。
先輩の大好きな所は沢山あるけれど、馬鹿正直に伝えたところで気まずくなるのは避けたかった。

「うーん……俺の好きな人は……頼りになる人です」
「頼り甲斐のある女性……ってことは年上?」
「年上ですよ。髪は短くて、肌はニキビ知らずの綺麗さで、でも俺が特に好きなのは手かなぁ」
「……まさかの手フェチか」
「なんでちょっと引いてるんですか。手なんか可愛いもんでしょ。そうなんです、細長くて綺麗なんです。ちょっと骨ばってて……」
「ええ? 女性なのにそんな骨ばった手がいいの それなら俺の手も結構骨ばってるけどな」

先輩はニヤッと笑い、俺の目の前に、血管の浮き出た綺麗な手を見せつけてくる。
一瞬、心臓が止まる。

「……近すぎて見えませんよ」

俺は素っ気なく先輩の手を払いのけた。
そして、溜息に見せかけて一度深呼吸。
落ち着け。これはただの手だ。先輩の顔じゃない。
だけど俺の息がかかりそうな距離に先輩の身体の一部があるという、こんな些細な行為がどれだけ残酷で、俺の胸を苦しくさせるのか、この人は全くわかっていない。
払いのけるそのたった一瞬、先輩と接触できることが嬉しいなんて……二十八歳にもなって悲しい恋愛をしていると思う……。

周りの連中は、もう恋を追いかけない。夢を見ない。中学生や高校生のように、もう恋愛を本気ではしないものだと、わかっているのだ。
そこそこ気が合って、好きだと思える異性と、結婚し、子供を産み、家庭を築く。
貶しているわけでは決してなく、むしろそれが正しいと思う。
妥協せずに、いつまでも理想の王子様、お姫様なんて架空の存在を追いかけていたら、結婚なんてできないもので……それが男同士なら尚更、叶う確率はゼロに等しい。
それなのに俺は諦めきれずに……高校一年生の頃からずっと、この人に片思いをし続けている。



――それはもう、十年以上も前。

『お前見るからに暇そうだな。俺の部活に入れ』
初対面の先輩に、突然失礼極まりない言葉とともに腕を掴まれ、何の説明もないまま連れていかれそうになった。
俺はなんとか部室の前で腕を振り払い、必死に逃げた。

それからというもの、完全に目を付けられてしまった。
部活に入る気などなかったので、なあなあではぐらかしていたが先輩はしつこく、俺の行く所行く所に出現した。
根負けした俺は軽音楽部≠ニいう全く興味のない部活に所属し、無理矢理出席させられる羽目になった。

最初の頃は先輩を本当に疎ましい存在だと思っていた。
俺は第一志望の高校に落ち、滑り止めでこの高校に入ったので、人一倍やる気のない生徒だったというのに、何故俺にここまで執着するのかわからなかった。
それでも先輩のベースを一年間見ていると、ベースという楽器がたまらなく格好良く思えてしまって、入ったからには頑張ってみるのも悪くない気がしてきたのだ。

軽音楽部内はいくつかのバンドに分かれていた。
先輩と同じベースを選んだ俺は、当然楽器的にも実力的にも先輩と同じバンドには所属できず、一年生同士でスリーピースの初心者バンドを組んだ。

先輩は、初心者の俺に丁寧に楽器の弾き方を教えた。
先輩の音楽を間近で聴いていると、いつの間にか憧れとともに恋愛感情のようなものが芽生えていた。
同性同士なのにおかしい、なんてことは、考えなかった。そんなこと考える余裕もないくらい、先輩のことで頭がいっぱいになった。
そうしてバンドにのめり込んだ俺は、放課後も休みの日も毎日練習をして過ごした。

先輩は地元でも有名なベーシストで、インディーズバンドでもかなりの人気があった。
週末にはライブハウスがいっぱいになるほどファンが押し寄せ、俺もその一人になった。
音楽関係の知り合いも多く、いくつかの事務所からスカウトも受けていて、卒業したらメジャーデビューするのは確実だとも囁かれていた。

先輩の卒業が近づくと、「何故二年早く生まれて来なかったんだろう。でも先輩の後輩として生まれて来なければ、一生話さないままだったかも……」と、虚しさで胸が締め付けられそうになった。
先輩がいなかったら、俺はきっとずっと落ちこぼれだった。先輩が卒業する前に入学できただけで、本当に幸運だったのだ。
迎えた先輩の卒業式、先輩は軽音楽部の部員に笑顔で別れを告げた。
『ちょいちょい顔だすから、サボんなよ』と俺の髪をグシャグシャと撫でた。

甘い考えかも知れないけれど、俺も卒業したら、先輩の背中を追いかけたい。
いつか有名になって、同じ雑誌やテレビに出たい。
だから想いは伝えないままでいます。
そう俺は誓った。



……しかしそれから、先輩とは全く連絡が取れなくなった。
顔を出すと言っていたのに、卒業以来一切姿を見せない。
メッセージには既読すらつかず、電話も繋がらない。実家に突然行くのもどうかと思うし、もしかすると一人暮らししているかもしれない。
噂で聞いた話では、先輩は高校を卒業後、メジャーデビューはしていないようだった。確かに、雑誌やテレビで先輩の名前を聞いたことは一度もなかった。
それどころか、バンドも解散し、噂によればベース自体やめてしまったという。
先輩ほどの実力があれば事務所から引く手数多だっただろうに、何故……?
信じがたい噂だったけれど「先輩は今、音楽界にいない」という事実を、高校三年生の時にやっと受け入れた俺は、バンドでメジャーデビューを果たすという夢をあっさり諦め、普通の大学に入学した。
先輩がいないのなら、何の意味もなかったから。
もしかしたら、もう二度と先輩に会うことはないのかもしれない……と薄々思っていた。

だから適当に受けた会社の入社式で、先輩の姿を見かけた時には心臓が大きく跳ね上がった。
俺を見た先輩は驚いたような、少し嬉しそうな……そして気まずそうな表情をしていた。
俺は運命を感じていた。
もうこの人と結ばれないなら、一生誰とも結ばれなくて良いとさえ思ったのだ……。



「――じゃあ、俺先行くな」
「……あ、はい」

先輩の声で我にかえった。
昔のことをぼんやりと思い返していたので、先輩との会話にあまり集中できていなかった。
不健康極まりなく、見事に汁まで飲み干されたカップラーメンの空と割り箸を持ち、先輩は先に仕事に戻ってしまった。
俺は一人、屋上に残される。
小雨は降り続いていて、止む気配はない。どんよりとした灰色の雲が空を覆っている。
先輩がいなくなったこの屋上に俺一人の用はなく、他の休憩所に移動しても良いのだけれど、毎日なんとなくここにいる。



 ◇

俺の勤める会社では二回休憩があった。
一時間の昼休憩と、夕方に二十分程度の休憩。
二十分休憩はいつもビルの中にある小さな休憩所に行っている。
といっても、いつも人でいっぱいなので休憩所の外でコーヒーを飲むだけのことが多いが……。今日はそうではなかった。
休憩所に行くと、先輩が一人でコーヒーを飲んでいた。

「あれ、先輩だけですか」
「お、お疲れ。今日はよく休憩被るなぁ」
「そうですね」

狭い室内に、二人がコーヒーを啜る音だけが響いた。
少しの沈黙の後、気まずさに耐えられなくなったのか、先輩が口を開いた。

「ところでお前の好きな人って社内の人? あれから少し考えたんだけどさ、もしかして秘書課の森野さんとか?」
「は? んなわけないでしょ……」
「ええ? 絶対そうだと思ったんだけどなぁ……可愛いだろ、あの子。じゃあ誰。社内の人?」
「社内ですけど……」

何故こんなことを聞くのだろう。
いくら話題がないにしても、こんな慣れない恋愛トークを続けるなんて先輩らしくなかった。俺相手に必死に会話をしようとしてくれなくても、沈黙のままでも良いのに。
それに秘書課の森野さん……とやらのことを、先輩は可愛いと思っているのか……?
先輩の出す話題に段々苛立ってきた俺は、言うつもりのなかったことをふと口にしてしまった。

