ぽちゃん。やけに軽い音がして、水しぶきが上がった。もう水面に現れることのないだろうそれらを見送って、彼ははにかんだように苦笑するという、器用なことをして見せた。ポケットを探って、言葉を吐き出す。

「何つうか、不安になるな」

　でも、肩の荷が下りた気分だ。
　俺は暗闇に浮かぶ彼のその優しい笑顔に、なぜだか喚き出したくなってしまって、無理矢理、微笑んで頷いておいた。そうだね、と言って。
　家屋の光を浴びてきらめく小さな川から目を背ける。俺も彼も判ってはいるのだ。携帯電話を捨てて誰からの連絡も絶ったところで、ほんとうの意味で自由になることはない。この行為も単なる一時凌ぎであって、逃げ出すことなど叶わないのだろうと。彼は1度おおきく深呼吸してから俺の手を握る指に力を込めた。顔を上げなくても解る。仕方ないなあとでも云うように眉を下げているのだろう、彼は。誰に許されなくてもそれだけでもう良いかと思えてしまう。彼にとっての俺もそうであれば最高なのだけれど。

「行こうぜ」
「うん」

　徐々に空が明らんできている。出発の背景には最適な風景だ。夜明け特有の凛とした空気が胸の内を占める。彼はどこか夢現のような目で俺を見ていたが、ついと前を向いて足を踏み出した。俺も同様だ。じゃりじゃりと2人分の足音だけが、まだ人通りのない道に染み渡っていく。兎に角、逃げ出したかったのだと思う。俺の足は心なしか速くなっていって、急かされるように走るように足を前へ動かし続ける。初めは戸惑うようだった彼の歩調も俺に合わせて徐々に速度を上げていった。競争といっても過言でもない。手を握り合ったままで相手に負けないよう走る俺たちは外から見れば滑稽なことこの上ない筈だ。それでも俺はこのときどうしようもなく泣いてしまいそうだった。きっと彼もそうだったのだろう。何かを噛み締めるみたいに細められた目と視線が合致して、俺たちは強く手と手を握りなおした。電車が横を通り抜ける。朝日を反射した窓が眩しい。それ以上に、俺には、彼の纏ったシャツに染み込んだ朝焼けの色の方が眩しいと思えた。

「俺たち、頑張ったよなあ…」

　不意に、知らず零れてしまったんだとでも云うように彼が声を出した。乱れた呼吸のわりにその音はひどく冷静だ。俺は喉を鳴らす。胃のあたりが妙に熱かった。そうだ、彼の言う通り、俺たちは頑張ってきた。どれだけ重たい期待をかけられようともいつだって笑ってきた。し、必死に演技をしてきたし、戦ってきた。誰かが望む通りにただ優等生であろうとしてきた。大丈夫だなんて笑って、気にしないでなんて笑って。頑張ってきたのだ。キャパシティが限界を超えるくらいには頑張ってきたのだ。頑張っていたのに。何度やめてくれと思ったことだろう。出来るでしょう？　と言われたら頷くしかないではないか。出来て当然なのだという顔をされたらその通りだとでも言うように微笑むしかなかった。真面目ぶった言葉はもうたくさんだった。耳を塞ぐことも億劫で、それでも確実に俺は削れていった。彼は、そんなぼろぼろになった俺をただ抱きしめた。逃げてしまおうかという言葉は、俺にとって単なる救済だっただろうか。福音ですらあったかもしれない。
　風が凪く。道にはまだ誰の姿も見受けられない。彼は前を向いたままだ。

「なァ、どこへ行く」
「どこへでも」

　彼が共にいてくれると言うのならば俺には何の不満も有りはしない。どこであっても変わらない。彼がいるところがすべてで、それ以外は何でもない。

「何がしたい」
「何をでも」

　彼が望むならば何でもしよう。それが俺の存在意義なのだと言ったら、彼は嫌な顔をするのだろう。

「ならさ、きみは、どこへ行きたい？　そこで何がしたい？」

　問えば彼は困ったとでも言いたげに眉を寄せた。いつの間にか2人共足は止まっていて、向かい合わせたまま両手を握り合っていた。どちらかといえば茶色に近い色をした瞳が俺を映し出す。

「おまえが傷付かないんなら、どこでも、何でもいい」

　指を深く絡み合わせてまた歩みを再開する。彼の横顔は確かに笑っていた。後悔など何もないといった表情だった。俺もそんな顔を出来ているだろうか。彼ほど強くはない俺だけれど。
　俺がここにいて彼がここにいる。それだけでいいかとふと思った。もう朝日というには高く上がりすぎた太陽がしつこく肌を焼くし、きっと逃げ切れはしないし、俺はどこまでも臆病だ。それでも。

「だったらさ、どこにも行かないでよ」

　自分でも小さ過ぎる声がぽつり、と零れ落ちた。どうやら聞こえたらしい彼が半歩、俺の前へ出て、俺の名前を呼ぶ。ここから、俺たちの今がはじまるのだと思った。

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