無機質な物体を目の前に置いて早一時間。時刻は既に午後11時を指していた。今日は十分リラックスして早めに寝ろ、と担任とクラスメイトの某ゴーグルくんから言われたわけだけども、わたしは今現在、リラックスをするどころか寝る体制にすらなっていなかった。
 無機質な物体――もとい携帯電話は、先ほどからうんともすんとも言わない。それはマナーモードにしているからとかそういう現実的な意味ではなく、メールや電話がひとつも来ない、という比喩である。
 もちろん、こちらから行動を起こせばそれでいいのだけれど、わたしはこのことで、一時間もの間、携帯電話を見つめていたのだった。

(メール、してもいいのかな……)
(もう遅いし、電話はちょっと、迷惑だよね)
(でも、もし寝てたらメールも……迷惑、か)

 納得しては、すぐに考えを改めて、安心できる理由を見つけて納得して、というループだった。一進一退とも言える。わたしの頭の中は連絡をしたい、でも迷惑かも、と矛盾でいっぱいになっていた。
 送信ボタンを押せば、すぐに済むことだ。「明日がんばろうね」とか、「自分の力を出し切ろう」とか、言いたいことがたくさんある。明日ではなく、今日に伝えたいことが、たくさん。

(やっぱりメールしよう)

 意を決して、送信ボタンに触れる。あとは押すだけ。よし、と呟いて押そうとした瞬間、メール画面がパッと切り替わった。
 電話画面に、番号は見慣れたもの。考えるよりも先に、手が動いた。


「もしもしっ」
『あ、良かった。こんばんは』
「こ、こんばんは……」


 いまいいか?と電話越しに言われて、首を何度も縦に振る。思わず声に出すのを忘れていたけれど、沈黙を了解とわかってくれたのか、くすり、と笑う声が聞こえた。


「風丸くん……?」
『ああ、ごめんごめん。お前の様子が、なんか、わかったから』
「え、」
『首を振るだけじゃ、電話には伝わらないぞ』
「!」


 おかしそうに風丸くんが笑うものだから、恥ずかしさがピークを迎えそうだ。ただでさえ、「もしもし」が裏がえってしまったというのに。
 メールは止めよう、と電話に耳を傾けながら思った。


「風丸くん」
『ん、なんだ?』
「電話、ありがとう」
『いいんだよ。俺がお前に、電話したかったんだからさ』
「風丸くんは、優しいね」
『そうか?』


 風丸くんの声は、安心する。低すぎなくて、穏やかで、わたしの、大好きな声。
 たわいのない話がわたしの緊張を溶かしていく。笑いあうことでわたしの不安は消えていく。風丸くんの優しさが、わたしのすべての糧になる。


『明日さ』
「うん」
『がんばろうな』
「風丸くんも、ね」
『それでさ』
「うん」
『同じ、学校に行こう』
「っうん」


 ありがとう。ありがとう、風丸くん。本当はわたしから言いたかったけれど、先に言わせちゃったね。目を閉じて、風丸くんの顔を思い浮かべる。
 手を伸ばして、届く距離にあればいいのに。いつでも、きみに会えたらいいのに。風丸くんの気遣いと人格が、わたしは心地がよくて、ほんのすこし寂しい。


『そろそろ、寝ないとな』
「うん。電話、本当にありがとう」
『電車と時間、間違えるなよ』
「ま、間違いないよ!」
『はは、嘘だよ』


 風丸くんの沈黙が、さよならの合図。


「おやすみなさい、風丸くん」
『ああ、おやすみ』
「……じゃあね」
『あの、さ』
「え?」
『お前の声が、聞きたかったんだ』
「風丸くん……?」
『じゃあ、おやすみ』


 プツッと音がして、電話が切れたのだと理解する。風丸くんの声はわずかに焦っていた。わたしは、だんだん顔に熱が集まるのを感じた。
 こんなの、反則だ。携帯電話に向かって言っても、返事はなかった。

(……寝なきゃ)

 熱に包まれて、わたしの目蓋は閉じていく。おやすみなさい、大好きな風丸くん。



▼囁いて蛍火
110324
110325 修正
拝借/落日

受験終わったよ記念。センターの前日は不安なような楽しみなような、よくわからない気持ちでした。

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