ヒトにはそれぞれ好みはあるので一概に皆が皆とは云わないが、日本人はハーフに弱い傾向が有るように思う。
 態々ブリーチをしなくとも、カラーコンタクトを入れなくとも、美白スキンケアをしなくとも、北欧系の血が半分流れている俺は、髪の色も瞳の色も肌の色も色素が薄く出来ている。俺からすると日本で生きていくにおいて、光の加減で黝くも漆黒にも見える黒髪や瞳の色は、俺とは違う白さの柔肌に映えてとても綺麗だと思うし、何よりこの国の高温多湿な気候や天候に耐えられるつくりをしていると云うわけで、それだけで生きやすそうで羨ましく思える。無意味に不躾な注目を浴びることも無い。目立つことを職業にしているタレントやモデルならまだしも、日本で生まれて日本で育ったただの学生に過ぎない俺は幼い頃からいつも、あいつが羨ましくて仕方が無かった。今でもそうだ。特にこんな暑い季節には。
 まったく容赦の無い気温と陽射しのつよさに耐えかねて逃げ込んだ、駅前の喫茶店はもう数え切れない程によく利用している。ケイト、駅前12時過ぎな、などと笑う約束は守られたことが皆無に等しい。そのせいで店の奥にある、1番、窓と出入口から遠いふたり用の席は、いつの間にか俺の指定席のような扱いになっている。見上げた壁に在るアンティーク調の古びた時計に、また待ち惚けかよ、と溜息をつく。待つことばかりに慣れてしまった。待ち合わせ時間は既に1時間を過ぎようとしている。俺は足を組み替えて、テーブルの上のアイスコーヒーに手を伸ばした。冷房の効いた店内であってもグラスを満たしていたそれは氷が溶けて、薄いアメリカンを更に薄めて味気無くなってしまっていて、グラス周りは汗をかいたような、涙を浮かべたような、点々とした水滴で濡れている。そこに映る俺の顔はグラスの角度によって波打つように歪んでいて、ちょっと可笑しい。こんな容姿をしているので、子供の頃はそれはもう、男のくせに女みてえだの何だのと、よく虐められたものだが、幼馴染みのあいつだけは絶対に俺の味方をしてくれて、けれどあいつもケンカにつよいわけでも無ければ運動神経に優れているわけでも無かったから結局ふたりしていっしょにコテンパンにのされる、と云うのがお決まりのパターンだった。おまえを護れなくてごめんなケイト、などと俺より余程ひどくやられた擦り傷だらけの顔で謝る。ばか。謝らなきゃならないのは自分の身ひとつ己の力で護れない俺のほうだろう。俺はその度居た堪れない気持ちになって、そうだ、そんなことねえよ、って、おまえが居てくれるだけで充分なんだよ、って、だからもうおまえは俺が何をされていようが見て見ぬふりで通り過ぎろよ、って、俺はあいつに、そう言うべきだった。頭では常にそう思っていたのに、不義理にも、口に出し言えた試しが無かった。それが中学に上がって背が伸び始めた途端、周りの人間の俺を見る目ががらりと変わって、突然手のひらを返したのだから嗤えた。タレントみたいだと、モデルみたいだと。なので男にも女にも不条理なことにやたらと好かれるようになったのだが、付き合った回数、と云うか、正直なところ寝た回数で云うならば相手は同性である男のほうが、圧倒的に多かった。そのなかには小学生の頃散々俺を殴って女みてえだと嘲笑していた筈のガキ大将なる虐めっ子だった奴すら含まれていたのだからほんとうに可笑しかった。そいつは俺を抱き締めながら今更何の効力も持たない謝罪を繰り返して、ガキだったから、気を引きたくて、けれど俺の傍には必ずあいつが居たからそれでどうすればわからなくて、要は好きな子程虐めてしまいたくなると云うありふれた自意識を明かした。寄せよ気色悪い。好きならば大事にするべきだろう、ふつう。俺を大事な親友だと言って、俺への態度を一貫して変えなかったのは、後にも先にも、あいつだけだ。今現在、俺を待たせている、アラタ。アラタは俺を護ろうとしてくれた唯一の人間だった、が、時間だけは、全然守らない。
 本を開きながら思う。基本的に俺は男と寝るとき、どちらかと云えばネコのほうをすることが多いのだが、それはなぜなのかと問われても、自分自身のことなので、理由なんか厭になる程に自覚している俺としては、別に理不尽とも何とも思わない。なぜなら幾度と無く夢想した、アラタをベッドに引っ張り込むと云う場面で、たぶんタチは向こうがするのが適切であろうと云う結論に達しているからだ。だって、何れ程優しく甘やかに愛されようが、突っ込まれるほうは快楽を感じていてもやはりはっきり言って相当痛いし、元々そういうことをするために出来ているわけでは無い躰に負荷をかけるのだから関節だけで無く骨はあちこち軋むし、主導権など間違ってもほぼ握れないと断言しても過言では無いと思う。同性との性行為になんぞ微塵も興味の無いアラタに、仮に、俺と寝させた上、まだ追い討ちを掛けるようなそんな目に合わせてしまいまでするのは重大にも過ぎるあやまちである。仮に。そう、仮にだ。それが永遠に訪れる筈が無いだろう日の、無駄な思考実験にしか過ぎないとしてもだ。
 諦めても諦めても諦めきれずに、どうしようともそんな夢が果ててくれないのだ。俺が1度として見たことも無い、あいつの雄の目をした顔を、1度も聞いたことの無い種類の、あいつの切羽詰った声を、不埒な俺は勝手に組み上げては、次々に穢す。何がアラタの親友だよクソッタレ。ふざけんな俺。恥を知れ。気色悪い。──と、己を幾ら罵ろうが、矮小で姑息な俺の思考は、常々あいつを穢すのだ。
 いつだったかアラタが言った。

