海を。見に。
 夢を馳せる権利も無い自身がまだ夢を馳せていて、エレンは己の欲深さに溜息をつく。せめて、理性がまだ、繋がっているうちに。暗闇に居る日々だけを正当化してしまえればと。化け物として兵士として闘っていた、そう遠くない頃に、巨人の、否、誰かの、死骸を踏み付けては不謹慎に安堵した。境目が無く見失うばかりで。途方も無く長い、長い血飛沫と永遠。だがまだ自分は進める、その現実がエレンを支えた。憎まれたかったわけでは無い、恨まれたかったわけでも無い、憐れまれたかったわけでも無い、愚か過ぎるこの肉を、いつでも嘲笑われていたかった。
 例えば誰の前からもこの生命が肉体ごと消失する日があの日であれば良かったと思う。だが巨人の躰と共に蒸発しかけていたエレンを力任せに引っ張り出した、リヴァイは、ひと言だけ言った。まるで独り言のように言ったのだ。エレン、おまえは生きていると。
 だから壁外調査へと旅立つ朝ですら、

『約束を忘れるな。おまえが生きることを、信じよう』

 それだけを。しかしそのひと言を大切に噛み締め、独り言を呟いて、そうして振り返らずに前進したリヴァイからの約束を幾度も幾度も反芻しては、兵長それは約束と云うより命令ですよ、と込み上げる可笑しさを我慢しきれずエレンは声をたて笑って。ならば、ならば俺も死ぬまで一生をかけ、可能な限り貴方のその嘘に付き合います。思いながらいつまでも果たされぬかも知れないその覚悟を捧げた。果たされなくとも構わない。

(貴方が幸せであるのなら――)





 無風さが気持ち悪く、エレンはそっと小さな鉄蓋をあげた。途端、まるで重鉄で出来た何かを無理矢理に起こし上げ、剥がすかのような乱暴な音がした気がして、しかし直後に流れる静寂に気のせいだと遣り過ごす。当然周りには何も無い。最近と云わずここへ閉じ込められてからというものエレンは幻聴をよく聴いた。きっと己自身にもあずかり知らぬところで身勝手に嗤うべく、図々しい希望的観測を含んだ深層心理が働いているのだとエレンは毎夜自分を揺るがそうとするそれを、そう解釈していた。または犇々と僅かずつ、この頭が使い物にならない躰同様靜かに狂っているだけであるのだろう。そんなくだらないものはじっとしていればそのうちに、夜の色に溶けていく。辺りを見渡せば幾分心地好く、掻き乱されし胸懐は靄然として頓に和らいだ。何も無い、ということはそれだけで何も失わずに済むということだ。こんなにも生ぬるい夜だと云うのに、閑かに、けれども見透かされているような鋭利な視線。ふたつの目玉を無感動に光らせている。淡々と光るそれと、闇色のしなやかな、猛獣程におおきくは無くとも迂闊に目を逸らせぬ獣の美しさがあった。兵長に似てるなァなんて、――リヴァイ本人に言えば削がれそうなことをエレンは思った。リヴァイは猫に限らず大抵の生物を好まなかった。いつだったかエレンが庭の掃除中に見付けた仔猫を腕に抱いてペトラたちに囲まれながら可愛がっていたら、その日は近寄ることも赦されず、ろくに口もきいてくれずに機嫌は悪いし大層面倒であった。とても似ているのに。だが曰く猫は自らの前足が地面に付いたまま手を持たない生物であることに不便を感じはしないのだろうと。それはなぜですか? 馬鹿かそんなもん、見れば解るだろうがエレン、猫はソーサーに乗せたカップで紅茶を飲まない。スプーンやフォークやナイフで食事をしない。何より巨人の項を削ぐために、武器を握り締め使いたいと考える類いの生物じゃあねえ。だからきっとそれで事足りている。エレンよ、猫は聡く俊敏で勘が良く、同じ轍を踏まない習性から賢いと謂われるが、実は烏より脳が小せえんだとおまえは識っているか。脳が小さいってことはな、生物として劣るってことだ。だから猫はおそらく烏なんぞよりずっと自由に生きて死ねる。と、教授してくれたリヴァイには悪いがエレンはそんな話は聞きたく無かった。猫がそんなにも自由なら、だったらどこかの哲学者たちが『歩く脳』だとか『考える葦である』だとか、表する人間はどうすれば良いのですか、――俺たちは、いったい、どうすれ、ば。言いかけて、やめた。自由を求めて闘う筈が、そうであるべき筈が、例えば手足がたったの2本ずつしか生えていないことにどうしようも無い不便を感じ、困ったことにこの貪欲さは、3つでも4つでも殺戮の為の手を欲していた。大事なものを零さずに要られるならあともう2本は多く腕が欲しい。少なくともエレンはそういう類いの生物なのだ。だったのだ。進化か退化かそれは知らないけれど兎に角手足を合わせても4本しか無いことに、ずっと歯痒さを抱え生きていた。口にしたときリヴァイは苦虫を噛み潰したような顔をして、それは最早人間じゃねえ、蟲だ。と言った。非常に厭そうだった。成る程そうか、蟲か。エレンは自分をだからこその、化け物なのかも知れないと考えていた。
 兵長、兵長、と何気無く小声で猫を呼んでみれば、にゃあお、ひどく面倒臭そうに返事をする闇色の猫は、やはり面倒臭そうにぞんざいな態度でエレンを見ていた。エレンは鋼鉄の檻のなかからリヴァイに似たその猫へ、ひらひらと手を振ってみせる。不機嫌そうな眼光は、リヴァイが椅子をぎしりと軋ませ溜息を吐き出すさまを彷彿させた。エレンは喉を塞ぐ刺々しい何かを飲み込み、それから大袈裟に肩を竦める。その何かは諦めの欠片であるのにまるく無い。それこそ小さな棘のように、欠けた星屑のように引っ掛かる。長方形の板を閉めれば視界はまた元に戻り、端に置いた薄明かりを灯すランプが、かろうじてエレンの影を映すがそんなものをエレンは半ば躍起になって見ないふりをする。大体、猫だ何だと思い出そうとも、あの話はあれで完結していたのだ。リヴァイは今やここでは無いどこか、自由などこかで幸せを堪能すべきで、今更ここへ戻る理由など無い。

