海を。憧れに憧れた壁外の世界にあるらしきあらゆる景色のなかでもエレンは1番初めに、海というものを、見に行きたかった。ずっと昔からそうだった。憎悪と虚無の果てにその雄大だろう果て無き海原を夢見て生きてきた。けれどすべてが終わった今になり漸くにして、思うのだ。夢。だとか。そのような甘美な響きのものを持ち続ける己が自身の、何たる浅ましいことかと。エレンが長年外の世界へ描いた夢は生きる為、自らを奮い立たせてくれたものの1つではあったが。だが今更だからわからなくなる。或いはほんとうはわかっているのかもしれない。どうだろう? 自問しようと答えを導く標べは存在しない。身を投じた闘いの日々のなか、いつしかエレンは識ってしまったのだ。生きることに意味がそんなにも、必要か、否か。いっそ権利と呼んでも良い。有るわけが無いものに都合よく話をうまく擦り替えてでも、無いと生きていけなかったのか、否か。それらは弱さなのか強さであったのかどうかも。

「エレン。もうこれ以上、無駄に時間を失うのはやめるべき」

 世界の残酷さと美しさを散々識り得ながらそれでも何も気付かないふりをして、夕焼けのなかで、朝焼けのそとで、ずっと遊んでいられた故郷を家族を忘れたことなど無い。けれどその、ぬるま湯のような時期は最早疾っくの昔に過ぎ去り喪われていたのだ。ただ1人きり、いま傍に居る、ミカサの声が、重厚な鋼鉄の扉――ドアノブも無ければ鍵も無いそれは扉の形をしたただの壁であり、唯一食事等最低限の必要物資を届けることが可能なまるで猫の通り道に似た長方形の穴だけが地面すれすれに開閉可能に設置されているのみで此処はそう、牢獄以下だ――の向こう側からエレンを諭す。ミカサの言い分をなるべくならばエレンとしても一蹴などしたくは無かった。心から、そうだった。けれども。

 ああ、ごめんなミカサ。それでも俺は、

「嫌だ」

 短く拒絶するエレンに、ミカサは泣きたいような寂しさと遣る瀬無さに襲われる。寂しい。悲しい。エレンはここにいる筈であるのに、どんどん遠ざかっていく。既に奪われていることを思えば殺意さえ抑えきれない、憂鬱さに陥らせる。

「エレン…私は、貴方が大事。だから、貴方を失いたく、無い」
「おまえは心配し過ぎだよ、いつも。俺は別に大丈夫だ。少しも不満なんか無い」
「大丈夫…? 何が? 何が、もう大丈夫なの? エレン。少なくとも今現在、何も大丈夫な要素が無い。こんな現状に何ら不満も感じないのだって」

 長きに渡った巨人との闘いは人類が勝利し幕を閉じた。とりあえずは。しかし人類は人類を信頼出来ぬまま、笑顔の裏腹、ヒトはヒトの胸中を探り、疑い、時として裏切り、謀って、結局のところ争いはいつまでも終結の切っ掛けさえ見せないままだ。ましてやエレンは最後の巨人なのである。幾ら数えきれぬ深い傷を負い幾度死地をさ迷おうとも治癒する躰を酷使し疲弊しきったその少年兵はもう2度と巨人化出来ない程に、負担をその体内に蓄積し尽くしてしまったというに、慎ましやかに生きる民衆からは未だ恐怖の対象で、不服の槍玉にあげられるには格好の存在であり、断じて英雄などでは無い。歴史にその存在の一縷も遺さない功労者として、かろうじて死罪を免れてはいるがたったそれだけで、万が一巨人の力を取り戻した場合への当然の処置と銘打って窓という窓には外側から鉄板が打ち付けられ、扉は上記の通り。更には古城周りには四方、以前巨大樹の森で女型の動きを止めたときに用いられたアンカーと太いワイヤーによる兵器が当たり前のように鎮座している。巨人になれなくなったエレンはもう、地下室生活で拘束されることは無くなり自由に各部屋を歩き回れるが、これでは城内すべてが薄暗い夜に似た地下室に成り代わっただけでシャワー等々の真水は引かれてはいるが普通はこんなもの、自由とは呼ばぬ。控え目に云って、監禁、幽閉、終身刑だ。なのにこんな悪条件に、不満は無いなどと本気で口にするエレンを、ミカサは信じられない。
 昨年の秋のことだった。いざ巨人の姿が消失し調査兵団は漸く本来の目的を遂行するが如く壁外へと旅立った。悠々と。英雄として見送られ。壁内には無いものを探しに、その名のままに壁外を調査するのだ。ミカサは少し迷いながらも結果、やはり頑固にも調査兵団を辞めた。エレンが居ない場所になどミカサには何の価値も無いからである。代わり、故人となって暫し経つハンネスの跡を異例の若さで継ぎ、こうして毎日エレンに必要な物資を届けては同じことばかりを話す。エレンが閉じられた鉄鋼の箱のなかにいることが、ミカサには何より赦し難いのだ。