「……もしも」
「ん?」
「……もしも俺の好きな人が先輩だと言ったら……先輩はどうしますか……?」

そう告げた瞬間、先輩の表情が消えた。

…………あ。

聞いてしまってから後悔する。
心臓がキリキリと痛みだす。
なんでこんなことを聞いてしまったんだろう?
伝えるつもりはなかったのに、勢いでこんなことを言ってしまうほど冷静さを欠くなんて。
先輩は少し考えた後、真顔で口を開いた。

「……そんなの『好き』じゃないと思う。自分で言うのも変だけどさ……それは『憧れ』とか、そういうのなんじゃないか? 恋愛は男女でするもんだろ?」

一瞬にして、俺の視界がモノクロに切り替わってしまった気がした。
そこにぼんやりと靄がかかって、目が見えなくなってしまうような絶望。

「…………嘘ですよ。そんな真剣に答えてくれなくていいですから」

想像より何倍も傷つく言葉の嵐を浴びせられ、頭が真っ白になりながらもそう言うのがやっとだった。

「冗談なのはわかってるんだが……あまりそういうふざけたことを言うもんじゃないと思う」

俺は精一杯の笑顔を作って「すみませんでした」と謝った。
居たたまれなくなり、初めて先輩より先に休憩所を後にした。

その日はそれから会社で、先輩と二人で話すことはなかった。
先輩は俺のことをチラチラと見ていたけれど、あまりの恐怖にとても目を合わせることは出来なかった。
先輩のことが好きだと、悟られないように、悟られないように、慎重に生きてきたのに。
俺は自分の気持ちを隠すのが得意で、だからこそこんなにも先輩の近くに居られて、仲の良い後輩という立場を手にできたのに。
それを自分から台無しにしてしまったのだ……。

勤務時間が終わり、俺は街中をふらふらとあてもなく歩き回っていた。
噴水前のベンチに腰掛け、仕事帰りのサラリーマンや、アイスを食べながら歩く学生を眺める。
嫌でも考えごとをしてしまうので、家に一人でいたくなかった。
今晩どうしよう……ずっとここに座ってたらおかしい人みたい……でも家に帰りたくない……と、ぐるぐる悩んでいると、ちょんと肩を叩かれる。

「あの。お一人ですか?」
「え……」
「えっと……よかったらどこか飲みに行きませんか?」

帽子を目深に被った怪しい男に声をかけられた。
キャッチだろうか……宗教の勧誘? 俺はそそくさとその場を去ろうとしたけれど、強い力で腕を掴まれてしまった。
あ、この腕を掴まれる強引な感じ、昔の先輩みたいだ……なんて呑気なことを考えている場合ではない。キャッチ、勧誘だとしても腕を掴むほどしつこいなら、本気でお断りを入れるしかない。場合によってはちょっと怒る……。
俺はもう怒るつもりで勢いよく振り返った。しかしその怒りは、口から出ることなくすっと消えてしまった。

「あ、す、スミマセン突然。でもちょっと待って、変な勧誘とかじゃなくて、単純にカッコイイなって思ったから声かけただけなんだよね……」

帽子の下から男の目が覗く。
意外に幼い顔をしていた。年下だろうか。
顔立ちが整っていて、少し……高校生時代の先輩に似ていた。

「俺約束すっぽかされちゃって、一人なんだ。良かったらどこかでお話だけでも……あ、俺ニシノっていうんだ、あなたは?」

その男は、俺が怪しんでいることに勘付いて慌てて名乗った。
それがおかしくて、俺は、ふっと微笑んだ。

「俺は丹生谷。いいよ、どっか行こう」
「んん? え、本当にいいの……?」

突然OKされたことに、ニシノくんは驚いていた。
話を聞くと、ニシノくんは俺より二つ年下だった。男をナンパをするのは初めてだという(本当かどうかは疑わしい)。
よく見るとあまり似ていないのだが、雰囲気や仕草、話し方、表情が先輩と似ている。
ニシノくんと話していると、まるで高校時代に戻ったみたいな懐かしさを覚える。
でも俺が先輩とタメ口で話すなんて、なんだか不思議な感じ……まあ当時から生意気だったから、ちょいちょいタメ口きいてたけど。
二人でオシャレな個室のカフェに入って様々なことを話した。
お互いの仕事とか趣味とか、他愛もない話ばかりだったが、まるで昔からの知り合いみたいに話しやすく、気がつけば一時間も二時間も経過していた。