『文学青年と活字オタクって紙一重だと思う。そんでもってケイト、おまえは後者だな。どう見ても』

 初めて読んでいるわけでは無いのに、開いている本の内容が頭に入ってきやしない。慢性的に眼球の奥が疲れている目許をこすって、壁時計だけを暫く眺めていた。5分経っても10分経っても、一向にアラタはやって来ない。スマホにかけても繋がら無いから、留守録には、いつもの喫茶店に居る、と入れておいたのだけれど。アラタとの待ち合わせに指定される場所は、なぜかいつも駅前だ。しかしアラタが時間通りに来ることは殆ど無いので俺はこの喫茶店に逃げ込む。遅れてきておいてあいつは、俺に謝るよりも先に、幸せそうに馬鹿面で笑って、決まってこう言うのだ。

『サユリと話し込んでたらすごい盛り上がって、』
『サユリから電話掛かってきてさ、』
『サユリがなァ、』
『サユリが、』

 小百合。小百合。小百合。小百合。そのあとにして漸く謝る。待たせてごめんな、と。さっぱり悪びれぬ顔をして。
 小百合、というのは、言わずもがなアラタのカノジョだ。曰く奴らの通う大学で出逢った運命の相手らしい。俺は通っている大学も住んでいるアパートも、最早アラタとは少しばかり距離があるので、2、3度、会ったことがある程度なのだが、長身でスレンダーで、それこそタレントみたいな、モデルみたいな、綺麗な女だった。そのわりに見目を裏切り家庭的な性格らしい。得意料理は甘党なアラタが好きな、ザッハトルテ。そういう紹介のされ方をして。アラタおまえ実は面食いだったんだな、以外に、幼馴染みでしか無い男の俺に何が言えたろうか。アラタと同じ髪の色。瞳の色。肌の色。アラタは惚気ながら無邪気に笑う。

『別に気にしなくていいと俺は思うんだけれど小百合は貧乳なのコンプレックスらしくって。直ぐ隠すんだよ。可愛いよな』

 とか、俺にはどうしようも無いことを。貧乳だろうと何だろうと女であることに変わりは無い小百合さん。貴女の。その貧乳はアラタによって揉まれて吸われて摘まれて、でも丁寧に愛撫されるのだろう。おそらくは。なんて羨んだところでどうにもならない。けれど俺が香りのつよい百合の花を嫌うようになってしまったことだってきっと、どうにもならない。

