朝、ボストンバッグを提げた萱野が、音も無くいきなり洗面所に現れた。じゃあな、とまるで今生の別れのように、低血圧特有の掠れた声で言う。よもやこれは『実家に帰らせて頂きます!』と云うやつなのだろうか。兎に角驚き過ぎた俺は歯ブラシを口のなかに突っ込んだまま咄嗟に、ふェ!? と意味のない言葉を口走ってしまった。そしてそのまま黙っておれに背を向けた萱野を、俺は急ぎ、うがいをし、て、つんのめりそうになりながら追いかけた。

「待て萱野! 待てって!」
「何だよ」

 既に靴を履いて、玄関のドアノブに手をかけている萱野の腕を掴む。刹那、掴んだ腕が強張って、それから、ほうっと少しずつ緩んだ。

「突然『じゃあな』っておまえこそ何だよ、意味わかんねえよ」

 昨夜だってそれ以前だって俺は萱野とケンカになった覚えは無い。だから、たったひと言。『じゃあな』と云う台詞ひとつで萱野がどこか遠くへ行こうとしている意味がまったく理解出来ないし、理由なんかもっと理解出来ないのだ。なのに萱野は頑として、出て行く姿勢を崩そうとしない。俺は1度深く息をついて、取り敢えず落ち着こうと努力する。

「……わかった。いやほんとうは何もわかんなくて困惑中なんだけど。おまえがどっか行っちまうつもりだってのはわかった。でもな、萱野。いま外すげえ雨なんだよ。豪雨。だから、車だすから送ってってやるよ」

 俺は萱野がどこへ行きたいのかも知らないのだが知らないままそう言った。勿論納得はしていないけれども、萱野が何も言わないときはほんとうに何も言いたくないときなのだと、決して短くは無い付き合いから俺は重々承知している。外が豪雨であることだって嘘じゃあ無かった。激しい雨音は、昨日の夜からアパートを叩き潰すような勢いで鳴り続けていて、いま現在もどうどうと窓をつよくノックする耳障りでおおきな音が聴こえていた。

「……そうだな」

 萱野は目を閉じ、緩く吐いた息と共にぎこちなく頷いた。しかしそれは溜息では無く、俺は漸く安堵する。いつだって萱野は、正しく優しい。目を伏せたときの萱野の瞼はなぜだか厚ぼったく腫れていて、淡つかにそれを見ながら俺は、萱野はもしかしたら昨夜寝ていないのかも知れない、と明後日な方向に思考を巡らす。或いは泣いていたのだろうか。しかしすぐに思い直す。それは無い。──それは、無い。
 ちょっと待って、と促して、俺は電気をつけた。朝なのに、まるで夕方のように薄暗い部屋のなか。