「あ……っと、もうこんな時間だけど。この後、どうする?」

ニシノくんは少し黙った後、俺の顔色を窺うように言った。
その表情だけで俺は、ニシノくんが何を言いたいのかを悟った。

「……えーと、丹生谷くんさえよければ……」
「……いいよ、どっかで休もうか」

俺はその夜初めて、出会ったばかりの男とホテルに来た。
それもなんとなく先輩に似ているからという単純な理由で。
本当に誰でも良いから、そばにいてほしかった。一人になりたくなかった。

――初めてのホテル。
緊張でガチガチに震えあがり、やめとけば良かったかもしれないと後悔すらしていたが、ニシノくんは無理矢理にはしようとせず、ずっと隣に寝転んで話を聞いてくれた。
好きな人がいるとは言わなかったけれど、先輩の愚痴を嫌というほど聞かせてしまったのでバレているかもしれないし、初対面の人に対してこんなことを聞かせるなんて申し訳なかった。
しかしニシノくんは、「よければこれからも会ってほしい。何回か会って気が合えば、真剣に付き合ってほしい」とまで言ってくれた。

本来ならこんな、優しい人と一緒になるものなのだ。
恋愛漫画だってそう。憧れの王子様よりも、近所の幼馴染と結ばれるような、手の届く範囲でありふれて、平凡で、安心できるラストがあるはずじゃないか。
それでも……やはり俺は、あんな酷いことを言われ、一ミリの希望もなくなっても、取り憑かれたように先輩のことだけを考えている。
ニシノくんと寝ている時だって、ニシノくんのその瞳に、先輩の瞳を重ねていた。そんな最低な男なのだ。
ただ今夜気を紛らわせたかっただけで、誰かのものになれる資格もないし、なる気もなかった。

気付けば夜が明けていた。
結局添い寝だけで、他には何もしなかった。
悪かったので、ホテル代は俺が全額出した。

「ごめん、折角声かけてくれたのに、何もできなくて……」
「いや、いい。はっきりそう言ってもらった方が嬉しい。でももし、まだ俺に可能性があるなら、また連絡して欲しい……」

別れ際もニシノくんは笑っていた。
笑いながらも、なんだか泣きそうな顔をしているなと思った。
それは……俺もつい最近、同じような表情をしたことがあるからだった。



 ◇

昼休憩の時間になった。
俺は重い足取りで、屋上へ向かった。

しかし屋上には俺一人だった。
先輩が、いない。
ここで一人でカレーパンを食べる日が来るなんて。
俺はきちんとここへ来たのに、先輩は逃げるんだな。
それとももう、こんな気持ちの悪いことを言い出す後輩とは一緒に食事をしたくないのかもしれない。
そう思われたなら、仕方がない。俺にできることは何もない。
社会人になって、学生の頃のように人と喧嘩することはなくなったと思う。気まずくなったら離れていく。仲直り以前に、喧嘩すらしなくなるものだ。

今日は快晴なのに、一時間の休憩中、先輩が屋上に顔を出すことは一度もなかった。

先輩は社員食堂で昼飯を食べていたらしい。
先輩ファンの女性社員が「珍しいよね」と騒いでいたのですぐにわかった。
そして女性社員達は俺のデスクのすぐ近くで、こんな話を始めた。

「噂で聞いたけど、真島さん、結婚するんでしょう?」
「そうらしいね。相手の人が羨ましいなぁ」

その噂は、真実かどうかはわからなかったが、俺の手を石のように動かなくさせるのには十分だった。

「…………」

何故俺に、何も教えてくれなかったんだろう……。
仲の良い、先輩と後輩のはずだったのに。
もっともっと早くに「恋人がいる」と聞いていれば、ゆっくりと長い時間をかけて、先輩のことを諦められた。
それとも最初から、俺なんて信頼に値しなかったのかもしれない。
最初から、「自分のことを好きな気持ち悪い奴」という不信感を抱かれていたのかもしれない。だとしたら先輩は……とても隠すのが上手だけれど。

今日は珍しく残業がなかったが、重い足取りで会社の出口に向かう。
たまたま退社時間が被った先輩が、こちらを向いた。
無視して出ようとしたが、話しかけられた。

「……なあ、今日これから飲みに行かないか?」
「いやです」
「昨日のこと、謝りたくて」
「何も謝ることなんてないですよ。先輩は間違ったこと言ってないし、俺だってタチの悪い冗談を言っただけなんですから」

俺は素っ気なく先輩の隣を通り過ぎようとしたが、次はぐいっとスーツの裾を掴まれる。

「何ですか」
「……頼むよ」
「…………」

死ぬほど……なんて、幼稚な言葉を使いたくなるくらいに死ぬほど大好きな先輩に、こんな目で見られたら、それ以上拒否できなかった。
なんで三十路のおっさんに上目遣いされて、こんなドキドキしなくてはいけないのか。自分がアホらしく感じた。



俺たちは会社から少し遠い、個室の居酒屋へ向かった。
会社の近くの店だと、しょっちゅう社内の人間に出くわすからだ。
遠くの店をわざわざ選ぶ辺り、先輩は、誰にも聞かれたくない話をこれからするんだろう。
そしてそれは、俺にとって絶対に良くない話なのだ。
水曜日なので、居酒屋はガラガラだった。
先輩は店員に対して愛想よく「生二つ」と言ったが、店員が去り、俺に向き合った時は真顔だった。

「昨日は悪かった」
「……もういいですよ、そんな何回も謝らなくても」
「あれから少し考えた。お前は、あの……同性が……男が好きってこと?」
「…………」
「だとしたら俺はお前に、酷いことを言った」

すぐに生二つが運ばれてきて、会話は一度止まった。
とりあえず乾杯をし、今度は俺から切り出した。

「……それよりも先輩、聞きました。ご結婚されるんですね」
「……その噂どこから流れたんだ?」
「社内の方に偶然聞きました。なんで俺に……教えてくれなかったんですか」
「あのな、あれは……」
「いや、良いんです。先輩が俺に報告してくれなかったことなんて、どうでも」

自然と口調が強まる。
こんな、攻撃的な言い方をしたいんじゃないのに。
先輩おめでとうって、たった一言、言えたらいいのに。
俺の身体は心とかけ離れ、伝える気のなかったことばかり繰り出す。

「……あの話は、本当ですよ」
「え?」
「入社した時からずっと……いえ、高校生の時からずっとずっと、十年以上も先輩のことが好きでした。流石に会社が同じなのは偶然ですけど、会社で先輩を見た時は運命を感じてました。気持ち悪いでしょ」

先輩は驚いたように目を見開いた。
二十八にもなって、泣くのを堪えるので精一杯だなんて情けない。
これ以上ここにいたら、確実に泣いてしまうと、俺は席を立った。

「先輩……なんでベースやめちゃったんですか」

聞こえるか、聞こえないかくらいのボリュームで本音が漏れる。
その言葉は居酒屋の喧騒に掻き消された。
先輩が今でも音楽をやっていれば、今とは違う未来があって、違う関係があったのかもしれない。
いや、それも俺の想像でしかないのだろうか。我儘なのか、自分勝手な考えなのか。
先輩は何も言わなかった。
俺はビールの側にお金を置いて、店を出た。

見慣れた夜の街並み。時刻は十九時。
楽しそうに歩く、会社帰りの人々。
俺の視界は涙で霞む。

……好きでした。
そう、もう過去のことにしなければ。
俺も潔く、前に進まなければ。
携帯を開き、もう二度と掛けることはないと思っていた番号をプッシュすると、ワンコールもしないうちにその人は電話に出た。