「ねえねえ。きみさァ、いっつもこの席で本読んでるね」

 声を掛けられたので顔を上げると、記憶に無い男がまるで当たり前のように俺の座る椅子からテーブルを挟んだ向かいに、勝手に座っていた。俺の許可を得ることも無く。何となく軽薄そうな印象の男だった。

「あ、俺ね。たぶん、きみと同じ大学で学部もいっしょなんだけど」
「はあ」

 誰だよ。俺にはわからない。

「構内で何度か見掛ける顔だって思ってたんだよね。きみ、あのケイトくんでしょ?」
「どこのケイトくんだか知りませんが、何で俺のファーストネームを?」

 何だろうか。ナンパか? いや、もしかしたら俺と本の話をしたいだけの文学青年かも知れない。活字仲間かも知れない。

「少なくとも同じ学部の人間はみんな知ってるって。きみのこと。だって、きみ超有名だから。入学してきたばっかの頃からさァそこらの女より余っ程すっげーキレエな奴が居るって噂になってたし。あー…ええと、何だっけ、確かフランス人とのハーフ? だっけ」
「入学してきたときからってことは、貴方は先輩ですか?」
「うん。きみのひとつ上。でも俺テキトーだからねェ。幾つか単位落としちゃっててさァそのせいで同じ講義に居たりする」
「はあ。とりあえず俺はフランス人とのハーフでは無くて、アイスランド人とのハーフなので北欧系です。だからそれは別の人のことじゃありませんか」
「あははは。面白いこと言うねケイトくん。まったく、きみみたくキレエな男がそうそう居て堪るかよォ。なァ、何読んでんの? 俺ここで本ばっか読んでるきみを見る度、気になってたんだよね」

 活字仲間か否か。さァ貴方は、どっちだ。

「その時々で何でも読みますが。今は南総里見八犬伝を読み返している最中です。ほらこれって全98巻なのに106冊あるじゃ無いですか。丁度91冊めを読んでいるところなんですが先輩、92巻持っていませんか? 引越しのときどっかいっちゃったらしく、そこだけ抜けているんですよね」

 某先輩は一瞬目を丸くして、そして声を立てて笑った。嗤った? どうして。なぞと考えるまでも無い。

「きみね。俺がそういう本とか読みそうに見える?」
「見えません」
「そりゃそうでしょ。じゃあ何で訊くのよ? ははっ」
「世の中には万が一ってこともあるので。あと、ヒトを見掛けで判断するのは失礼かな、と」

 そうだ、こんなにも頭のネジの緩そうな男は、南総里見八犬伝を全巻持っていたりはしないのだ。俺にはわかる。わかりたく無くともわかるのである。

「女の子たちがよく話してんだよ。ケイトくんは難攻不落だって。合コンとかカラオケとか、遊びに誘っても、ちっとも来てくれないんだって」

 脳内にアナウンス。
 八犬伝を1度も読んだことの無い男は現在受け付けておりませんので、てめえは速やかにお帰りやがれ。

「きみ、女の子にキョーミ無い人でしょ」

 相手をするのが面倒になってきた。アラタ、はやく来い。

「いいえ別にふつうです。女の子、可愛いと思いますよ。ただ俺、酒の席って苦手なので合コンとかそういうの、あまり興味無いだけです」
「へえ? 酒の席が苦手ってのより、片想いしてたりするんじゃね? 例えばさァ今日もきみを待たせてる黒髪の彼とかねェ? ちょっとひょろい感じの」
「違いますよ。あいつはただの幼馴染みです。ていうか、もうじき来ると思うんで、そこの席空けてくれませんか」
「でも好きな人なんでしょ? だって、いつもきみは待ち惚け食らってもずっとそこに座って、つまんなさそうな本読んで待ってんじゃん? 健気だよねー」

