夏季休暇中の駅前は炎天下を過ぎた夕暮れ前に拘らず見渡す限りヒト、ヒト、ヒト。男も女も露出度が高いので汗ばんだ肉の海は上手く泳げない。まずい。また遅れてしまった。こないだケイトから借りたミステリー小説をついでに返しておこうと思ったのだが見付からなかったのだ。本棚を幾ら漁ってもリビングを徘徊しても一向に出てきやしない。決して広くは無い中流家庭の4LDKの家中を、どこだよここかよと探したが全然見付けられずに途方に暮れた。何れだけ付き合いが長く気心が知れていようが、まさか借り物を紛失するだなんて人間として有り得ない。最低である。と、思ってへなへなと座り込みベッドの下を覗くと黒い背表紙が見えた。
 あァ、そう言えば。
 この間セックスのあと直ぐに眠ってしまった小百合の隣で、俺は寝転がりながら件の文庫本を読んでいたのだっけ。やっぱり最低だ。膝立ちの姿勢を低くし精一杯に手を伸ばして。人差し指の先に背表紙のふちを何とか引っ掛け、引き寄せることで無事に借り物のそれを救出した。僅かに付着してしまっていた埃を丁寧に払ってから鞄のなかに確かに本を仕舞い、漸く俺は部屋を飛び出したのだった。家から出る寸前、目に入った時計の針は、俺が自ら指定した時間よりも既に1時間以上遅れていた。最悪だ。この陽射しのなかあんなにも色素の薄いケイトが駅前にずっと立っていたとしたらあいつは倒れてしまうかも知れない。けれどいつも通り賢明なる幼馴染みは、俺のスマホに、いつもの喫茶店に居る、と云う留守録メッセージを入れてくれていたので取り敢えずはその心配は無くなり俺はやや胸を撫で降ろした。だがそれにしても毎回毎回こんなふうに遅刻するのは、相手が誰であろうと申し訳無いのひと言に尽きる。ふつうなら苛立ち帰ってしまっていても、ふざけんなよおまえと怒られてしまっても、俺が悪いのだから仕方が無いのだが、ケイトはまったく気にする素振りのひとつとして俺に見せずに、靜かな喫茶店の片隅ですらりと伸びた脚を組みながら──これがまた映画やドラマのワンシーンように、ポストカードや絵画のように、実に画になるのだ──読書に勤しんでいるため、俺は活字オタクであるケイトには今も昔もつい甘えてしまう傾向にある。ケイト曰く、活字オタクじゃあ無くて文学好きなだけだ、とのことだがアレはどう見ても紙一重で活字オタクの部類だ。いっそ活字中毒と云っても良い。けれど如何に最低な俺にだって、当然、罪悪感が無いわけでは無かった。だからいつも待ち合わせには、駅前何時、と言ってしまうのだが、それは守れた試しが殆ど無かった。態とで無かろうとこんなのは簡単に許されても良いことでは無いだろうと俺は自分でもそう思ってはいるのに、しかしながら幼い頃から俺の時間に対するルーズさを誰よりよく知るケイトは既に俺について諦めているので今更俺の遅刻なんかを逐一咎めたりはしないのである。おそらくこんなにも暑い今日も、だ。
 先に言っておくと、俺は正しく無い人間だ。
 ただ、正しく無い自覚くらいは持っている、から、こその、付き合い方と云うものがあると思っているのだった。即ち、何が俺たちにとって正しいかを、俺なりに熟考した結果がこうなのである。正しく無い俺だって、幾度も、眠れなくなる程度には、ほんとうに真剣に考えた。仮に。俺の胸のうちを嘘偽り無くすべて話したとして、もしかするとケイトは認めてくれないかも知れないけれど、俺は俺なりにケイトを1番に護れる人間で在りたいと思う。し、きちんと親友であると思っているので、そのことをケイトに示して信頼して貰うか、或いは極端な話、ケイトにとって“0か100か、小百合かそれ以外かの俺”を貫き通すか。
 小学校にも上がらぬ幼い子供の頃に突然、ケイトは俺の狭小なる世界に現れた。色素が薄くておおきな瞳なんてくりくりしていて絵本から出てきた天使みたいな容姿をしていて、俺は最初あいつを未だ嘗て見たことも無い生き物だと思った程だ。ほんとうに俺や、俺の狭小なる世界で生きている、哺乳網の霊長目、ヒト科ヒト亜科ヒト族ヒト亜族ヒト属、学名Homo sapiens Linnaeus (1758)、要するに同じ“人間”だなんて嘘だろうと。なのでよくよく虐められてさえいたが俺は自分だけはケイトの味方で有りたくて、出来ることなら特撮映画のヒーローのように、颯爽とスマートにあいつを護ってみたかった。のだが、現実は決して甘くなく、ケンカに強いわけでも無い上、多勢に無勢でふたりして仲良くコテンパンにのされた記憶しか無いのが我ながら情けないところだ。だがケイトは自分が異物扱いされることよりも、俺が怪我をすることのほうに罪悪感を募らせていたようで、いつも何か言いたげに哀しそうな、つらそうな顔をして、でも結局何も言い出さなかった。それで良いと俺は思っていた。ケイトを独りぼっちにするくらいなら、ケイトの顔に万が一傷を付けられるくらいなら、俺が多少負う擦り傷など安いものだった。俺にとって大事だったのは、何より、あいつが俺から離れていかないことでもあった。なのに中学にあがる頃には可愛かったケイトは本人の意思に反しどこに居ようと人目を惹き付けてしまう、すっかり羽化した綺麗な“何か”へと変化していた。伸びた背が後ろ姿にも綺麗で、長い手足と、つけ睫毛やマスカラでコーティングされた女の睫毛より長く密な睫毛がつくる影。あいつを取り巻く環境は現金な迄にがらりと変わり、誰もが、タレントのようだとモデルのようだと容姿ばかりを賞賛するのだ。ケイトは整っているだけの人形では無いのに。ちゃんと人間らしく、誰もが持っているふつうの悩みだって不安だって抱えているだろうのに。俺は、だから、それを理解出来るのは俺だけなのだと自負していた。それゆえに、俺たちを、と云うかケイトを散々虐めていた阿呆が、厚顔無恥にも気安くケイトに近付いて来ることが許せなかったし、それ以上に、ケイト自身も何もかもを水に流したかのように平然としている様子に腹が立った。それでもケイトにとって1番は絶対的に俺であったので、俺はそこに優越を見い出しもしていたのだ。誰もケイトを見るなと思うと同時に、見ろよ、とも思っていた。おまえらが羨望している場所に俺だけが立っているのだ。見ろ。そして嫉妬と慚羞と悔悛に溺れて死ね。と──まァこのように、所詮俺も他の人間と然して変わらない人間なのだと気付いたときの自己嫌悪は、あまりに慚悔的で言葉に出来ない。言葉なぞでは追い付かない。だってあれ程迄に無垢で綺麗なあいつが、どこの誰よりも俺を優先するのだ。アラタが1番大切なのだと、アラタより大切な人間は居ないのだと、あのビー玉の瞳が雄弁に語り掛けてくるのだ。堪らない。そういう俺の子供染みた独占欲と顕示欲にきっとケイトは気付いていない。たぶん、未だに。なぜならあいつの興味の矛先はいつだって、俺だけに向けられているからだ。そんなことは、それこそずっと昔からケイトが考えて、実行しようとしては失敗してきたことだった。俺は他の人間とは違うのだと誰かに自分に言い訳するように、あいつの目立って仕方の無い容姿に態とらしい程ふれようとしなかった。よって、ケイトは、自分に対する興味の無さを俺が示す度によくわからない苦しみや苛立ちに似たものを胸のなかに抱え込んでいただろう。みっともないと有識しつつその戸惑いにまかせ、時には俺に厳しい態度を取ったり、時には俺との距離を置いたりと、してきた時期すら有った。しかしそんなものは無駄にも過ぎる行為であると頭の良いあいつは直ぐに気付く。あいつが精一杯頑張って俺を遠ざけようと努めても、逆に近くにいようと望んでも、率直に俺に対して怒ろうと優しくしようと関係無く、俺は、ケイトへの態度に一貫して知らぬ存ぜぬ幼少期と大して変わらず普段通りを貫いた。ケイトが俺をどう思おうとも、そんなものは俺にとってまるで痛くも痒くも無い、些細なことなのだと、あいつが認めるしか無い迄に、それでもある程度の時間を要していたようだったが。それはそうだろうなと思っていた。なぜならそれを認めてしまえばケイトのなかに残るものは諦めだけで、けれどそれでも、近付いても遠ざけても同じであるのならば、近くにいられるだけいた方が良いとあいつは開き直るより外に無く。結果、ケイトは俺といて楽しい分だけ苦しそうに笑うようになってしまった。その判断が正解だったのか不正解だったのか、それは俺にもわからないが、自分で自分を追い詰める程に真面目なケイトはきっと何度も真剣に考えただろう。し、俺も密かに何度も考えた、と云う、その事実だけが、今も尚ふたりの間に漂っているのだろう。不毛だと思う。とても不毛だと思う。しかして、俺たちはいざ会って顔を合わせれば、互いに向けられる無意識的な安堵を孕む、意識的な笑みにすべて持っていかれそうになるのだから最早、自分ではどうしようも無いのだ。

 1度だけ、ケイトとふたりで呑んだことがあった。今日のように高温多湿で不快指数の高い日だったがまだかろうじて1歩半、夏では無かった。互いに大学が夏季休暇に入るより少しだけ前のことだ。ケイトがアパートでひとり暮らしを始めて直ぐのあの夜、ハタチの誕生日と引っ越し祝いを兼ねて俺はコンビニでアルコールと肴をしこたま購入し、ラインで送られてきていた住所に向かう途中に。目的地であったアパートから、俺と同年代であろう3、4人の男たちが出てきたと思ったら、その後ろを慌てて追い掛けるようにして階段を降りるケイトが、嬉しそうに楽しそうに笑いながら手を振っていた。俺は反射的に電柱の影に隠れ、千鳥足で駅のほうへと歩いていく酔っ払いたちの背を俺も見送る。あァ成る程、ケイトの大学での友人たちなのだろうとだけ思った。たったそれだけのことであるのに俺は、俺では無い彼らとケイトが仲良くふざけ合いながらキャンパスを歩く様子を想像し、一気に気分が悪くなる。ケイトにちゃんと友人が出来ていることへ蘇息すると共に、もう俺の知らないケイトを彼らは当然に知っているのかも知れないことへの暗澹たるものが胸のなかで渦巻く感覚。これは良くない感情だ、と振り切ろうとして上手くいかない。あのときみたいだ、と思った。あのとき。未だ名前もわからない頭の軽そうな男が、当時クラスメイトの女生徒たちに囲まれつつも笑顔ではあったが明らかに困った顔をして渡り廊下を歩いているその後ろ姿を遠目に、3階の窓からケイトと女生徒たちを眺めていた俺へと、突如、声を掛けてきたのだ。誰だか心当たりなどまったくもって無かったが、そいつの、だらしなく履き潰していた上履きのゴム部分の色から俺たちのひとつ上だと云うことはわかった。そいつは脈絡も無く言った。

『あのコさァ、ケイトくん。テキトーに声掛けたらァ、運が良けりゃあ気紛れにヤらせてくれるってほんとォ?』

 は? と思った。はァ? と思った。確かにケイトにはそういった、下卑た噂があったけれど、噂はあくまで噂であって、少なくとも1番近くに存在する俺の前でそんな様子はまるで無かったので。俺はふつふつと沸き滲み出る赫怒感を抑えられず、そいつを睨んだ。先輩だろうと関係無い。この下衆野郎はケイトを貶める発言を、寄りにも寄って、俺にしたのだ。なのにそいつは如何にも軽く、へらへら笑って、わけのわからない言葉をつらつら並べた。俺を嘲笑うようにして。

『“あなたはさっきから、乙姫の居所を前方にばかり求めていらっしゃる。
ここにあなたの重大なる誤謬が存在していたわけだ。
なぜ、あなたは頭上を見ないのです。
また、脚下を見ないのです。”』
『……何ですか、それ』
『あれェ? 太宰治だよ。知らねーの? きみ、ケイトくんの親友なんでしょ? たぶん、ケイトくんならわかるだろうねえ』

 意味も勿論ね。と。俺は意味がわからなくて、だがそんなことよりも、こんな頭のネジの緩そうな人間がケイトと繋がりを持とうなんて、それだけでもうむかむかしてしまい、不用意にあいつに近付いて傷付けるつもりなら容赦しません、と今思うと随分身勝手に過ぎる台詞を投げた。投げた、と云うか、暴投した。某先輩は声を立てて笑い、本気ならいーんだ? なぞと俺を炙り出すように値踏みする視線で挑発し、てから。

『俺は負け戦にマジになんないよ。安心しなァ、黒髪の後輩くん』

 と、何かを見透かしているような、俺の知らないあいつを知っているような、初見から依然変わらず腹立たしい笑みを崩さずに言って直ぐにどこかへ行ってしまった。当時の俺は只々、何だよむかつく、と愚かにもそう口のなかで呟いただけだったけれど、今なら、どうして某先輩があんなことを態々、面識も無かった俺に言ったのかが理解る。理解なんてしたくなかった。俺は俺のためだけに、理解したくなかったのだった。

『ケイト』

 鼻歌でも歌いだしそうな足取りで階段を上がりきり自室のドアを開けてほんとうにあと1歩半。ケイトが部屋のなかへ戻る直前に掛けた俺の声は、自分でも驚愕する程低く憮然とした声だった。ケイトは振り返り一瞬きょとんとしたが直ぐに通常通り何でも無いふうに俺を部屋へ招き入れた。

『部屋。汚いままなんだけど勘弁な?』

 でも俺は最低なことに無言のまま足を踏み入れた玄関先で立ち尽くしていた。それを怪訝に思い振り返るケイトを、俺は何だか何とも言えぬ複雑な気分で視線を彷徨わせていた。

『どうした? アラタ。散らかっててアレだけれど、とりあえず上がっていけよ。もう終電無くなったろ』

 やさしさ、そう優しさでケイトが促す。俺は更に顔を歪めた。瞬時にあァ、と納得してしまったのはなぜだったのか、俺は未だにわからない。そこから先は思い出すのも嫌な程、只々散々だった。何しろ俺は、ケイトに何を言ったのかいまいち覚えていないのだ。ただ只管俺の脳内を胸懐を痛い程に埋め尽くしていた感情は、何で俺より先にヒト呼んでんだよ、だった。靴を脱いでケイトのあとを着いて室内を歩きローテーブルの前に有るソファに腰を下ろしても、俺より先にここに居たのだと如実に示す呑み会の痕跡に苛立つ。何でだよ、おまえには俺が1番じゃあ無かったのかよ、だけど俺はケイトを1番には置いていないからこんなに不条理なことを言える筈も無い。そんなことを考えいたら俺と同じくらい不機嫌になったケイトが、そんな顔になるくらい何か深刻な相談でもあるのなら聞いてやらんでも無いが、何も話す気が無いんならもう寝たい、と俺の隣に座ってそう言った。ので俺は慌てて言い繕う。

『悪い。ケイト。俺酔っ払いの匂いってちょっと苦手で。凄く勝手な話、自分も呑んでたら全然気になんねえんだけど』

 仕切り直したかった。けれど我ながら無理のある──寧ろ無理しか無い湿気った台詞しか言えずにバツが悪い。おまけのように付け足した、さっさと酔っ払おう、と浮かべる作り笑いを俯くことで隠し、コンビニ袋からいろいろ出してローテーブルに並べた。この時点ではまだ俺は19歳だったが、別に初めての飲酒では全然無かったので、俺たちは手に取った缶を開けて軽くぶつけて、小さな乾杯をした。

『もう過ぎたけど、誕生日おめでとう。ケイト』

 面と向かってふたりきりでそんなふうに、改めて言うのはひどく気恥ずかしく、言われたほうも照れるしか無いとばかりにケイトはそれを隠して、頷き、うん、とだけ言って。それから、そのあとはまァいつも通り互いに近況報告的な話やどうでも良い話を適当にして、笑ったり、ばかにしたり、しながら。夜通しで呑んで時間を過ごした。だけれども俺は、敢えて小百合の話ばかりしていた。有りもしない惚気話の数々。小百合は俺のような平凡な男には勿体無い程の、見目だけで無く性格から何から何までパーフェクトと言って差し支え無い、可愛くて愛しいカノジョではあるのだが、ケイトに比べれば瞬く間に霞む。失礼極まりなく申し訳無い最低さだと自覚しているけれど、だって、事実なのだ。だから俺の惚気話はいつだって、半分は実話だが、もう半分は創作に過ぎない。それでいて俺は執拗に話すのだ。それは牽制。それは逃避。それは不誠実。けれども俺には、俺たちにはきっとそれらが必要だった。わかっている。自分が如何に卑怯で矮小であるかだなんて。そんなことはもう疾っくに。俺が1番わかっているのだ。ケイトは俺を好きなのだろうから。なので俺は、そろそろ始発が出る頃かな、と云うあたりで賭けに出た。酔い潰れたふりをしたのである。ソファでは無く床にぺたんと座って、空き缶やつまみの残骸が散乱するローテーブルに突っ伏し、淡つかとした口調で話をした。ケイトの話に大袈裟に相槌を打ち、然して面白くも無いケイトの大学での友人たちの話にも大袈裟に笑った。

『大丈夫かよ。トイレで吐いてくるか? アラタ』

 狡い俺の演技なぞと気付きもしない、ケイトは本格的に心配そうに俺の背中をさすってくれた。それを裏切り俺はううん、と半分寝言のように態とらしく唸った。

『なァ、ケイト。そこに居るか』

 まるで授業中居眠りをする中高生のように両腕を枕にしていた顔を少しだけ上げ、ぼんやりと、遠くを眺めるような目をしてケイトの顔を見た。ここに居るだろ、と答えたケイトは素面である俺より随分と酔っていて、しかし俺が手を伸ばせば、ケイトは狼狽しながらも子供の頃からの条件反射のようについうっかり、と云ったふうに、だが何の躊躇もせずに俺の手を取ってしまっていた。ふたりして熱い指先だった。指先を絡めるなんて子供の頃以来だ。もう何年ぶりだろうか。ケイトは相当酔っていた。俺は再び、自分の腕枕に突っ伏してまた唸り、ケイトが何かを言いだす前にアルコールのせいで嗄れた、声で呟いてみた。

『増えてくばっかだ』

 切実に。そうして俺は爆弾を落とす準備を始める。

『言えない、理由。そんで、どんどん、言い訳になってくんだ』

 かすかに零したそれらは本音のなかでもほんとうに本音だった。すべてだった。

『だから。何が?』

 ケイトはどうしていいかわからない、といった表情で問うた。

『なァ、ケイト』

 俺は呼び掛ける。確かめるように。否定するように。

『俺おまえのこと、好きだよ』

 顔を伏せているせいか随分くぐもった声になってしまった。ケイトは何も言えず、ただ呆然としていた。固まっていた。

『好きだよ』

 追撃。ケイトは俺の目を見ていた。俺もケイトの目を見ていた。只々、無言で見ていた。
 それ以上は互い何も言えないままに、何分経ったのかわからない。結構な時間を費やし見詰め合っていたのかも知れないし、実際にはほんの数分に過ぎなかったのかも、知れない。そんな沈黙のあと、ケイトは目を伏せて呟いた。俺のために初めてあからさまなボロを出した。

『……ありがとう。アラタ』

 酔っ払いの戯言。そうして笑い飛ばせば済むことだろう。大学で離れ離れになる迄は1番傍に居た俺でさえ聞いたことの無い程の、蕩けたような、やわらかな声だった。優しい声だった。嬉しそうな声だった。心から、幸せそうな、声だった。だから俺は、しまった、と思った。ばかじゃねえのケイト。俺みたいな正しく無い人間に、何でそんな真っ直ぐさで純真を貫くんだよ。俺じゃあおまえを絶対に幸せにしてやれやしないのに。何で。

『愛してるよ。だから1番近くにいろよ』

 何でそんなにも嬉しそうな顔をして、泣くんだ。なァ、ケイト。なァ。罪悪感で死ねるなら俺はもう既に100万回くらいは死んでいる、と、思った。俺は俺が予想していた以上に、ケイトから好かれている。でも、これは、駄目だ。俺はいつか別れるだろう曖昧な恋愛感情とやらでヒトに愛を語るより、ケイトとはずっと、年老いてくたばる迄、気安い親友で在りたい。一生。ずっとだ。

『…………小百合』

 たっぷり間を空けて俺はまた簡単に裏切る。別にサユリという3文字で有る必然性は無かった。どうせ酔い潰れているふりをしているのだから、ナンチャッテ、とでも言っても良かった。なのに俺が発したそのひと言で目に見えてケイトは落胆し、俺はどこまでも図々しくて、いつまでも浅ましくて。幼い子供の我儘でその話題を惚気話に繋げた。俺の心臓は痛んだ。けれどもきっと、いや、確実に、俺よりケイトのほうが余程深く、傷付いたに違い無い。


 おまえを幸せに出来ないばかりか護ることさえままならない、そんな、俺のことなんか、好きになるなよ。好きでいるなよ。正しく無い人間に、執着する程無意味なことは無いだろう? 俺は正しく無い人間だ。根っこからほんとうに正しく無いんだよ。
 ばか。



 半ば駆け込むように喫茶店のドアを開ける。1番奥の、窓やドアから最も遠いいつものふたり用の席で、テーブルいっぱいに何かのグラフやら英数字やらの書かれた資料を拡げ、タブレットを打ちつつもその白く細い手首を1周している時計ばかりを見ている、綺麗な男が居る。俺は何度だって誤魔化すのだろう。

「もうじきここの近所で花火あるだろ。小百合が浴衣と私服とどっちが良いかって真剣に悩んじゃってさ、」

 嘘である。今日は俺はケイトから借りていた本を探していただけで小百合とはメールすらしていない。ケイトは俺の声に反応し即座に顔を上げ、て。しかし全然何も気にしていないふうを装って、アラタ、と俺の名前を呼んで綺麗に、とても綺麗に笑った。

「遅れてごめん」
「ほんとだよ。アラタが遅刻するせいでまた変な奴に絡まれた」
「まじで?」
「まじで」
「ごめん、ケイト」
「ふは、なに心配してんだよ。もう慣れた」
「慣れるな。本気でヤバイ奴だったらどうすんだ」
「それ、おまえが言う?」
「次こそ遅刻しないから」
「それもう聞き飽きたわ。ははっ」

 俺はケイトに本を返して、長居し過ぎて居心地が悪いと言うケイトに謝りながらいっしょに店を出る。途端暑い真夏の太陽と、道行く人々の熱視線。振り返って迄ケイトに注がれる不躾なそれを俺では遮ってやれない。他愛の無い会話をしながら取り敢えずどこに行こうかと考える。どこでなら、こいつは俺に幻滅し開放されるのだろう。ケイトの気持ちを俺は知っている。知っているのでもう2度と、好きだよ、などと声に出して言わない(なァだから、もういい加減、俺を好きだと言ってしまえよ)(そしたら俺は“ごめん。カノジョがいるから”とでも有りきたりなテンプレートで、漸くケイトを自由にしてやれるだろう)。

「アラタ」
「なに」
「“それは世間が、ゆるさない。世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?
 そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ。世間じゃない。あなたでしょう?
 いまに世間から葬られる。世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?”」
「? 太宰?」
「そう。『人間失格』な」
「つうか何でいきなり太宰?」
「アラタが来る前に絡んできたヒトが俺にそう言ったんだよ」
「何でまた」
「知らねえよ。何か頭のネジ緩そうなヒトだったし」

 広くつくられた歩道を横に並んで歩く、俺たちの距離は丁度、1歩半。溜息のような愛撫のようなどうすることも出来ない吐息の塊が、互い、僅かに唇から零れた気がした。暑い。何もしなくとも汗が滲んで、躰は灼かれ、話す度ひらく唇のなか、覗く舌は淫靡に唾液で濡れていて、まるでセックスのさなかのよう、夏は繰りだす呼吸さえ、あつい。
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