「楽しんでる?」
「…」
「…佐藤くん?」
「楽しいなんて…」
「…?」
――――
初めて経験した裏切りは両親の離婚だった。僕が幼い頃、父が女を連れてどこかへ姿をくらましたらしい。僕が最後に2人揃っているのを見たのは母が父の後ろ姿をただぼうっと眺めていた時だった気がする。当時の僕はそれを見ながら笑顔で父親を見送った。行ってらっしゃい、と。父が振り向くことはなかった。
それから母は言うまでもなく荒れ狂い、何も知らなかった僕にたくさんの痛みを教えた。
――ねぇ、お母さん。お父さんはまだ帰らないの?
――うるさい!なんで子どもはこんなにうるさいのかしら!?さっきから知らないって…っ!…いい?お父さんはね、
――…え?
暴力に怯えながら日に日にやせ細っていく母を見て僕の心に傷が刻まれたのは想像に難くない。母はやがて、3度目の裏切りを僕に与える。僕が9回目の夏を迎えようとしたあの日、母は祖母の家のある一角で自害した。
――僕は、笑えない
中学生になって初めての秋、僕は恋に落ちた。特別可愛いわけではないけどクラスのムードメーカーでよく笑う子。でも、母の件以来、愛想も無く無表情で学校生活を送っていた僕には身に余る感情だったらしい。
――佐藤君?あー…、ダメダメ。あの人笑ったりしないから怖いじゃない。
――え、怖いの!?
――えー…、付き合えばいいのに。まぁ、根暗だし嫌な気持ちもわかるけど。
――私はね、高望みしないから優しくて明るい気分にさせてくれる人がいいなぁ。
僕はメガネをコンタクトに変え、よく笑顔を貼り付けるようになった。愛想よく、一人でも十分生きていけるよう。
――え、嘘!佐藤くん!?
――キャー!ヤダ、カッコイイ!
――僕は、―…
置き去りにされた僕の心は感情に染まることを止めた。忙しなく動いていたあの頃の心臓は今は一定のリズムを刻んでいる。時々誰かに溶かされるように優しくされて飛び跳ねるも心臓を縛る錆び付いた鎖が解かれることはなかった。
――――
高校を卒業して大学に進学するための金を稼ぐからと親代わりの祖父母を説得し僕は一年浪人した。(本当は、少し疲れただけで金を稼ぐ云々はただの口実だった。祖父母はそれを見抜いていた。成績優秀で学校生活を終えた僕が浪人するのは許せなかったらしい)そして去年の冬に僕はこの大学――紫野月大学から合格をもぎ取った。偏差値は低くもなく高くもない。特に学科は無く、講義はいろいろな科目があり、好きな科目が選べるという前代未聞な感じになっている。そういつところがいいのかこの大学は所謂マンモス校だ。
そんな大学でも僕は浮いていた。入学して間もない頃、すぐにあの笑顔が可愛いだの、時たまに見えるあの冷たい表情がカッコイいだのと噂され一躍有名となった。どこから漏れたのか、ただの偶然と片付けるにはあまりに大雑把に思えるくらい僕が受ける講義はいつも席が大体埋まっているし、極稀にカバンの中に見覚えのない手紙が入れられていたりする。ひっそりと学生生活を送りたかったからマンモス校を選んだのに、とたまに笑顔が引きつることもあった。