 駄目だこの男。ヒトの話を聞かないタイプだ。何言っても無駄だ。

「だから。違いますって。あと読書ばかにしないでください」
「じゃあそういうことにしといてあげよう。あ、これ俺の連絡先ね。暇だったら俺とも遊んでよ、ケイトくん」

 渡されたノートの切れ端。超要らねえよ。だがいけ好かなかろうが、俺たちのような種類の男は見ていればわかってしまう。同類だって。セクシャルマイノリティだって。というか自分は名乗りもしなかった某先輩はナンパのみならずストーカーか? いっつも見てんじゃねえよ。気持ち悪い。いつから観察されていたのか。想像するに気持ち悪い。けれどもそれを言ってしまえば、未だにアラタに固執し続けている俺が1番気持ち悪い人間と云うことになる。ので、俺は家帰ったら即捨てよう、と押し付けられたばかりの連絡先をポケットに仕舞い、またアラタを待つ。
 緩い某先輩はにこりと俺に笑って耳元で囁いた。

「“それは世間が、ゆるさない。世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?
 そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ。世間じゃない。あなたでしょう?
 いまに世間から葬られる。世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?”」

 太宰治の『人間失格』。有名な一節をそらで言った。俺は某先輩へと視線を合わせる。先輩はそこでやっと、にやりと悪そうな顔をして、俺の傍から離れ、立ち去ってゆく。俺はそれでも変わらずアラタを待つ。ずっと待っている。

 合コン云々以前に酒の席は苦手だと云うのはほんとうだった。正しく云えば初めて呑んだその日を跨いで、苦手になったのだ。

 あれは丁度、俺のハタチの誕生日だった。成人した祝いにと両親がくれたプレゼントは、今住んでいるアパートの鍵。ひとり暮らしを許された俺はとても嬉しくて、引越して直ぐに友人たちがウチに押し掛けてきたのだが、勿論嬉しかった。非常に気持ちの良い夜だった。晴れて未成年者では無くなった祝いだとか、ハタチになって初めてのひとり暮らし祝いだとか、言われながらおめでとうと勧められる酒を断る理由も無く、既に俺より先に成人していた友人たち数名の奢りに、遠慮無く呑み食いした。そのうちアルコールがまわり程よくテンションの上がっていた俺は、鼻歌でも歌いだしそうな程度には上機嫌で、終電直前に帰っていく友人たちを階段下まで降りてから見送り、不意に見上げた夜空の美しさに驚いたりもしていた。空は黒い色だった。頬にあたる風が気持ち良くて、足取りも軽くなって、何ら確信も無いが明日からはもっと良いことが有りそうだとか独り言を小声で呟いて。その日は朝から目覚めが良く、酔いも程々にまわっているので、よし、これでウチに入ってしまえばもう誰にも邪魔されること無くあとは惰眠を貪るだけだと。パジャマ代わりの楽なスウェットに着替えて気持ち良くその日を終わらせるつもりでいた。無論翌日は大学もバイトも休み。課題も無い。つまり何ら用事も無い。だらだらと怠けて過ごせるのだ。何と素晴らしき日かなと、

『ケイト』

 思っていたら背後から声を掛けられた。階段を上がりきり自室のドアを開けてほんとうにあと1歩半。部屋のなかへ戻る直前。振り返れば久方ぶりのアラタが立っていた。もうそれだけで、俺の酔いは見事なまでに呆気無く吹き飛んだ。

『部屋。汚いままなんだけど勘弁な?』

 引越したばかりの自室に、住所はラインで送ったがよもや約束もしていないアラタが来るとは思っていなかった。そんな、俺にだけ都合の良いこと。出会い頭の挨拶を経て、なぜだかアラタは無言だった。アラタのその手にはコンビニの袋が下げられていて、中身など覗かずとも一目瞭然に缶ビールやチューハイのアルコール類だとわかるのに、アラタは無言のまま足を踏み入れた玄関先で立ち尽くしていた。俺が怪訝に思い振り返ると、アラタは何とも言えぬ複雑な顔をしながら視線を彷徨わせていた。

