やたらと雨の酷い、真冬の夜中。キン、と張り詰めたような空気は冷たいだけで少しも優しくないけれど、ふと零れ落ちた深い溜息によって、星ひとつ見えない空の下で明るいネオンが今日も瞬いていても、ほんの一瞬だけ視界は白く濁った。早く帰りたい。風呂とか飯とかどうでも良いから兎に角早く家に帰って眠りたい。スラックスに付着した雨水と泥が歩く度にくちゅくちゅと煩く鳴くが今は清潔さを取るのを諦めた俺は、睡眠欲だけを原動力に、着ていたジャケットを脇に抱えて、歩き続ける。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………んぐ、」

 マンションに帰るとキッチンで、よく見知った男が、腹立たしい程気持ち良さそうに寝ていた。何で家主である俺よりも先にこいつが家に居るんだ。ふつふつと底知れぬ怒りが沸き上がってきたが、それを上回る程の疲労感が全身を支配する。疲労困憊。満身創痍。そう言えば俺こいつから合鍵返して貰っていなかった。今更思い出して、でも疲れ切っている俺には、この無礼千万な不法侵入者を追い出す気力すら残されていないのだ。ヴン、と冷蔵庫が鳴る。俺はその目前にしゃがみ込む。何でこんな場所で寝てんだよ。冷蔵庫の横にもたれ掛かり、小さな寝息をたてる無礼者は、普段のチャラけた小憎らしさからは想像もつかない程に、あどけない顔をしていた。勝手に俺の部屋に不法侵入した挙句、勝手に俺のベッドから持ち出してきたのだと思われる毛布にくるまり縮こまって。それをじっと眺めている内に躰から怒りが抜けていった。言ってしまえば毒気を抜かれてしまったのだ。この毒の塊のような男に。俺はほんとうに心底呆れ返りながらこいつを蹴り飛ばす。疲れているのにこんなことさせんじゃねえよ阿呆。

「おい、起きろ。太宰オタク」

 時折、窓の外が光っては遠くの方で鈍い音がする。停電にならなければいいけどなァ、と公共事業について思いを馳せつつ、ダイニングの大窓から外を眺めた。外はぞっとしない天気だが、けれど俺は今やっとあたたかで心地好い空間にいるのだ。街中で、立地条件が良いと云うこと以外は殆ど取り柄を思いつけないワンルーム。多少手狭なくらいがこんな夜には安心する。そうやって俺が快適な時間を過ごして眠る筈だった今夜を、疾っくに別れた男が邪魔をしている。

「…うー……痛い。酷い。起こすならもっと優しく起こしてよ……サコ」
「煩え。何で居る」
「うん、バイト終えて自分ちに帰る途中でストーカーみたくなっちゃった知り合いにばったり会っちゃってさァ。いろいろすったもんだしてるうちに財布失くしちゃったみたいで。雨ンなか家まで歩くの嫌だし、お腹は空いたし。もーォ厄日だよ、厄日」

 と云うわけだから泊めて。なんて、太宰オタクは自分の都合だけを述べた。こいつのこういうところが俺はあまり得意では無い。例えそうしないと直接的な危険が身に降り掛かるかも知れないような状況であったとしても、こいつは相手に対しへらへらしながらしかお願いしないのだ。今でも。けれどそんなことに逐一気を損ねていても仕方が無いので、俺は取り敢えずすんなりと、こいつの停留を許可してやる。大体、こんな豪雨の夜に無一文の人間を叩き出すような真似は出来るわけがない。常識的にも良心的にも。

「ソファで寝るんなら好きにしてろよ」
「サコ、やっさしィ」
「ちょっとは悪びれろ」

 別にいいけど。とか思ってしまう俺にも問題があるのかも知れない。

「なに? ヒトの顔じろじろ見てさァ…俺に見惚れちゃうのは理解るけど、どうせならもっと可愛い顔してうっとり見詰めてよ。サコ」
「別に見惚れてねえよ、馬鹿じゃねえの」

 顔を上げ、何食わぬ顔でこっちを見てくる太宰オタクを適当にはぐらかして、近くにあったタオルを取る。と、それが予想以上に汚れているのに気付いて俺はちょっと驚き、そのまま脱衣所の洗濯機に放り込んで新しいタオルで頭からがしがし拭う。そうして気付いた。目前の太宰オタクもびしょ濡れなことに。

「つうか、てめえそのキッタネェ也で何してんだよ。毛布まで汚しやがって。死ねよ」
「あー…それ今言おうとしてたんだよ。毛布でもかぶってないと寒くてさァ、凍死しちゃうよ俺」
「すればいいのに」
「あと電話も貸してくんない?」

 会話が噛み合わないのもいつものことで、俺の返事を待たずに勝手な手は俺の胸ポケットからスマホを探り取り上げた。どうやら携帯電話も『失くして』しまったらしい。つまるところこいつはほんとうに、身ひとつで俺のところなんかに来たようだった。ヤレたら何でも良い無茶苦茶なこいつの後ろで、ぎりぎり押し留めることになるのを、或いは倒れたこいつを受け止めてやることになるのを待つと云う、そういう状況が妙に懐かしいものに思えて、俺は半裸で馬鹿みてえに突っ立ったまま、見慣れていた後ろ姿をぼんやり見ていた。

「いや、だからさァ…俺いま本命居るってゆってんじゃん」

 電話相手は誰だか知らないが、その言い分ひとつでどう考えてもこいつが悪いんだろうなと察する。しれっとして電話口で喋る姿を眺めていたら、ふと、俺のスマホを持ったまま、太宰オタクはちらりとこちらを振り向いた。

 ──朝まで居ていい?

