今この場で1番誰よりも意味がわからないのはエレンであるなど口にせずとも珍しくも満場一致した。が、それに気づく様子もなく首を傾げたままエレンは言う。それは聞いているほうが不安になるしかない程のことだった。

「うーん…あの、ほら、例えば右手ってスプーンを持つほうの手でしょう? “じゃあスプーンを持つほうの手ってどっちだよ?”って尋ねられたら“右手だよ”って答えますよね。それに近いです。『自慰』は『手淫で自ら慰める』んですよね? でも“じゃあ、その手淫って何だ?”って思って『手淫』を辞書をひいても『自慰』とか『自ら手で慰める』とかしか書いてないわけですよ。まったく意味不明です。10歳になるかならないかくらいの頃、その『言葉のループ』が俺はとても腑に落ちなくて母に訊いてみたんですけど…ひと言“大人になればわかるわよ”と言われただけで。……あと何年経過すればわかるもんなんですかね?」

 うわああ…もうコレ、可愛いとか愛らしいとかすべて何もかも通り越しすっ飛ばして可哀想の極みこの上ない。モブリットは憐憫の思考に暮れる。無垢? 純真? 清廉? 潔白? どれも違う。エレンが可哀想であるのはこの部屋に入室してから、否、彼の存在を識ってからずっとモブリットは思ってきたことだったが、それではない。最早そんなレベルの話ではない。可哀想過ぎる程に阿呆だ。蓋然的に阿呆としか言いようがない。
 けれど兵士長たるリヴァイは怖すぎる顔で固まったまま何か呟いているし、団長たるエルヴィンは身長170cmの少年をあたかも小動物を愛でるような目で見ている。何だこの空気、つい先程凍りついていたことが嘘のように頗る生暖かい。この場にハンジが居ない分マシなのかもしれなかった。もしもハンジが居たならば彼女は床にでも突っ伏しばんばん叩きながら大笑いしたことだろう。

 っ…だから私は任されたのか!

 漸くをもってしてモブリットはハッとした。ハンジの告げた『あとモブリット任せたっ!』はここで繰り広げられている超くだらない真実を見逃さずに報告せよという意味であったらしい。直属上司の思惑通りに運んでいるあまりの現実にモブリットは空恐ろしい気分に陥った。何これ。
 しかして実際、エレンが調査兵団に入団するまでの経緯を汲むならば有り得ないことではない…の、かもしれない。巨人の襲来により10歳で母親を目の前で喰われ喪い、住居区は壊滅、父親は行方不明、幼馴染み2人と共に老人と子供ばかりの開拓地で何とか死を凌ぎ、12歳で訓練兵となり、15歳で幼馴染みを庇い巨人に喰われ、死んだと思えば巨人化能力というわけのわからないオプションのおかげで復活、けれど仲間である筈の兵から砲弾を放たれやはり死にかける、巨人化能力が無ければ確実に死んでいる、かと思いきや調査兵団に入団すべく、審議所にて人類最強からの躾という洗礼を受け、旧本部古城にて隔離。エレンの言った通り10歳の子供に親がオナニーなど教える筈がないし、だからと言って下の毛も生え揃わない開拓地時代はそれどころではなかったろう。幾ら幼馴染みのなかに、徹底した迅速強力重厚安心安全を謳う某警備システム並のエレン厨である逸材少女ミカサ・アッカーマンという女子が居たとしてもだ。というか逆にミカサ・アッカーマンという名の鉄壁過ぎる某警備システム並のエレン厨である存在があったからこそエレンに性知識を得る機会がなかったとも予測出来る。だが12歳からの訓練兵時代はどうだったろうか、と考えれば、女子の誰かとどうのこうのとなることは某警備システム並のエレン厨であるミカサ・アッカーマンが同期に居るので不可能としても、否やはり性的知識がまったくないなんて有り得ないだろう。なぜなら宿舎は男女で離れていた筈だからである。12〜15歳の、丁度思春期を迎えるむさ苦しい野郎共との共同部屋で寝泊まりし、消灯前に僅かな自由時間を与えられることを良いことに、厳しくも鬱憤の溜まる生活の愚痴を言い合ったり、唯一女子の視線が届かないのだから猥談に盛り上がることがあっても不思議ではない。寧ろ野郎ばかりの部屋で猥談が出ないわけがない。訓練兵と云えど思春期男子の原動力とは所詮そのあたりにしかないのだから。そういう環境下では必ず誰かエロ本的なものをどこからともなくくすねてくる者が居るものだ。教官には見つからない隠し場所、如何にバレずに回し見るかについて知恵を出し合い知識を振り絞る。思い起こせばモブリット自身も、ひとつふたつ歳上の者からオカズのお下がりを貰った同期にそれを見せて貰い、消灯前にトイレに籠る者が居てもそこは暗黙の了解というもの。トイレの個室で何をしていたかなど互いに口にしないのもお約束であった。なので幾らエレンが他の少年兵とは異質な生い立ちをしてきたとしても、自慰を全然知らない、などとそんなわけがあるまい。と思っていると駄目な大人が口を開く。