『どうした? アラタ。散らかっててアレだけれど、とりあえず上がっていけよ。もう終電無くなったろ』

 やさしさ、そう優しさで俺が促せばアラタは更に顔を歪めた。瞬時にあァ、と納得してしまったのはなぜだったのか、俺は未だにわからない。

『呑み会でもしてたのか?』
『うん。まァ。俺の成人祝いと引越し祝いって名目でな』
『そんな仲良いんだ。さっき道で擦れ違った奴ら』
『あァ、擦れ違ったのか。同じ学部の同期生だしな、そりゃそれなりには』
『…何で俺より先にヒト呼んでんだよ』

 ようやっと喋りだしたと思ったらそんな台詞をあいつは吐いた。

『は?』
『何も。…んじゃ、お邪魔します』
『あァうん。どうぞ』

 そうして、アラタは靴を脱いで俺のあとを着いてきた。のだけれど、これまた何だか渋い顔をしてローテーブルの前に有るソファに腰を下ろした。俺は本気で何が何だかわからなくて、何でこいつこんな機嫌悪いんだろうと不思議に思いながら、いったい何だ、帰りたいなら帰れよ、もう終電無いけど。おまえも祝いに来てくれたんじゃねえのかよ。と、そんなことを思っていたらアラタのあからさまな仏頂面に腹立たしいような気分になって、そんな顔になるくらい何か深刻な相談でもあるのなら聞いてやらんでも無いが、何も話す気が無いんならもう寝たい、と俺はアラタの隣に座ってそう言った。実のところ俺は自覚している以上に酔っていたのだ。

『悪い。ケイト。俺酔っ払いの匂いってちょっと苦手で。凄く勝手な話、自分も呑んでたら全然気になんねえんだけど』

 仕切り直すようにアラタはそう言って、さっさと酔っ払おう、と笑みを浮かべコンビニ袋からいろいろ出してローテーブルに並べた。この時点ではまだアラタは19歳だったのだが、俺よりずっと呑み慣れている様子だったので俺たちは手に取った缶を開けて軽くぶつけて、小さな乾杯をした。

『もう過ぎたけど、誕生日おめでとう。ケイト』

 面と向かってふたりきりでそんなふうに言われたら照れるしか無い。俺はそれを隠して、頷き、うん、とだけ言って、それから、そのあとはまァいつも通り互いに近況報告的な話やどうでも良い話を適当にして、笑ったり、ばかにしたり、アラタとアラタのカノジョの惚気話を聞かされたり、しながら。夜通しで呑んで時間を過ごした。けれどそろそろ始発が出る頃かな、と云うあたりで、アラタは酔い潰れてしまっていた。ソファでは無く床にぺたんと座って、空き缶やつまみの残骸が散乱するローテーブルに突っ伏し、淡つかとした口調で話をした。アラタは俺の話に大袈裟に相槌を打ち、然して面白くも無いだろう話にも大袈裟に笑った。

『大丈夫かよ。トイレで吐いてくるか? アラタ』

 本格的に心配になってきて俺が背中をさすれば、アラタはううん、と半分寝言のように唸った。

『なァ、ケイト。そこに居るか』

 まるで授業中居眠りをする中高生のように両腕を枕にしていたアラタが少しだけ顔を上げ、ぼんやりと、遠くを眺めるような目をして俺の顔を見た。酔ってんなァと思いつつ、ここに居るだろ、と俺が答えるとアラタの手が俺に向かって伸びてきて、俺は驚愕しながらも子供の頃からの条件反射のようについうっかり、何の躊躇もせずにその手を取ってしまっていた。ふたりして熱い指先だった。アラタも酔っているが俺だって相当酔っていた。アラタは再び、自分の腕枕に突っ伏してまた唸った。どうしよう、と俺が困るよりもはやく、アラタは嗄れた声で呟いた。

『増えてくばっかだ』

 え、何が?

