後悔はない、伝わるならば。俺に後悔はない。後悔するという気持ちも存在しない。だから、きみの記憶を消します。と、微笑んだ男から色が消えた。優しかった、俺の知っている筈の男の色が消えた。そして紡がれた言葉は理解する事も出来ないくらいに絶対零度の冷たさを保っていた。そうして焼かれてしまった耳は暫く溶ける事なく、冷たい氷を貼り付けて音を一切合財遮断する。

「なに、言って…、」
「違うよ」

 そうじゃあないと男は首をゆっくり横に振るう。見慣れない真っ黒のコートに真っ黒の手袋。薄い色素だけが明るく夜空に輝く。男の背景では嘘っぱちな夜空が瞬く、天体観測を日課としていた俺に近付いても、また、星を見るのが好きだと微笑んで俺のこころに色を刻み付けた。心に生まれた色の名前は解らないけれど、それはきっと、この男の色だ。優しく微笑む口許も、やわらかく揺らぐ双眸も、どれもこれもがすべて優しい色に包まれていて、俺が恋に落ちるまで優しく包み込んでくれていた愛しい色が今、消えてしまっている。

「それは僕のほんとうの名前じゃあない。嘘っぱちの星から生まれた僕にはもう、名前はない」

 星のコードを紡いだ唇は薄っぺらく、淡々と声のトーンを変えなで言葉を紡ぐ。音の羅列、ただの音と成って出てくる言葉、全部に、俺は耳を塞ぎたい気持ちに陥った。

「きみに告げた言葉もすべて、きみに触れた手のあたたかさもすべて、全部、全部、醜い嘘だったんだよ」
「……ちがう、…」
「違わない」
「だって、おまえ…違う、よ……うそ、じゃねえよ」
「いや、すべて嘘だったんだよ。契約者はみな嘘つきだ。きみがそう言ったんだろう。あのとき僕は一瞬、きみが僕の正体を見破ったのかと思った。合理的に判断して、ここで始末しておこうとも考えた。きみは、殺気を読むのが得意なエージェントじゃあなかったのか?」

 ほろほろ溢れては漏れる言葉の洪水に、耳が痛がって悲鳴を上げる。冷めた色彩のなかを何れ程探ろうとも、嘗ての優しい色彩は根こそぎ失われている。なんでだよ。鍛え上げてきてた精神がぼろりと崩壊してゆく。きっとこれこそが男達の組織が望んでいた顛末だったのかも知れない。嘗て頭上を占めていた壮大な空はもうない。頭上に瞬くすべての星と言う星、そして夜空に朝焼け、夕暮れに夕立色の色は全部嘘っぱちで出来た代物らしい。大学院に所属していた俺が研究室から持ち出した資料は何もかも、借りていた小さな家と共に燃やされた。ふたりで1年もいっしょに暮らしていた家を、躊躇もせず燃やしたと、男は言った。
 違う、おまえは俺の知るおまえじゃあない。

「ええそうだ、僕は────ではない」
「…こころを、」
「そう。僕の能力はこころを読むことだ」

 そして対価は、そう言って差し伸べられた手のひら。頭を掴んだその手に、失われたの男のあたたかさを思い出した。
 ああ、消えていってしまう。

 初めて出会った高台、熱帯夜にしては静かだった高台。夜空の星と共に降り出した通り雨、ザアザア唸る雨音、そしてずぶぬれのふたり。
 ふたりで見上げた夜空に瞬いた星、嘘っぱちでもこんなに綺麗に輝くんだね、笑ったおまえの横に寝そべってその心地良い声を子守唄の変わりに聞いていた。
 1年住んだ家。小さいながらにも庭がついていてそこにはブランコもあった。春の木漏れ日が温かい日にはふたりで庭に出てランチを楽しんだ。
 夜、じゃれあいながら交わしたキスには確かに愛が詰まっていた筈だ。
 掴まれた手に縋ったまま、俺はおまえの名を呼び続けた。何度も何度も。心を読めると彼は言った。きっとそれに嘘はない。だって契約者と言うのは嘘つきで酷く合理的だからだ。自分にとっての利害を瞬時に見分けることが出来る合理的人種。人間としての尊厳と感情を引き換えに能力を授かった人種。星から生まれた、生まれ変わった人間。

『あ、ほら。星が流れたよ。願いごとはした?』

 嘘っぱちの星が流れると言うことは、世界のどこかで契約者の1人が死んだ事を示している。そう、書類には記されていたが優しいおまえは照れ臭そうにロマンティックな言葉を俺へと吐き出した。
 優しかったおまえ。その優しい笑顔が心底好きだった。おまえとなら、いつか絶対に本物の星空を眺めることが出来ると信じていた。夢たわ言を信じる子供だと笑われたって良い。何だって良い、もうどうだって良い。

 神さま。
 お星さま。

 どうか、どうかどうか、ああ、どうか!

 パラリと、男の背後で星が夜空を走った。その瞬間を、俺の瞳は捕え、その瞬間、俺の心は熱く燃えてそして切に願っていた。切に、切に、流れる可哀想な星に縋ってしまっていた。最後の涙が頬を伝い、冷たい涙が男の手を濡らして、そして嘘っぱちな夜空に新たな星を生み出した。

「僕らはね、──いけなかったんだよ」

 同じ世界線で出会っちゃ、と、最後に、彼が人間らしい感情性でもって放った言葉の欠片は確かに彼の冷たい心を貫き溶かした。
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