「エレン」

 幻聴とほぼ変わらない声は案の定幻聴で、呼ばれた己の名に吃驚しビクリ、痩せ細ってしまった躰が突如物凄い速度でもって芯まで冷えて。壁に背を預けてずるずると座り込んでしまえば『終い』とばかりに、つんのめるようにして駆けた。せいで、おおきく揺れたランプの灯火が消え、闇が深くなる。けれど――けれども優しい彼の人は、決してエレンに嘘をつかないのだ。仮に、嘘であって欲しい、と何れだけエレンが願ったところで、無意味なのである。いつしか何がどこだとか、どこに何があったのだとか、知り尽くしたエレンは今や遠い記憶にも均しい食堂のドアを開け訝しげに室内を確認し、心臓のある位置を無意識に撫でた。無論人影など見えやしない。広がるは暗闇ばかり。なのに不安に襲われずに済んでいるのはおそらく、リヴァイに似た黒い野良猫を『兵長』と呼んでみたからだろう。エレンにとっても彼は幼き頃から今も憧れ変わらぬ英雄だった。リヴァイが決まって常に座っていた席を手探りに、腰を掛け、て、から。エレンは再度、リヴァイ本人の嫌そうな表情を想像し、そっと微かな笑みを唇から零す。

「へいちょう、も、そういう類いの生き物なんじゃあ無いんですか」

 呟きすらも逃さない、逃してなどくれない。

「そんな不気味なことは、考えたこともねえ。おまえは3度や4度、疾っくに超えて、2本や4本じゃきかねえ程の手足を巨人にもがれちゃあその都度、四肢も顔面すら再生し過ぎて、だから手だか腕だかいっそ幾らでも、馬鹿みてえに欲しいと思うのか?」

 気色悪ィ。眉を顰めて咎められた。それじゃあ本物の化け物になっちまうじゃねえかよ、と付け足された優しい言葉が奥へ奥へと器用に潜り込む既に化け物であったエレンの耳の、その表面を甘く丁寧に舐めては乾いた吐息と共に吹き込んでくる。冷たく無い隙間風が如く、すゥ、と、そしてそれは浸透していく。エレンを甘やかすときの声であった。リヴァイは三白眼の双眸を細め、にこりともしない。ただ続けた。

