足袋は雪を踏んだ所為で色を濃くしている。足指はもう冷えて感覚が無かった。ばたばたと、布が重なって思い袖が、冷気を孕んで揺れる。どこまで逃げても、首筋の産毛を剃刀のような焦燥感が舐めていた。足が山の大地を踏みしめる度に、硬い地面から押し返され、跳ね飛ぶように速度が上がる。肺いっぱいに夜の空気を吸いこむ。胸郭が膨らんで、口腔の中に風が渦巻いた。腕が空を切る。髪が風に嬲られて靡く。振り返れば、硬い表情の潮江が揺れる瞳で、それでも真っ直ぐに七松を見ていた。
 鼻の頭が真っ赤になっている。八重歯の尖る口から白い息が吐かれた。こへいた、と音もなくその口が名前を呼ぶ。七松はそれから目を背けた。
 膝下に、葉の落ちた茂みの枝を折りながら、彼は速度を上げた。潮江の腕が引っ張られて伸びる。何度か雪の乗った岩で滑りかけたが、彼は脚を止める事をしなかった。もうすぐ、学園の広大な敷地の北端に立つ。ここは、この辺りで一番高い山だった。一年生など来た事もないであろう、競合地域ではあるが、罠の一つもない山であった。その頂上付近まで来て唐突に、木と藪ばかりであった視界が開けた。斜面にいきなり現れた草原は狭い。枯れた草が七松の踝のあたりで音を立てた。原の端には、岩があった。その根元には、細い鎖が引いてある。忍術学園と外界の境界線だった。七松の瞳が濡れて光る。透明な星の光が、真っ直ぐ二人に降りて来ていた。暗い中でその境界の岩は、重く沈 んでいる。それを見ても、七松の脚が鈍る事は無かった。原を横断し、岩の鎖の向こうへ逃げようとする。
 しかし、その鎖を超える寸での所で、腕が強く後ろに引かれた為に、彼は立ち止らざるを得なかった。いや、腕を引かれたのではない。後ろに居た潮江が、脚を止めたのだ。
 七松が驚いた表情を隠さずに、潮江を振り返る。ぴん、と繋がれた腕が伸びた。七松が前に出した足を後ろのそれに揃えた事で、腕が弛む。かじかんだ指先は、じんじんとして痛い。七松が、駆けようと浮かせていた踵を地面に下ろした。二人共、肩で息をしている。ひっきりなしに白い息が立ち上っていた。手は繋いだまま、二人はしばらく無言で呼吸を整える。荒い呼吸音だけが、耳に痛い程の静寂に響いていた。目が合った潮江のその瞳は、陰になっていて黒い。潮江が、硬い唾を飲み込んだ。
「…行けない。」
 七松が恐れていた一言が、乾燥した唇から確かな音として放たれた。七松が悲痛に顔を歪める。潮江の目は、真っ直ぐに彼を見つめている。潮江はいつも人の目を見て話す。それは、どんな話題であっても、暗闇でも変らない癖だった。
「おれは行けない。」
 絞り出した声は歪んでいた。潮江自身も、戸惑っているようだった。七松に叩き起こされ、夜中に走り出してから、彼は一度も七松に制止の言葉を掛けなかった。彼は、口では卒業後の進路の事をはしこく喋っていたが、常々、心のどこかで七松と共にありたいと思っていたのだ。腕を引かれて、逃げよう、と言われた瞬間、このまま二人でどこかに行くのも悪くないと思ったのだ。彼は七松の誘いに乗った。しかし、潮江はそれを成すには余りにも生真面目な性質を持っていた。彼にとって、規則を厳守する事はごく普通なのである。呼吸よりもそれは簡単で自然で、そして融通が利かないものであった。
 ここまで来て脚を止める事が、七松にとってどれ程の苦痛になる事か、潮江は知っていた。それが肺を締め付けて、泣きそうな声を作る。守るのが普通であった規則を破って捻じ曲げて、潮江は七松を好いた。ならば、もうそれ以外には違反してはならない。潮江はそう思っていた。それは常の習い性から来たもので、もう彼の意思とは全く違う所で、責務として自分から自分に与えられた命令だった。
 跳ねまわる鼓動が段々と収まって来る。冬の最中を走った為に、肩から薄く湯気が立っていた。潮江が首を振る。
「小平太、すまん、おれは、学園を捨てられん。」
 どうしよう、小平太、と潮江らしくもない引き攣った声が喉から溢れた。自分でも己の中の感情を 把握しきれていないらしい。潮江の目は不安げに揺れている。星明かりが濡れた目の表面にちらちらと光って見えた。七松は黙っている。硬く結ばれた唇から息は漏れない。





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