すべての答えは自分自身のなかに在る、と誰かが歌う。誰かとは常に無責任でそれでいて無関心に俺を慰める。

「きみなら出来る」
「きみなら大丈夫」

 いつの間にかそれは呪いのように、自身の言葉にさえなる。

「俺は(やれば)出来る」
「俺は(たぶん)大丈夫」

 正直に言おう。懺悔のように。
 俺は何の答えも持っていないし、何も出来ない。そして何より、大丈夫な人間では無い。
 鬘をかぶり、ヘッドホンで雑音を遮断し、壊れた頭を帽子で護り、磨り硝子越しでしか周りを見ない。けれど夕焼けは緋色の血。人波は孤独な砂漠。他人は俺を傷つける凶器。俺は俺でしか無かった。片手を翳す。そんな動作ひとつで簡単に千切ってしまえるんだぜ、命なんか。そんなことすら露知らぬ、おまえは平気で近付いてくる。冷たい刃物の上に右頬を乗せ、俺はじっとおまえを見詰めている。某都市の夜は楽でさ。頗る自分向きの場所だと思った。寂しい樹海に似ている。人混み。闇医者が出す薬代の分だけ身銭を稼ぐ。赤の他人の発言。笑顔の飛び交う肉の波。怖くて怖くて息がうまく続かない、俺は交差点で立ち竦む。
 やばい。地上で溺れ死ぬ。過呼吸だとか気づかれないように、駆け込んだ汚いトイレ。噛み下す薬。ざらざらざら。

 どこに行くつもりだったんだっけか。と云うかここはどこだったけか。

 震えていた指先に何か触れた、と思ったら、俺の手を握って、こっちだよ、とおまえが言った。

 誰おまえ。
 誰おまえ。
 誰おまえ。
 赤の他人。

 空が緋色した景色の隅で、膝を抱えてスカートに顔を埋める女の子がまだここに居た頃を思い出す。パンツ見してよ、お金あげないけど。嫌なら帰んなよ、夜が来ちゃうよ。俺は確かにそう言って。世界はどうしたって、きみのものになんかならないし、誰のものにもならないのだと言ったんだよ。狂うだけだって。世界じゃあ無い、取るに足らない誰かが。

 なぜまだ夢を見るの? 希望? 愛とか何とか?
 そんなどこにも無いものに想いを馳せて満足か。
 脱落しちまってからじゃあ遅いのに。今なら間に合うかも知れないよ、たぶんね。世界はただ世界で在るのだ、と早く気付くべきだったんだよ。世界はただ世界で在るのだ。取るに足らない、誰とも関係ない。例えあの子が緋色の空に向かって踏み出して死んでも。無料でパンツ見せてくれても何も変わらない。意味なんかどこにも無い。って。

 憂うよりうまく言い訳すれば良い。唯一それが生きる方法だった。それなのに、なぜかおまえはやっぱり少し歌っていた。白い喉が微動している。あァもう、何てことだ。おまえの柔らかな心臓は、緋色の血を紡ぎながら、同時に言葉も紡いでいるのか。その事が理解ると、突然に触れたくなった。触れたら抱き締めたくなった。抱き締めたら傷付けたくなった。立て続けに俺を襲う衝動は獣のように我儘だった。手始めにその手首の内側を切り付けてやった。光を受けて明るくなった双眸は、黙ってこちらを見下ろすだけだった。だからおまえを殺してやろうと思った。でも、もう少し、あと、少しだけ。だって、緋色の空は必ず藍になるのだ。
 耳を澄ませばおまえはまだ歌っている。その声を聴いていたら、ふと、何もかも理解らなくなった。傷付いていたのは、ほんとうに俺だったのか。冷たい樹海の、路地裏の奥、世界の片隅で、泣いていたのはほんとうに俺だけだったのか。もしかすると、赤の他人だって、ずっと、ずっと、哀しかったんじゃあ無いだろうか。

「ずっとここに居たいんだ。傷付けても良いよ。きみが、あいしてくれるなら」

 俺はそう告げたおまえを仰向けに寝かせ、突き出たその膝頭に早速噛み付いた。緋色の血は白い脹ら脛を流れる。舌先で引っ張り出すのは蜜のように甘い肉だ。骨には適度な硬さがある。気付けば指が絡まり合っていた。その間もおまえはずっと歌っていた。存分に傷付けたらまた、抱き締めたくなった。抱き締めたら今度は、優しく触れたくなった。優しく触れたら、そっと舐めたくなった。そのあとで、顔を遠ざけて、見詰めていたくなった。虚ろだった両の目には今、零れ落ちてしまいそうな潤いがある。

「こんな形でしかあいせないんだ。それでもここに居たいだなんて、おまえは俺に言えるのか」
「それでも良いよ。どんな形でも、良いよ」
「イカレているね。俺も充分壊れているけど」
「ヒイロになら何をされても良いよ」

 誰おまえ。
 誰おまえ。
 誰おまえ。
 赤の他人。
 赤の他人はおまえになった。おまえはおまえになった。藍を知った、赤の他人はおまえになった。俺にとっての、おまえになった。
 そうだな。そうだったんだな。何もかも知っていた。そういったことなら何もかも。ほんとうに。
 だから俺はおまえを殺さないよ。かけがえの無い藍のあと、今日もまた夜がくる。繰り返し聴く。瞬きが癖になり俺の心臓は動きを惜しむ。
 いつもなんて言わない。おまえの空は晴れていろよ。曇ったり雨降っても構わない、いつもなんて言わないから。おまえの空は晴れていろよ。褪せた世界で生まれた獣。どうしたって傷を付ける、俺をきっとおまえは赦すのだろう。
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