『言えない、理由』

 そんで、どんどん、言い訳になってくんだ。
 とアラタはかすかに零した。

『だから。何が?』

 それともアラタの云う、言い訳とやらは、聞かないでいてやるほうが良いのか? だったら俺は何も聞かないように努めるけれど。

『なァ、ケイト』

 うん。何。

『俺おまえのこと、好きだよ』

 アラタは顔を伏せていたので随分くぐもった声だった。それはもう俺の耳がぶっ壊れたのでは無いかと疑わざるを得ない程に。俺は何も言えず、ただ馬鹿みたいに呆然としていた。固まっていた。

『好きだよ』

 追撃が来た。アラタは俺の目を見ていた。俺もアラタの目を見ていた。只々、無言で見ていた。
 何も言えないままに何分経ったのかわからない。結構な時間を費やし見詰め合っていたのかも知れない、し、実際にはほんの数分に過ぎなかったのかも、知れない。そんな、信じられない沈黙のあと、俺は目を伏せて呟いてしまっていた。

『……ありがとう。アラタ』

 酔っ払いの戯言、カノジョと間違えているのかも知れなくても。俺は嬉しかった。これから先を何れだけ報われないとしても、アラタに好きだと伝えられないままで親友ぶるしか出来ないとしても、たぶん、俺は、幸せに生きていける気がした。

『愛してるよ。だから1番近くにいろよ。…………小百合』

 なのにそのひと言で落胆してしまう俺はどこまでも図々しくて、いつまでも浅ましくて。

 ゆえに俺はその日、酒を苦手とする大人になったのである。

 単純に、アラタと話すのはとても楽しい。あいつは映画が好きで、古いのから新しいのまで大抵のものは観ているから、話題に事欠か無い。それらをすべて覚えている程、頭も良いので他の友人たちとは段違いに、俺以上に雑学的知識を持っている。俺が活字から得る自分の知識を展開させても尋ね返されること無く話がスムーズに進み、息が合うのは、それこそ今まで出逢った人間のなかでアラタくらいしか居ない。時に感心し、刺激され、尊敬もする。
 俺との待ち合わせをぞんざいに扱うアラタに苛立たないわけでは無いけれども、しかし俺は学生と云えども大人になった今になりアラタに対して苛立ちをぶつける術を持たないのだ。アラタが笑っているのなら、アラタがそこで幸せであるのなら、そこに俺の居場所が失くなるとしてもそれで構わない。それに俺はお安いことに、認めたくないのだが認めるしかあるまい、アラタが目の前に姿を現しさえすれば、他は何もかも、どうだって良くなるのだから。有り得なく大幅な遅刻を咎める気持ちさえ簡単に消え失せる。あのとき貰った、俺宛てでは無い『好きだよ』を覚えていられる限りは、待ち惚けすら虚しくならないのだ。ただあいつと会って別段意味の無い会話をするそれだけで楽しいだなんて気持ちが悪い、と自分でも思わないでも無いが。止まっていた指で目の前の本の頁をめくる。指先に若干やわい痛みが走り、しまったと思って右手の人差し指の先を見ると、皮膚がぱっくり割れていた。紙で指を切るとか阿呆か。運が悪い。そこはあの夜、酔っ払いのアラタが握った指先だ。アラタが俺に特別な興味を抱かないことを俺は知っていて、だから俺はアラタに特別な興味は無いふりを続けるのだ。
 開いていただけの本を鞄のなかへ仕舞い込むように、俺はこの気持ちをきちんと仕舞い込んでゆけるだろう。だって俺はどうしようと、アラタにとって幼馴染み以外の何者にもなれない。例え俺が何れ程アラタだけを好きであっても。間違えてはならないのだ。ここに在るものは完全に一方通行の好意でしか無い。つい今しがた紙で切った人差し指が痛い。
 さて、アラタはあと何れくらいで来るのだろうか。まだ掛かりそうなので、アイスコーヒーをお代わりして、長々と居座ってごめんなさい、と心のなかでウェイトレスに謝罪してから、そうだな、溜め込んでしまった夏期休暇の課題にでも、取り掛かるかな。
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