「なァせめて朝メシくらい食わねえ?」

 なんてついいつもの調子で話し掛けると、萱野は俺を見上げて首を横に振り、出来ない、と靜かに、けれどきっぱりとした口調で言った。
 出来ない。
 俺は自分のデリカシーの無さに呆然とし、それから、悲しい気持ちが胸のうちに一気に広がるのを感じた。だって朝食を共にすると云うことは、当たり前のようできっと当たり前では無く、特別な意味を持つことなのだ。それが『出来ない』。
 出来ない。
 出来ない。
 出来ない。
 その言葉は俺の耳の奥でぐるぐると残酷に回る。
 俺は萱野の躰へと倒れ込みたいのを必死で耐えて、平気な振りをしながら寝巻き代わりのノースリーブの上からシャツを羽織る。萱野はどこへ行くのだろう。俺を置いて、どこへ。
 車のキーを手にしてドアを開けると、濡れたアスファルト独特の匂いが鼻腔を満たす。道路は水浸しだ。雨の日の屋外は、いつでも同じ匂いがする。靴箱に引っ掛けている傘を取ろうとして俺は舌打ちをした。しまった。1本しか無い傘は、昨日電車のなかに置き忘れてきたのだ。仕方無いので、アパート脇の駐車場まで走ることにする。俺は萱野のボストンバッグを抱え、萱野は片腕を顔の前に翳して走った。
 俺の愛車は赤くて小さな中古車だ。近所の中古車販売店で、破格値で叩き売られていたのを偶然見付けたとき、大急ぎで買った。ぼろくておもちゃみたいなつくりだが、一応ちゃんと走る。この車で、俺たちはいつもどこへでも行けた。だだっ広いだけの高原へも、砂の白い海へも、裏道がぐねぐねと入り組んだ、古い下町へだって。
 乗り込んだ車内。萱野がいつものように助手席でベルトをしめる。俺はそこでいったん思い出を頭から追い出し、努めて冷静にエンジンをかけた。
 行き先を未だ聞いていないのに、暫く走って、高速に乗る。雨はますます激しさを増し、水滴が狂ったようにフロントガラスにぶち当たって、弾けて流れている。ワイパーの忙しない動作が役に立たない程の土砂降り。車内はずっと無言だった。横目で見遣れば萱野の白い頬が今日は一段と青白く見え、萱野は、随分疲れているようでさえあった──俺も実際、疲れていた。雨の匂いで思い出すこと。寂れた水族館。ごく偶に、俺は独り、ふらりと水族館に行くことがある。平日の真昼間に、仕事をすっぽかして行くので、いつ行ってもがらがらだ。そういう日は大抵、今にも泣き出しそうな、胸騒ぎがする感じの曇り空だ。もったりと水っぽい空気のせいで襟足が首に張り付く感触。水族館にいるやつらのなかで、俺は海月が1番好きだ。幼い子供のようにじっとただ只管眺めていると、時間がひどく緩慢に流れるような気がする。時折、老夫婦や親子連れが後ろを通りすぎて行く。俺は独りそこから動かない。ゆらゆらと揺れているだけの海月を、ただ見詰める。
 雨脚は一向に弱まる気配が無い。横殴りの風。最近極端に多いゲリラ豪雨だ。こんなときに萱野はどこへ行きたいのだろうか、思いながら、でも、もう引き返すつもりも無かった。持て余す沈黙を緩和させようとカーラジオをつけ、ようとし、て、結局やめる。いっしょに聴いた思い出の曲なんかがこのタイミングで流れたら、冗談では無く、泣いてしまいそうだった。どこへ行けと萱野は言わない。俺はアクセルを踏み込み、スピードを上げる。時々独りで水族館に行っていたことは俺の秘密だった。友達の誰にも、萱野にすら言っていない、つまらない秘密。俺はどんなに寂しくても、あそこには独りきりで行くべきだと思っていた。連れて行けば良かったのかも知れない。今更のように思う。萱野に話して、聞いて貰えば良かったのかも知れない。けれど、どうしてもそれは出来ないことだったのだ。どこかへ行こうと決めた萱野が、俺と朝食を食べられないことと同じくらい、出来ない、こと。
 俺はまた、ぐん、とアクセルを踏み込んで、前方の白いバンを強引に追い抜いた。車内の空気が僅かに緊張する。萱野が硬い表情で、ハンドルを握る俺の横顔を見ているのがわかる。普段ならこんな乱暴な運転を、俺は絶対にしない。萱野を隣に乗せているときは尚更だ。出来ない。

 ほんとうに? (何なら出来て、何なら出来ない?)

 俺は『速度落とせ』の電光掲示板を無視して、更にスピードを上げた。そうしないと、雨に押し潰されそうだった。速度メーターがぐんぐん上がり、スリップしそうなタイヤが水を切って激しく音を立てる。萱野は少しだけ身じろぎをした。

「おい」
「何」
「……大崎、」

 何か言いたそうに萱野は俺を呼んで、しかしその続きを言わずに、深くシートに沈んだ。青ざめた頬をシートに押し付けるようにして、目を、閉じてしまった。言いたいことがあるのなら言えよ。俺は、今キスをしたらふたりとも死んじまうかもな、とか馬鹿なことを本気で考える。高速の出口の、少し先に、かなりきついカーブがあることを俺は知っている。それでも、速度を落とす気にはならない。

 なァ萱野。俺はおまえにさ、まだ、言ってねえ話が、いっぱい、いっぱいあるんだよ。それこそ幾ら時間があっても足りないくらいに。だけど、何でかな。今はちっとも、言葉が見付からない。

 滝のような雨が、車窓をカーテンで隠すかのように覆っている。世界にふたりだけだったら良かった。車はついにカーブに呑み込まれる。俺は、ガードレールにこのまま突っ込んで死んじまったって良いから、今この瞬間、萱野とキスをしたい、と、こころから──思っていた。思っていた。
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