『もしもし!?』
「あ……勝手でごめん……ちょっと会えないかなと思って」
『いや、嬉しい。今から車で迎えに行っていいか?』
「うん、お願い……」

電話の向こうの声はとても嬉しそうで、俺も少しだけ嬉しくなった。
街で出会ったニシノくんとは、一夜限りの関係になるものだと思っていた。

「仕事中じゃなかったの?」
「いや、さっき仕事終わった」
「そっか。タイミング良かったんだね」
「うん、えーと……どうする? 晩御飯まだか?」

優しいニシノくんは、何も言わない。
俺が抱えている黒い感情を、気にするそぶりも見せなくて、今の俺には有り難かった。

「どこかで食べて行こうか」
「ん……」

近くのレストランで食事を済ませた。その間も、ニシノくんは今日あった面白い出来事を話してくれて、俺の気を紛らわそうとしてくれていた。
帰りの車の中で、俺はニシノくんに「あなたさえ良ければ、俺と付き合ってほしい」と、小さな声で呟いた。
彼は嬉しそうに頷いた。
赤信号で停車した時、俺は彼を、ぎゅっと抱きしめた。
自棄だった。
俺らしくない、焦った選択だったけれど、不思議と後悔はなかった。
「先輩の代わりにしてしまった」という罪悪感に押し潰されそうでも、それは今だけだ。
この人のことを、本気で好きになれば良い。
これが……これが例え長続きしない恋であったとしても、少しでも先輩のことを思う時間が減ることを願おう。

俺は穏やかな恋を選んだ。
遂に、他の人たちと同じように、まともな恋愛をするようになった。
ニシノくんはやっぱり優しい。俺が一人になりたい時はそれを察して連絡してこないし、人肌恋しい時は他愛もない話題の連絡をくれる。誰かの声を聞きたい時にはタイミング良く電話をくれる。

理想の彼氏……理想の恋というやつだろう。
俺たちの時間は、静かに平和に進んでいった。

「……もしもし?」
『もしもし。突然なんだけどさ、俺料理得意なんだよね。もし今晩暇なんだったら晩御飯作りに行ってもいい?』
「うん、ありがとう」

彼と話していると、気が紛れるし、趣味も合うから楽しい。
一緒に食事を作ったり、特にすることもなくて適当にDVDを見たり、ゲームをしたり……そういうありふれたことに憧れていたから。

「……すごい、美味しい」

俺は出来上がったアクアパッツァの味に感動していた。

「本当? 嬉しい!」
「俺も料理半分手伝ったからかな」
「はいはい、そうかもね」
「料理するの好きなんだ?」
「うん。会社にも手作りの弁当毎日持って行ってる。そしたら皆に愛妻弁当とか言われて気まずい」
「自分で作ったお弁当を愛妻弁当って言われたら、そりゃ可笑しいよね」

そんなニシノくんは時々、憂いた目をする。
俺と誰かを重ねる目を。
きっとニシノくんにも想い人がいたんだろう。
だけど俺は、それに気付かないふりをする。
だってニシノくんも、気付かないふりをしてくれているのだ。

そして俺たちは、限定の、お互いに甘ったるく、ぬるま湯に浸かっているような、短い恋をするのだ。
俺は女性を好きになることはできないけれど、その時々で幸せになることはできるから。
その相手が先輩でなくても……もう、諦めなきゃいけないんだ。



夜も更け、俺は彼を抱いた。
月の灯りだけが頼りの、暗い室内。

男同士ですることに抵抗はなかった。
こんなに簡単に入るものなのか、それともニシノくんが、準備をしてくれていたのか。

「一目見た時から、こうされたかったんだ」
「へえ……じゃあ、初めて会った時とか、すごく我慢してくれてたんだね?」
「……我慢してた。我慢してよかった」

唇を重ねる。
俺と彼の唾液が混ざり合い、恍惚とする。
この胸が熱くなるような、焼けるような気がするのは、幸せだからだ。そうでなくてはいけないのだ。
だから……。



さようなら先輩。

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