夜の山を、七松と潮江が駆けていた。卒業間際の、厳冬の頃である。
夜明けが近かった。もうそこは広大な学園の敷地の端である。地面に薄く積もった雪が音を吸ってしまっているのだろう、夜の山は静かだった。二人の足音と息だけが、空気を揺らしている。しん、と、冷え切った剃刀のような冬の大気を裂いて、彼等は無言で走っている。凍った岩を踏みしめ、霜を折り、下草の雪を蹴散らして二人は進む。七松が先導をしていた。月も大分傾いだ深く暗い森林の中で、吐く息が白く尾を引いている。鼻の頭が冷えて辛い。粘度のない鼻水が出ているようだが、啜るには鼻の感覚が失せていた。耳が千切れるように寒い。頬が冷気に張って痛かった。繋がれた手だけが、熱を持って熱い。
 七松と潮江は恋仲だった。それは三年の末から四年の中頃あたりに双方に生まれた感情で、四年の暮れには堪え性のない七松が潮江に告白していた。一時は酷く悩んだものの、潮江もやがてそれを受け入れた。そうして二人はそれからずっとお互いを愛しく思ってきたのである。
 奔放で何にも縛られない七松と、規則と義務に従う事を至上とする潮江は一見するとちぐはぐなようだったが、好きな物をとことん突き詰める性質は似通っていた。その、好きなものがお互いになったのである。遠からず惹かれ合ってのめり込むのは目に見えていた。
 七松は、我慢から最も遠い性格の男であった為に、時も場所も関係なく、好きだと思った時に潮江にそれを告げている。規則に厳しい潮江は、初めこそ三禁だのなんだの言っていたが、七松への思いを腹に溜め過ぎて胃に穴をあけてからは、大人しく抱擁をねだったりしていた。彼等は、潮江が素直になってからは、それなりに仲の良いカップルとして周りからは認知されている。七松が犬のように笑顔で潮江にじゃれる為に、犬と飼い主だの、動物の番だの言われる事もあったが、それらは愛のある悪口だった。
 潮江は七松を心の底から好いていた。生まれて初めて感じた恋だの愛だのいう感情は非常に厄介で持て余すものだったが、七松に受け入れられてからはその重さも心地良いものだった。彼はその真っ直ぐな性質故に、心の底の底から嘘偽りなく七松を愛しく思っていた。周りは七松の方が潮江の事を大切に思っているように捉えがちだが、潮江も彼なりに七松を思っていたのである。
 四年の暮れから付き合い始めた二人は、五年の一年を甘く過ごし、そして、最高学年へと進級した。仲は相変わらず良好である。しかし進級から半年以上が経過すると、今まで霧の向こうにあった卒業の二文字がはっきりと見えてきた。そして七松は、六年の夏が過ぎたあたりから、潮江と何処かへ逃げたいのだと零すようになった。
 彼は、迫る卒業に耐えられなかったのだ。七松は常々、どこかへ行ってしまいたいと潮江に言っていた。それは何人にも縛られたくないという彼の中の野生の奔放さと、潮江に対する独占欲からなるものだった。誰も知らない所へ行って、そこで二人で暮らせたらどんなに良いだろう、と彼は事後の寝物語でよく語った。それは到底叶うものではなかったが、七松の中にいつもあった願だった。彼は、男にも女にも、忍者という生き方にも、彼の未来の同僚にも、敵にも、味方にも、時間にも、距離にも潮江を奪われたくないと思っていた。お前を食ってしまいたいよ、と七松はしょっちゅう潮江に零していた。
 七松は我慢が嫌いである。それが必要な忍耐なら彼は大人しくしているが、理由が明確でなく、また理不尽なものであれば、全力でそれを無視する。彼は理性で己の中の獣を抑える事ができるが、そうする事は非常に稀だった。
 そして冬になり、それまで真綿で首を絞めるようにじわじわと迫っていた卒業の気配が、正月明けの冬の冷気と共に一気に七松を襲って来たのであった。夜中に、布団の中でふと長屋の見慣れた天井を見て、彼は己に残された日数に愕然としたのだ。卒業まであと幾らもない。それは空恐ろしい事だった。潮江がどこかへ行ってしまう。自分のこの手の中から、潮江が消えてしまう。
 あれは強い男である。七松が居なくとも、生きていけるだろう。彼は、どんな危険な任務であっても喜んでこなす。前線に出たがる質からして、戦死する可能性も高かった。それに、彼は忍らしくもなく武勇を貴ぶ気がある。誇りの為に死ねと言われれば二つ返事で腹を掻っ切るであろう。彼は上から与えられる命令に忠実である。任務であれば男とでも女とでも寝る。自分以外の男の下で甘く鳴く潮江など、想像したくもなかった。また、任務で抱いた女と懇意になる忍は少なからず居る。いずれどこかの町の女と良い仲になるかもしれない。契りを結ぶかもしれない。子を成すかもしれない。七松を忘れるかもしれない。それらの想像は、酷く現実感を持った恐怖として彼の背筋を凍らせた。
 そして、矢も盾もたまらず、七松は布団を跳ねのけて、衝動のままに潮江を連れ出したのである。





「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -