少なくともあと2本は多く腕が欲しいとエレンは思っていたし、思っている。リヴァイはそれを気味悪がり手足など2本ずつ生えていれば人間は事足りると言ったが、ではやはりそれは、彼もまた誰にも何にも縛られることなぞ必要無く、猫などの生物と大差など無し自由に生きていける筈であった、という証にはならないだろうか。少なくともあと2本は多く腕が欲しいと何かに乞うように願う程の理由をエレンは自ら解っている。ほんとうは。随分以前から。だが自覚し認め許容し望んではならないのだ。なぜならばほんとうは、ほんとうは、闘う為だけに、より多くの殺戮する手を欲しただけで無く。1つめの手で砂浜の渇きかたちを歪つな尖った欠片となっているらしい砂粒を掴み、2つめの手で碧海の水をそうっと掬ってみて、3つめと4つめは一刻も早く振り解き離してしまわねばならぬ筈の、彼の着痩せして小柄に見える躰を抱き締め返して離さずにいたかった。でもどうしようともそれは言えない。言ってはならない。だってその権利をエレンは既に持たないのだ。夢。だとか。そのような甘美な響きのものを持ち続ける己が自身の、何と浅ましいことかと。今更だからわかっている。或いはほんとうは初めから理解していたのだろう? 自分は。何もかもを投げ打って身を投じたつもりでいた闘いの日々はエレンに何も投げ棄てられぬということを厭になる程思い知らせるものだった。闘いのなか、いつしかエレンは識ってしまったのだ。海を。海を、見に。幼い夢に吐き気がする。あんな口約束などせずに嘲笑えば良かったのだ、リヴァイは。彼にはそうしても赦されるだけの権利があった筈だった。同時、巨人化出来なくなり兵士としても存在出来なくなってから久しい最後の巨人にはもう、罪しか残されていないのだと。錆びたガラクタ以下と成り果てたこの愚鈍で無価値な肉体。だがそれでも幾度と知れず少なくともあともう2本は腕が欲しいと不自由さを感じつつ、あれ程に愛を優しさを与えられておいて変われない。絶対的にリヴァイ以外のほうを手放すことは不可能であるのだという選択を、それもほんの1秒にも満たぬ時間で選んでしまうだろう確固たる意志に近い予想を、必然的なまでにエレンは抗えないと己の本能でしっかと解っているからだ。そして可笑しな話だとも思うのだが、けれど、それでいてリヴァイはエレンのこういったところを責めるでも無く怒るでも無くただ無感情に総じて、そのような未来を2人にとっての『終い』であるのだと暗に示していたのだった。2人にとっての『終い』というものに、如何に差違が有り掛け離れ別物で遠くて、深く暗い溝を埋められないとしても。言葉どころか息が出来なくなりそうに身勝手だ。それだからエレンはいつまでも子供のままに愚図ついて、結局は自分ばかりが何もかも理解り得ないふりを続けなければならなくなる。生きているものは何もかもすべて、媚びず懐かず高飛車に澄ましていれば良いと、猫どころか生物を好まぬ視線でリヴァイは言った。気に入らなければ鋭い武器で引っ掻いて終いだ、と。そうして気が向いたときだけ『にゃあお』と、ひと鳴きすれば良いのだと。

「まるでエレンおまえみてえだな」
「そうですか? 俺はいつも、俺なんかより兵長に似ていると思いながら愛でてましたけど」
「クソガキ。まさかずっとそう思ってやがったのか。削ぎ殺すぞ」
「……にゃあお」

 本望だという感情を確り込めて言ってみると存外舌に馴染んだひと鳴きに、エレンは笑った。リヴァイだってそうしてみれば良いのだ。それ程無闇矢鱈に毛嫌いする前に。1度くらい。そんなふうに思いながら、ほんとうに『にゃあお』のひと鳴き如きですべてが済むのか否か、そんな筈があって堪るかと考える、エレンは何でも良いので何かしらの正確さを求めた。正しく言い訳で構わない。懲りずに考え続けてしまうのはリヴァイが如何に今こそ自由で幸せであるだろうかというそれだけで。いっそそれがすべてであった。

「――――で。いつまで俺をただの過ぎ去った幻影にしてえんだ? なァ、エレン。俺は既におまえにとっての不必要な過去か」

 聞き間違いでも幻聴でも無い。それをどんなに認めたくなくとも。鋼鉄の窓を引っペがす人間など、エレンはこの世に1人しか知らない。そしておそらく他には存在しない。

「っ……」

 名前すら呼ぶ前におかえりなさいと言うより先に、きつく抱き締める筋肉質な腕が苦しい程エレンを拘束して離さないのだ。気配も悟らせること無く近付いていたリヴァイがついぞ呆れて2本しか無い腕を、エレンへと伸ばし力任せに思い切り引き寄せる。ガタン、倒れる椅子。半端に体勢を崩したエレンは抱き止められたままに、ぎゅう、と瞼を頑なに閉じている。