「エレン、」
「……あ、の、兵…長、おれ、俺は」
「、わかるか」

 リヴァイがぶつけた言葉がひどく柔く、エレンは困り果てそれでもゆるり、首を横に振るしか出来ずに。動揺したエレンを見詰めるリヴァイの唇がかすか、笑うように口角を上げるのを見止めて更に困っていたら、そんなエレンの細い肩にリヴァイは呆気なく触れ、て、少しの悪意無しにぽんぽんと軽く2回程叩いてからするり、気紛れな猫のように腕を払う。わかるか、という先程の所作だった。或いはもう自分には何を言おうが無駄だとも、若しくはもうおまえには何を言おうが無駄だとも、リヴァイは珍しく笑ったのかも知れなかった。あくまでエレンはそのようにしか理解し得なかった。

「気温が上がれば余計にどこからか、嫌になる程に蟲が湧く。清潔に保っていようと奴らはしつこい。年中無休に不衛生な地下街と死体に群がる蛆や羽蟲は当然だったが、空気が温暖になる季節や雨の日の翌日は特に、森だの草原だの、おまえの傍でさえ腹立たしいくれえ、煩くて穢くて気持ちが悪い」
「生物嫌いなのか潔癖症なのか…どちらにせよ神経質な方は大変ですね」
「ほう、上官に憐憫的な意見を述べるとはイイ度胸だ。エレン。俺からすりゃあ寧ろおまえは鈍過ぎる」
「ええと…まァ俺が鈍感なのは確かですが……。まさか俺が兵長に憐憫的意見なんて述べるわけ無いでしょう」
「成る程。つまり俺の被害妄想だと?」
「ちょ、どうしてそういう卑屈なことばっか言うんですか」
「てめえの困り顔が面白いからだろ」
「ひでえ…」
「冗談だ」
「兵長の冗談は心臓に悪いです」

 このあたりが引き際だった。どこからどうなりそんな会話になったのかは唐突に過ぎ不明。だが少なくとも、今の時期もう既に外は命を振り絞り精一杯の鳴き声で、へばり付くままに蟲という生物も世界を揺らしているのだろう。今や存在さえ希薄になったエレンなどより余程、ずっと。そして、そうだ、だから、猫だ。エレンが猫を美しく思う度、リヴァイはあからさまにうんざりしていた。しなやかなフォルムに鋭利で覗うような視線。小さいと侮るなどあまりにも愚かしい、肉食獣。つよい警戒心でもって簡単に懐いたり媚びることも無い。その気高さに眩暈のする程追い掛けたい衝動に駆られる。自ら理性を放棄したいと、そんなことを考えてしまいおぞましくすらあった。しかしそんな愚かさを口にすれば、最後の最後で諦めを叩き出す1歩手前のそれでリヴァイは核心をついてエレンを打ちのめす。伝えるために人類は言葉を得たのだ。視線や身振りだけでは伝えきれぬものを伝え合うために。理解するために。なのにその筈の言葉があるからこそ伝えきれない。必死になって言葉を重ねれば重ねただけ真実は遠く彼方へと飛散してしまう。きっと最早それは戻らない。どうしようと肝心なところで伝わらないという諦めと、もう何を言おうと届かないという諦めと、実のところ俺は諦めていたいです兵長、というふうなそれこそ根本的な諦めと、エレンはそれらすべてをいつからか愈愈腹を括っており己のなかから、てきとうで、嘘では無いが本音でも無い、言葉を投げ出すまさしくそのときに、それはあまりに容易く見透かされネイビーブルーの三白眼は細められる。エレンが伝えたいことはリヴァイによって与えられる。そうしていつでも不機嫌そうな無表情でエレンの幼稚さを揺さぶった。

「クソみてえな小蟲共なんぞ1匹残らずくたばっちまえばいい」
「巨人を1匹残らず駆逐するより更にもっと大変そうですけど。……兵長になら出来ちゃいそうなあたり、かなり怖いです」

 実際それは巨人よりおぞましい。生物により構築される世界はおぞましいのだ。

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