季節はまだ初夏にも入っていないというのに、今日は酷く暑かった。首まで滴る汗が気持ち悪く、タオルを首に巻き付けるという荒業でそれを防いだ。
グラウンドでは部員達が、本当に同じ気温の中に存在するのか、と疑いたくなるくらいに激しく動き回っている。ボールをキャッチ、投げる、蹴り上げる、シュート。
動いていない自分よりも、確実に暑さを体感しているはずで、汗の量も凄いのに。あたしと彼らの違いを考えたとき、思い浮かんだのは「男女の差」というつまらない答えだった。

「先輩、大丈夫ですか?」

ひょこっと、あたしの視界をグラウンドから変えたのは春奈ちゃんの顔。赤い眼鏡をかけている。どうやら、情報収集をしていたらしい。
一度パソコンを触り始めると凄まじい集中力を見せる春奈ちゃんに、心配させてしまうくらい暑そうだったのか、あたしの表情は。春奈ちゃんの指を止めてしまったことに罪悪感を感じながら、あたしは立ち上がった。「先輩?」春奈ちゃんも立ち上がる。

「ごめん、あたしちょっと水浴びてくる」
「じゃあ私も一緒についていきますよ」
「大丈夫、一人で行ってくる……あ、なんか飲み物買ってくるよ」
「本当に大丈夫ですか? ううん、じゃあお言葉に甘えてオレンジジュースを」
「了解」

タオルを首から外して、あたしは水道に向かった。
ああ暑いなあ。もうすぐ本格的に夏に入るというのに、今からこんな調子じゃ気が重くなる。明日の部活には日傘を持ってこよう。一応、サッカー部のマネージャーという立場にいるのだ。体調を崩してる場合ではない。部員のみんなはもっと頑張っているのだから。
水道の蛇口をひねると、どこに隠れてたんだろうと思ってしまうくらいの水が、一気に溢れ出した。顔を水道に近づけて、無抵抗のまま水に埋まる。残念ながら水は予想以上に温くて、爽快感は味わえなかった。
なんだか水に裏切られた気分だ。あたしは訳のわからないことを咀嚼しながら、自販機へと足を運んだ。
お金を入れ、ボタンを押すと、ガコンという音と共に紙パックのジュースが落ちてきた。オレンジジュースだと確認して、今度は自分の分を選ぶ。お金を入れ、ファンタを買おうとしたとき――誰かの指が何かを押した。ガコン。落ちてきたのは、ファンタではなく、ミルクティーだった。

「……はい?」
「せーんぱいっ」
「と、とら……虎丸」

えへへ、と無邪気に笑う虎丸の手元には、ミルクティーが握られている。どうやら、というか明らかに勝手にボタンを押した犯人は目の前にいる後輩の仕業だ。
溜め息を惜しまずに、どういうことだと言わんばかりの目で睨んでやる。「先輩、眉間に皺寄ってますよ?」逆効果だった。

「もう! なんで勝手に押すかなあ!」
「女の子は炭酸飲んじゃ駄目なんですよ」
「意味わかんないよ……あー、あたしの120円」

勝手にボタンを押したことは、まるで反省していないようだ。しかも、女の子は炭酸飲んじゃ駄目だって?
だからこのあたしにミルクティーという喉越し最悪なものを飲めというのか。こんな暑い日に。

「まあまあ、いいじゃないですか。ミルクティー、美味しいですよ」
「ミルクティーは美味しいよ。でもこういう日には向かないよ……」
「そうかなぁ」

本当に何もわかっていない様子の虎丸を見ていると、熱が再来しそうだ。身勝手な行動もお金のこともどうでもよくなり、あたしの足は再び動き出した。後ろであれ、と少し間抜けな声がするけれど、そこは無視だ。このくらい、先輩としての権限を奮っても構わないだろう。「先輩?」聞こえないふり。「せーんぱい、怒ってます?」聞こえないふり、聞こえないふり。「えいっ」えい?
あろうことか、虎丸はあたしに向かって何かを投げてきた。人間、普段あまり運動をしていなくても、自分の危機に関することには敏感になれるらしい。あたしの反射神経は虎丸が何を投げてきたかも確認しないまま、ただそれを避けることだけに集中した。

「ちょっと、虎丸!」
「なんだ先輩、俺てっきり歩いたまま寝てるのかと思いましたよ」
「ありえないでしょ! ていうか人にボール投げるって馬鹿じゃないの!」
「だって先輩俺の話聞いてくれないんですもん」

文字通り、ぷいと虎丸は頬を膨らませた。何が凄いって、虎丸はあたしよりも体格的には遥かに大きいのに、その仕草があたしより様になっていることだ。
昔から、虎丸は生意気なのにどこか憎めなくて、そして飛びっきり可愛い後輩だった。身長はあたしを抜かしてしまったけれど、やっぱり可愛いという印象は抜けなくて、先程のちょっと苛立つ出来事も、今のボールに関しても、許せてしまうから驚きだ。鬼道は少し、虎丸のこういうところを見習うべきだと思う。鬼道が愛想良く笑う姿を想像して、思わず噴きそうになった。

「わかったってば、あたしが悪かった。ごめんね、虎丸」
「でも先輩、俺のこと馬鹿って……」
「そんなの本気で思ってないよ、それに馬鹿な子ほど可愛いって言うじゃん」

本来それは男が女に言う誉め言葉だった気がするけれど、まあ良しとしよう。虎丸だし。実際可愛いし。「先輩……」虎丸の声が、いつもより2トーンくらい低くなった気がした。

「男は可愛いって言われても、嬉しくないです」
「え、でも、虎丸可愛いんだもん」
「昔からそうですよね、いっつも俺のこと可愛い可愛いって」
「可愛いものはしょうがない、ってうわぁ!」
「こういうこと、されても?」

どういうことだ。どうして、虎丸の顔が、目の前に。あたしの両手は虎丸の両手にがっちりと固定されている。身長差もあって、虎丸が屈みこんでいるせいで周りからあたしは見えない仕組みになっている。何故ならあたしの後ろは壁、今は部活中。この通路を使う人は、恐らく、いない。なんて少女漫画チックな展開なんだ。虎丸の出方がわからない以上、呑気なことを考えて気を紛らわせるしかない。

「先輩、俺だって男です」
「わかってるよそんなこと」
「いーやわかってません。俺だって好きな人の下着が透けて見えたらドキドキします欲情します」

下着という一言に、あたしの意識は即座に自分のブラウスへと移動する。そこには虎丸の言った通り、ピンクの水玉が浮き上がっていた。多分、水を思いっきり浴びたときだろう。あのとき、顔は拭いたけれどブラウスは拭いていない。どうしよう、と悩むのは手遅れな気がした。虎丸の両手は、相変わらずあたしを固定している。

「虎丸、手……」
「いやです。言ったでしょ、俺、いま、先輩に欲情してます」
「こ、高一には刺激が強いだけだよ」
「違います……あーもー、先輩」

やれやれといったように溜め息をつく。先程のあたしもこんな感じだったのだろうか。なら虎丸に謝りたい。確かにこれは、子供扱いをされている気がする。
しかし、それも大事だが虎丸の腕から逃げる方が今は大事だ。精一杯、冷静なふりをしているけれど、実際はもう限界だ。虎丸の口からは、あたしを発熱させる魔法みたいな言葉しか出てこない。
虎丸の顔がだんだんと近づいてくるのがわかる。恥ずかしい。こんなに顔を急接近されたのは、初めてだ。「俺は先輩のこと、ずっと女の子として見てきたんだから」わかってください、と言いながらそれは当然のように、行われた。
暑い。酷く暑い。けれど、いま暑いのは確実に気温のせいではない。あたしの右手に掴まれたままのオレンジジュースと、虎丸の右手に掴まれたままのミルクティーは、きっと水道水と同じくらい温くなっているだろう。春奈ちゃんと鬼道への言い訳を考えながら、あたしはぎこちない手付きで、大きな後輩を抱きしめ返した。



100429
拝借/落日
爆発さんへ(イチマンダーフリリク)