井戸の傍らに見覚えのある輪郭の影を見た瞬間、帰ってきたという実感が急に沸いた。粘度の高い泥が全身纏わり付いているような感覚は拭えないが、安堵に似たものが胸に滲む。
 数日に続く実習で重ねた疲労と心のささくれが、足取りを重くしていた。



 実習、忍務から帰還すると、表面的な汚れを落とす為と冷水で気持ちを切り替える為に、まずは井戸に寄る習慣がある。それを知った小平太が俺を井戸で出迎えるようになったのは、ただの“友人”よりも深い間柄になってからだと記憶している。
 まめなもので、小平太は自分の実習が控えていたり委員会活動がない限り、学園にいるときはこれをかかさないのだ。俺はいついつに帰ってくるだとか言いはしないのに、いつも何処からか聞き付けて井戸に待機しているのだから面白い。
 まあ、どうせ仙蔵あたりだと推測はつく。



「もーんじろォッ」
「でけえ声出すなバカタレ」

 闇に慣れた目が互いの表情の判別がつく距離まで近づくと、小平太がぶんぶん手を振る。更に近づいて、小平太の足元にさして大きくはない桶、その手の中に手ぬぐいがあるのに気付いた。

「おかえり!」
「ああ、ただいま」

 短く言葉を交わすと小平太はしゃがみ、桶を持ち上げて井戸の縁に置いた。桶の中で水が跳ねて月明かりを反射した。ちゃぷん、中に魚でもいるような水音がした。

「さっき水汲んだばかりだぞ」という言葉に軽い礼の言葉を返し、手の汚れを服で拭って早速水に手を突っ込む。確かに、汲まれたばかりだろうよく冷えた水だ。
 掌に掬った水を、前髪が濡れるのも構わず顔に叩き付ける。秋半ばのこの時期の水は、夜にもなれば既に真冬の頃と変わらないほど冷たく、疲労感で重い体に心地好い。
 何度か繰り返し顔を洗う。顔を上げると、滴る水が頬を伝い顎に届いて、胸元の緑を深い色にした。小平太が差し出した手ぬぐいを受け取り水を拭き取る。



 まだ月は一番高くに上りきってないが、今日はもう寝てしまおうか。濡らした手ぬぐいで体を拭くだけで済ませて、布団に潜り込もうか。
 実習は情報操作が主な内容だったから運動量はたかが知れてるというのに、どうにも体が重くてならない。動くのが億劫だ。吐き出す息も自然と重い。実習にかまけて鍛錬を怠ってしまったせいなのか?だとしたら、それはあってはならないことだ。



「あっ?」

 ふいに小平太の手が伸びて、俺の顎辺りでもぞもぞ動く。
 衣擦れがして頭巾の結び目が解かれ、しゅっと頭巾を引っ張り取られた。間髪入れず今度は俺の頭に手が伸び、片手には俺の頭巾を握ってもう片手で髪を掻き混ぜだした。

「ちょ、なんだ、こら!」
「よーしよしよしよしー」

 別に今更髪型がどうとか気にしやしないが、あっという間に頭がぐしゃぐしゃにされていくのが分かる。
 小平太の言葉から察するに、もしかすると小平太としては、世間一般で言うところの頭を撫でる行為に準ずるのかもしれない。如何せん力は強すぎるが。
 最後に微妙に濡れている前髪を掻き上げられ、軽く頭を叩かれた(これはちゃんと力加減が出来ていた)。小平太はいつものようににいっと笑う。この間小平太からの口からは「よしよし」の繰り返ししか出てこなかった。

「……なんだよ今の一連の流れは」
「文次郎への労りに決まってるだろ」
「いつもはしないのにか?」
「んー、今日の文次郎は特別疲れてるみたいだからな」

 ……労りか。
 これしきの実習内容で小平太が特に気にかけるほど疲れが出るとは、やはり多少鍛錬を疎かにしていたに違いない。直ぐさま裏山にでも鍛錬に出るべきところだろうが、流石に実習後の自主鍛錬など疲労で効率が悪いと知っているので、明日に必ず実行しよう。
 それはそれとして、恋人が自分の変化を感じ気遣ってくれるのは、少し気恥ずかしいながらも素直に嬉しい。俺はその辺の気が利かないが、小平太はどう思っているのやら。



 桶の中の水を草むらに捨て、小平太は手ぬぐいを掴む手で桶を脇に抱えた。桶は用具倉庫から拝借したものと思われる。あとがうるせえんだからちゃんとすぐ返せばいいが。
 奪われていた頭巾を受け取ると、小平太は自然に手を絡ませてきた。驚きで僅かに揺れてしまったが、俺の反応は意に介さず、小平太は丸い目を真っ直ぐこちらに向けた。まるで日の下にいるようにその目は光を放ったように、見えた。

「文次郎が帰ってくるのを迎えるのがさ、私、楽しみなんだ。六年の実習って長期間のが多いだろ。少しでも早く会いたくて堪らない。楽しみっていうのもなんか違うけど、いつでも文次郎を労っておかえりってしたいんだ」


 瞬間、息が喉元に詰まった。
 鍛錬やら宿題やらやりたいことやるべきことが小平太にもあるだろうに、実習から帰る俺を待ってくれることにあまり何も言えないのは、本当は、結局俺自身が嬉しいと思うからだ。小平太から言葉を聞かなくても小平太が会いたがってくれていることは知っていたし、会いたがっているのはお互い様だ。
 だからこそ、小平太に申し訳ない。

「俺も、お前を迎えたらよかったな。俺はお前ほどまめに出迎えたりなんかしない。すまん」
「文次郎は照れ屋だしな、私が会いたくて待つだけだから!私がそうしてるからって文次郎もする必要はない、遠慮なく私から会いに行くし。それよりさ、風呂に入ろう。私もまだだから」

 小平太は歩き出し、繋いだ手を引いて俺を引き寄せた。肩が触れそうなくらいに距離が狭まる。
 気付くと何故か、吐く息さえも重くした疲労感は随分と軽減されていた。小平太に導かれるままの足取りは違和感も何もない。

「風呂から出たら私の部屋に来いよ。……長次、今夜は委員会で帰れないって」

 明るく頼もしい笑みが消え、入れ替わりに悪戯を目論む悪ガキじみた笑みが現れる。手を繋いでなければ頭を叩いてやりたい種類の笑みだ。

「おい、長次に気を遣わせたんじゃないだろうな?つーか俺は疲れたから今日ばかりはすぐ寝るぞ!」
「あっはは!分かってるってー」



 小平太の俺よりも少し大きくて頑丈そうな手は熱い。指先に力を込めると、指を組む形に繋ぎ方を変えた。
 昔からこの手は俺を引っ張ってきた。“友人”以上に近い距離になってからはそれだけではなく、この手には暖められ、慰められ、時にただ触れて戯れ、縋り、縋られた。そうやってきた。この足がもうすんなりと進むのは、小平太が手を引いてくれるからに違いない。
 きっと俺の全部を預けたなら、零さず受け止めてくれる。確信を持って断言できるのは──小平太の足取りが重い時には、俺が小平太の手を引くからに過ぎない。





10:その手があるから歩いてゆける
しぐ様
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