好き嫌いの問題では無いし反発心があるわけでも無い。どうでもいいのだ。
 心の底から思いきり、どうでもいいのだった。

 ゆっくり急げ、だなんてとても不自然だと思う。そして絶対的に、不可能だとも。
 そもそも日本語として妙だ。意味が通じない。
 ゆっくり、というのは楽に、ゆとりを持つような、ようは急がないさまを言うのであり、急ぐ、というのは早くする、つまりそれに費やす時間を普通よりずっと短くすることだ。
 相反するものを同時にしろというのは如何なものか。

(如何なものかと思うんです先生)

 そう言うと、違うだろゆっくり急げなんて阿呆なことは誰も言ってねえ、と笑われるのは目に見えているので、口には出さない。
 確かに、ゆっくりと急げという言葉は使われなかったかもしれない。が、俺からすればどのみち同じことだった。

 お、は、し。

 ご存知だろうか。避難訓練の合言葉である。
 説明すると、

 お 押さない
 は 走らない
 し 喋らない

 と、いうことらしい。

 いくら緊急の状況であったとしても、人を押すのは良くない、危険だ。どんなに急ぎたくとも走ってはならない、危険だ。喋る、のは多分ただの訓練用だろう。大火事の中で悲鳴ではなく楽しくお喋りに没頭するような悠長な奴がいるならお目にかかりたい。
 現に今、避難訓練の真っ最中であるこの学校の廊下では、生徒の喋る声が絶えない。話題はもっぱら「面倒臭い」「だるい」に限るところだが、それでも話し声々は絶えない(本来なら授業を受けている時間に校庭へと歩かされるのは実際面倒だが、なんだかんだ言ってもわりとどいつもこいつも楽しそうに見える)。
 それはそうとして、問題は「お」と「は」だ。
 危ないので押すなと言われても本当に炎が迫ればきっと、例えば目の前に居るのが友人であろうと躊躇無く押すだろうし、危ないので走るなと言われても、はっきり「走らない方が危険だと思う」と言い返したい。そこで歩いていられる方が神経を疑う。
 そのくせ先生、あなたは言うのだ。

「急げ!」

 押さず、走らずにどう急ぐことができるだろう。
 ゆっくり急げ、と言われているようなものだ。俺には。

 ガキの屁理屈。ほんとうに、そう思うか。
 不自然に、不自然に。
 果たしてそれはほんとうに、可能なのだろうか。

 わいわいとざわめく波の中で俺は逆らうことなく移動する。
 別に避難訓練はどうでもいい。好き嫌いの問題でも無いし反発心があるわけでも無い。どうでも良いのだ。
 ただ、丁度目の前にぶつかりそうなその肩と、耳を隠す髪がちらりちらりと視線を遮る。
 どうしようもなく遮る。
 それはクラスメイトのものだった。仮に少年Aとでもしておく。
 しまりのないあくびをし、ているのが後ろからでもよくわかる。
 隣に居る誰かの顔は見えないが、おそらくそれもクラスメイトのひとりなのだろう。
 俺は彼らと特に仲が良いわけでも悪いわけでも無く、気に食わないとか何らかの感情があるわけでも無い。ただそこにいる、なあ、程度の認識で、それは心の底から事実だっだ。
 他の生徒と何ら変わらず──ということはつまり俺とも何ら変わらず──「めんどくせえ、」と唇の端で笑みを零して階段を急がず降りる。
 ここでは多分誰も、自分自身の声を言葉を聞こえないまま、『し』、喋っていると思われる。

 お
 は
 し

 わいわいとざわめく波の中で逆らうことなく移動する。
 視線を遮る少年Aの肩、耳を隠す髪がちらりちらりする。それを見ながら思うのだ、俺は彼を突き飛ばすのかもしれない。
 どくん、と心臓がつよく打ち、それにつられるように足元が揺れた。
 手を伸ばす。指先は震える。視線を遮るその後姿に触れて、力を込める。警戒心のない背中は予期せぬ事態に体勢も整えられずに、呆気なく、ぐらりと。
 落ちる。階段から。
それも、少年Aは先頭ではないので前の方の生徒を巻き添えにして。
 そんな突然の思いつきに俺はふとおそろしくなる。違う。畏れ、では無い。これは、これは、……何だろう。
 想像だ。他愛の無い想像なのだ。そうだ。その理由がない。他意もない。突き飛ばす? 彼を、俺が。どうして? ──再度確認する。確認するまでもなく、俺は彼らを嫌っても好いてもいないし何の感情も持っていない。
 怪我をさせる動機もない。この人の波の中で少年Aを突き落とせば、怪我人が大勢でるのは間違いないだろう。

 ゆっくり急げ、だなんてとても不自然だと思う。そして絶対的に、不可能だとも。
 しかし今や俺の視界は緩やかにスロウモーションのように映してしまっていて、他のことでも何か喋れば想像はうまく途切れてくれるかもしれないのに、なぜか喧騒はただの雑音に成り下がりどんどん俺から遠ざかる。
 心臓はせいている。とてもせいている。
 なのに吸い込んだ空気は驚くほど重く、そのせいで、吐き出す動作がどうしようもなくゆっくりとしたものになってしまう。

(もしかして、ゆっくり急ぐ、この感覚か)

 途端に吹きだしたくなる衝動。反して無意識に腕が上がる。ゆっくりと、ゆっくりと。
 速さを増す心臓はめいっぱい、俺の体に血を送る。
 絶対的に不可能だなんてきっと有り得ないのだ。不自然な動作はこんなにも、自然だ。だいたい、佇まいだけで悟ってもらおうなんて無謀にも程がある。
 どうしようもなく遮る、目の前を遮る肩が、髪が、ちらちらちらり。
 手を伸ばす。指先は震える。それに触れるのは少年Aの、────

 お さない
 は しらない
 し ゃべらない



 突き落とす? 彼を、俺が。
 どうして。
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