「エレン。……エレンは寒くないの? 春が過ぎてしまおうと、こんなところに居たら、きっと凍えてしまう。いっしょに逃げよう。そしてどこかに小さな家を建ててそこで私と靜かに、ずっと家族だけで、暮らそう」
「気持ちは嬉しいけど、そんな無責任なこと俺には出来ないし、おまえにもさせたくない。落ち着いて考えてみろ」
「私は至って冷静。その上で最善を落ち着いて考えている。ほんとうなら誕生日に――少なくとも4月中には間に合うように戻るという約束は、何の便りも無く、不義理にも破られた。待ち続けるのは最早不毛」
「ははっ…おまえよく知ってんなァ」
「暢気に感心することじゃ無い。エレン。エレンが望むなら、私は何でもする。私を信頼する人間を裏切ることも、殺すことも、躊躇い無く何だって出来る」
「ミカサ。なァそういうの、もうやめろって。信頼には信頼を返すべきだ。そうやって積み重ねて絆を結びながら生きていくものだろう? 折角とりあえずは平和になったんだろ、態々俺の為なんかにおまえの手を汚そうとするなよ。俺はそんなこと微塵も望んじゃあいねえんだから」

 勝手にそんなことをされたら俺は泣くぞ、と笑みを含めて若干冗談めかし、だがきっと本心からエレンは言う。

「じゃあエレンは、いつまでもその暗闇のなかで、そうやってただ独りぼっちで、いる、つもりなの」
「そこまで殊勝なわけ無いだろ。信じてるんだよ。だって、約束を貰った」
「約束は、果たされるとは限らない。所詮、口約束は口約束。エレンを縛る抗力は無い。予定は未定」
「あー…まァうん、そうだな」
「それに、あいつは、事もあろうにエレンを置いて行った。こんなところに独りにさせている」
「うん、そうだな」

 でも。とエレンは続けた。何だかほんの少しばかり愉快そうな声音で。

「俺は、俺を、信じてるよ」

 そうだ、そうするのだと決めていた。などというのは厭になる程、疑うことに疲れたからだ。リヴァイが約束を果たさなくとも良い。エレンは約束を信じると決めた自分自身を信じているのだ。その上で我儘を云うならば、もしも、次またリヴァイに抱き締められることがあるとして、これは決して妥協ではなく、正しい選択だったのだと、ただの1度きりで良い。あの声で告げて貰えるなら。それだけで良いのだ。そこに自身が居なくとも。無論ミカサの言う通り約束は破られても仕方の無いものであり、あくまで予定は未定でしか無い。何れ程信頼関係を築いてこようとも、疑いだせばきりが無い。どうしようとも心は、言葉にしたその瞬間から朽ちてゆく。何れ死に逝く肉体のように歯車の噛み合わせが時間と共にずれてしまう、精神、の、ように。だからそのときはきっと、エレンは自身の輪郭すら曖昧になるのだろう。だがエレンはそれで構わない。まるで無限にも均しい数えきれぬ程の散っていった命の、しがらみを背負い闘い続けてきたリヴァイがいま幸せなら良い。後悔も後ろめたさもあの背中から剥がれ落ちていくように自由に翔んでくれていれば良い。瞼を閉じて想像する。だからエレンは構わないと断言していられるのだ。この最早化け物としてどころか兵士としてさえろくに使い物にならなくなったガラクタの肉体が、飛散し蒸発し消え失せるその前に、つよく抱き締めることも無く口付けの1つも無く告げられた、何の感慨も乗せられていなかった約束は、逆に真摯な信憑性を与えた。

 ――エレン、俺は必ず海を見付けて戻ってくる。そしておまえを連れて行く。それまで何があろうとも、変わらず笑って待ってろ。勝手にくたばるなよ、死んでやがったらぶち殺すからな。

 海を、海を見に。考えただけで心が痛くて、痛くて、エレンはランプのなか揺らめく蝋燭の頼り無い灯のように至く、消えたくなる。聞こえる筈の無い波の音。潮の香りがするというつよい風を受け頬を叩く髪。塩っ辛くて飲み水には不向きな水。陽の光を弾き目映い砂浜。幼い夢に吐き気がする。なのになぜ、何度でも手を、伸ばそうとしては、生き穢くここでも未だ生きようとしている惨めさ。あんな口約束などせずに嘲笑えば良かったのだ、リヴァイは。彼にはそうしても赦されるだけの権利があった筈だった。ミカサが凍えてしまうと口にしたことはおそらく真実以外の何でも無く、薄暗い石畳にしゃがみ込めば最期、エレンはそれきりになるのかも知れない。

「私は認めない。エレン。明日も来る」
「……うん」

 ミカサには、ミカサにしか出来ない役目がたくさんあった。毎日エレンに物資を届けるなど彼女で無くとも誰にでも出来る。ゆえにエレンはミカサに、もう来るなよ、とでも言ってしまうべきであるのだ。けれどそれが難しい。ミカサを絶望させることは本意では無い。それだって、紛れの無い、エレンの本心であるというのに。なのに。

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