「おいエレン、親に教えられなくても居住区がまだあった頃なら少し歳上の同性なんかがそういう話をしなかったか?」
「わかりません。俺、アルミンとミカサしか友達いなかったんで。歳上のガキ大将共なんて嫌いすぎて嫌われすぎて遭遇する度に殴り合いしかしてませんでした」
「……」
「……」
「……そうか」

 トモダチイナカッタノカ…。

「? はい」
「ああ、しかしエレン。訓練兵の頃は宿舎が男女別だったからミカサとも離れていただろう? 消灯前の自由時間、そこではどうしていたんだい」
「? どう…って、筋トレしてました」
「……」
「……」
「……うん」

 キントレ…カ…。

「なのに筋肉つきませんでしたけど」

 耐えきれなくなったらしい我らがエルヴィン・スミスは、何か…ごめんね、と慰めるようにエレンの頭を撫でているが、リヴァイのほうは未だに追及の手を緩めない。いつも以上に顔が怖い。

「じゃあ他のガキ共はどうしてたんだよ? 居ねえと思ったら便所でヌいてるなんざ当たり前にあっただろうが。野郎ばっかなんだからな」
「あの、」
「何だエレン」
「遠慮せずに何でも言ってくれて構わないんだよ、エレン」
「じゃあ……『ヌく』って何ですか?」

 今度はそうきたか。
 段々とモブリットの表情がどこかの賢者っぽくなってきていた。巨人だ化け物だとエレンを恐れ蔑む人々にこれを見ろと言ってやりたい。巨人に人生をめちゃくちゃにされ隔離を余儀無くされている子供の姿がコレなのだ。子供を閉塞的に、隔離し育てて良いことなど何もないのだ。

「エレンよ。だからそれがさっき言ってた『自慰』だ。『自慰をする』『手淫をする』ってのが『ヌく』ってことだ。おまえの年頃で流石にそれしてねえと夢精で大惨事だろ、朝。何言ってんだ」

 半ばやけくそのような口調で早口に包んだリヴァイに、エレンはきょとんと瞬いた。そうしてあくまでも生真面目な顔でこう言い放ったのだ。

「『夢精』って何ですか?」

 またもや暫時、時が止まった。

「いやいやいやいや何を言っているんだいエレンあれだよあれ。きみくらいの年頃にはよくあることだから恥ずかしがらなくて良いんだよ。朝、起きたときにパンツが濡れていて一瞬“漏らした!?”と焦るがよく見ると粘ついた白いあれが付着しているだけだった、という生理的で当たり前の現象だよ。いやいや何、だから恥ずかしくないんだよエレンふつうのことなのだから」
「寝小便ですか? 俺そこまでガキじゃありません!」

 ――こいつマジか? 夢精もわかってねえのかよ?
 ――だって顔が真剣だよ? 真剣にぷりぷり怒っているよ? 激おこぷんぷん丸だよ?
 ――ああ、ぷりぷり怒ってんな、可愛いが要は何だ、精通もまだかもしれねえってことか。
 ――……有り得るね。
 ――……有り得るな。
 ――15で精通がまだ、か。
 ――15で精通まだとかそんな奴居るのか。
 ――居たね目の前に居たね、ただの天使が。
 ――居るな今も目の前に居るな、ただの天使が。
 
 と、リヴァイとエルヴィンは視線だけで会話を交わしながら、どうやらこの世界には神は居なくとも天使は居るらしいと結論づけ、無言で互いに説明役を押しつけ合った。説明することによってエレンから、いやらしいです! もう貴方なんか嫌いです! とか、侮蔑を顕にされてしまった日には心が死ぬ。再起不能だ粉々になる。おっさんたちの繊細なハートは10代程したたかに出来てはいないのだ。

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