「小平太、すまん。おれは、おれはお前と共に行きたいと思った。六年間を全部無駄にして、お前と一緒に、どこかへ行きたいと思った。でも、こへいた、おれ、駄目だ。裏切れない。学園を置いて行けない、こへいた、」
 小平太、と痛切な声が夜を裂いた。潮江の手が震えている。熱を持った指先が、七松の、もう冷えかけているそれを温めた。潮江の吐息がわななく。
「小平太、おれを、殴ってくれ。おれは臆病者だ。忍とお前を天秤にかけて、お前を取る事ができない男だ。小平太。頼む。」
 おれは忍になりたいのだ、と、潮江が、七松と繋いでいた手を振りほどこうとする。七松が指に力を込めてそれを拒んだ。潮江が、眉を下げる。俯いたその顔は、陰が落ちて暗い。七松は、まだ黙っていた。唇の内で真珠色の奥歯が噛まれている。歯を食いしばって、彼は、腹の中で荒れ狂う獣を何とかして抑えようとしていた。
 潮江がこう言う事は最初から分かっていた。今までの寝物語にも賛成してくれた事はなかったのだ。しかし、ここまで来たのだから、もしかしたらこのまま自分と逃避行をしてくれるやも、と彼は僅かに期待していたのだった。勝手に期待して勝手に裏切られたと落ち込むのは愚かな事である。七松は賢しい男であった。彼は内に獣のような野生を持っていたが、それを飼い馴らすだけの度胸と精神も同時に持っている。彼は、人の部分で潮江の事を愛しく思っていたのだった。
 潮江は、忍になるであろう。七松もそうだった。任務で人を騙して、傷つけて、裏切って、殺して、汚泥に塗れた最期を迎えるであろう。潮江はそれを望んでいた。感情ではそれを止めろと言いたかったが、七松にそれを止める権利はなかった。例え恋仲でも、そこは口を出してはならぬ所であった。
 目の前の潮江は、彼らしくもなく俯いて震えている。自信を失くして立ち竦む彼を前にしてやはり愛しいと思って、七松はようよう腹に溜めていた重い溜息を歯の隙間から吐いた。沸騰した薬缶を火から下ろしたように、腹の中の獣が大人しくなる。空を仰いで、七松は一度大きく深呼吸をした。優先すべきは己の我儘ではないという事が、清冽な夜気と共に改めて臓腑に沁み入る。肺の中の空気をすっかり入れ替えて、七松は己の頬を張った。
 肌を叩く音に、俯く潮江の肩が怯えたように震えた。しかし、潮江の顔を見る七松は、憑き物が落ちたような明るい顔をしている。それは七松本来の、明るく、どこにでも道を見つけ出す開拓者の顔であった。彼は、潮江のその融通の利かない部分も、自分の気持ちより義務を優先する所も、全てひっくるめて好きだったのである。伊達に六年間も一緒にいた訳ではない。その上、ほぼ二年間も、喧嘩し、話し合い、口づけを交わし抱き寄せ、肌を重ね合った仲である。こうなるであろう事も分かっていた。なら、悲しむ事はないのである。潮江は既に禁を破って七松に溺れていた。これ以上望む事はない。
 愛しい男は、親に怒られるのを待つ子供のように怯え、震えていた。
「良かった。」
 軽く、七松の声が夜気に溶けた。潮江が、はっ、と顔を上げる。七松は微笑んでいた。彼の向こうに、黒々と陰を落とした山が横たわっている。夜の山を背景にした七松は、恐ろしい程大きく見えた。毛先が痛み、あっちこっちに跳ねた髪が、薄まって来ている夜に溶けて黒く沈んでいる。冬の大気の揺らぎが、幽けき風となって七松の髪を攫っていった。
「文次郎が学園を捨てるような奴じゃなくて良かった。一緒に逃げたかったのも、勿論本当だけど、でも、文次郎が先生や皆を裏切るような奴じゃなくて、やっぱり良かった。」
 うん、良かった、と七松が、鎖から離れる方に、一歩を進めた。潮江に一歩分近づいて、繋いだ腕が撓む。脚元の、枯れ草に降りた霜が踏まれて、小さな音を立てた。潮江が、眉を八の字に下げる。皿のような目の下瞼のあたりに、涙が溜まっている。それは、自分を不甲斐無く思っている顔だった。彼は、己を捻じ曲げて本当に七松と逃げようと試みたのだ。その事がありありと素直な表情から伝わってきて、己は愛されているのだ、と腹から幸せな震えが湧き起こる。





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