「おい。どうしてこんなに冷えてやがるんだ。ここはそれ程寒いかエレン。おまえの言っていた海とやらは余程暖かく養生向きだったぞ」

 リヴァイが抱き締めたエレンの躰は凍え震えていた。右頬にぺたりと頬をくっつければ、反射的に赤く染まるエレンの耳朶が、ひどく冷たい。けれどぎりぎりまで寄せられたリヴァイの唇の感触に咄嗟、エレンの唇は最早すべての無駄な動きを止めてしまう。

「遅れて悪かった。幾ら何でも待たせ過ぎたな」
「……っ! ぁ、ッ……!」

 引き攣るエレンの喉からは思うように声すら出ない。耳の奥へ囁かれた言葉は信じられない程の熱量をもってして容赦無く、加減知らずにエレンを追い詰めにかかってくるものだった。聞こえる筈の無い波の音。潮の香りがするというつよい風を受け頬を叩く髪。塩っ辛くて飲み水には不向きな水。陽の光を弾き目映い砂浜。約束は守られてしまった。だって、とエレンは思う。だって、何れ程願ったところで無駄であったのだ。だって、リヴァイは――嘘を、決してつかない。

「海のものだ。ほら、おまえはずっと正しかった」

 リヴァイが取り出した2つの小瓶のうちの片方に詰められていたものは、無責任な幼い子供の夢のように、ひと粒ひと粒が欠けてはそれなのに飲み込めない星屑に似た形をしていた。もう片方は透明な水。おそらくは塩をたっぷりと含んだ海の水なのだろう。

 ああ、もう、どうして!

 エレンは途端、癇癪を起こしたかの如く煩く咽び泣いていた。リヴァイを罵りたいのに言葉がどうしようと出てこない。差し出されたリヴァイの手に存在する海の欠片を、早く受け取るべきだと理解しているのにそう出来ない。

「どうした。要らねえのか? 小せえがこれはおまえがずっと夢見ていた海だろ」

 ああもう! ああもう! どうして貴方は!
 錆びつき使い物にならなくなったガラクタ以下の俺をなぜ、赦すのか!

 ほんとうはその理由さえ、エレンは随分以前から、識っていたのだ。煩く喚き立てる生物を特に嫌うリヴァイへと、わざと煩く喚き立てる為には長々しい言葉など要らない。ただ兵長兵長と無意味に呼び掛け続ければ良い。理解し得ていることなら幾つもある。たった2本しか無いエレンの腕は、夢見ていた海の欠片を大事に受け取るだけで良かったのに、そうする筈であったのに。気付けばエレンは夢の詰まった小瓶を払い除けてしまう程の勢いで、縋るようにリヴァイの背にまわした2本ずつの腕と脚を絡ませ、離せもせずに全身全霊でしがみついていた。少なくともあと2本は無いと足りないと思ってきた筈の腕は今もまだ化け物にも蟲にもなれぬエレンには生え揃っていない。けれどももうそれで良かった。それですべてだった。4本もの腕など無くとも、だから、それだけで事足りている。

「次はいっしょに行くんだろうが。俺が戻るまで生きていろという約束をおまえは守った。エレン。おまえは俺とここから出て、」

 どこへでも好きなところへ行ける、何だって出来る。おまえは自由だ、と。それこそ猫より烏より蟲よりも。そこに意味があろうと無かろうと、リヴァイは、エレンは、ヒトは、2つの腕と2つの脚で征く所詮そういう生物なのだ。これより正しい選択などきっとどこにも存在しない。まるで世界に2人きりになったような耳に痛い静寂を劈きて、暗闇のなか漸くにしてエレンの咆哮が鋼鉄を裂く程におおきく、鋭く響き渡った。共に生きよと共に死すると言葉無き号鐘が、それは今まさに互いの心臓に刻み込まれ、そうして浅ましさも理由も何もかもを体内に許容した愛おしい身1つ、境界線のある別々の生物だから手を伸ばし取り合え、終い、ただここから、否、エレンを抱え込むリヴァイの、リヴァイを抱き返すエレンの、互いのその腕のなかから始まっていく。征く。往く。じきに朝陽が昇るだろう。
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