 困り切った表情を浮かべ、唇のかたちだけで俺に尋ねた厚顔無恥野郎に、仕方無く俺も無言でオーケーサインを出してやる。ここでまだ、こいつが俺に対し少しでも、すまなそうな顔をして手のひらで詫びる程度の殊勝さが有れば、きっと俺はこれ程理不尽を呑み込む羽目にならずに済んだだろう。
 通話を終えスマホを投げ返してきた不届者に俺は随分前からいろんなことを諦めてきたので、今更何も言わない。それが結果としてこいつを甘やかし、悪いものになろうとも最早疾うに別れている俺の知ったこっちゃ無い。俺はキャッチしたスマホを充電器に乗せて兎に角この瞬間の続きを考えるのだ。

「まずおまえはシャワー浴びてそのキッタネェ泥を落として来い。毛布を洗濯機に入れておくのも忘れるな」
「サコは?」
「おまえが汚した床から冷蔵庫まで掃除だ。先に」
「サコだってずぶ濡れじゃん」
「粗方拭った。おまえ程もう汚れて無い」
「いや、そうじゃなくって」
「なに」
「風邪引いたら困るだろ?」

 あ? つまりいっしょに風呂入ろうってことか、そうなのか。こいつまじでいっぺん死ねばいいのに。

「だってサコは俺の躰なんか見慣れてるわけじゃん? んで、俺もサコの躰なんか見慣れてるわけじゃん? 隅々まで」
「だから何だ」
「だから今更何も問題無くね?」

 寝るときも。と付け足すこいつに俺は閉口した。いっしょに寝る、ってことは、俺たちの場合ただ眠るだけでは無いのだ。それを充分理解っていて、まるでそうすることが当たり前みたいに言う。あの日振られたのは俺で、振ったのは他でも無いこいつであるのにだ。

「もうおまえ黙れよ。脱衣場にバスローブ有るからそれ使っていい。そしておまえの寝床はソファだ」
「え。何で?」

 何で? じゃねえよ。俺は歩み寄られるより先に、視線を外して、クロゼットを開けながらそう言った。ひとまず、シャワーを浴びさせなければな、と考えてバスタオルとローブを手にして、脱衣所の前に置いてやる。するとなぜか微妙な表情を浮かべて見詰められた。

「ほらもう早く行けよ」
「……俺、真冬に暖房壊れでもしない限りは、上とかあんまり物着て寝ないよ。サコ」

 ちらりと互いの視線が揺れた気がして、俺は思わず、息を詰めた。太宰オタクは少し笑って、吸い寄せられるように俺の耳許に唇を寄せ、て──更に、そこを甘噛まれてしまえば俺の身が自然に竦むのは、どうしようも無く。

「……もう忘れたの?」

 けれど、同じようにして首筋に伸ばされた手を、俺はばしんと叩き落とす。

「ふざけんなよ、てめえ」
「シャワー借りる」

 結局あいつは俺に目もくれずにバスルームへ入っていった。別に、付き合っていた頃でさえ俺たちは浮気でも何でもフリーな付き合い方をしていたから、その場のノリで考えるならあいつだけが悪いと云うわけではたぶん無いのだろうが、掃除をしながら、こっそり溜息をついてしまう。俺が怒るような言い回しをされた。そして俺はまんまと怒ってしまったのだろう。冗談に見せ掛けた揶揄いが、俺を惨めにさせる。何しろ、俺とあいつが別れたのはひどく一方的な事柄で、あいつにほんとうの『好きな相手』が出来たからなのだ。


 ざあざあと、激しい水音を立てているのが、外の雨なのか自分が頭から浴びているシャワーの湯なのか、だんだん判らなくなってくる。ふれられることにさえ耐えられそうな気がしない。なのでさっきは真剣に危なかった、と思う。あのままあいつの指で肌を撫でられていたら、泣いて喚いて足許にでも縋りついていたかも知れない。頼むから俺を捨てないでと。けれど、もしそんなことをするのならばあの日のあのホテルの部屋であのときにやっておくべきだった、し、未だ俺のくだらないプライドはそんなこと決して出来ない程度には高い。だから俺はこうして、ざあざあとシャワーを浴びている。そうやって躰の汚れを落とし、躰を拭いてローブに腕を通して、思い出したくない言葉を思い出す。
 飽きちゃった、と、そう言われたあのときの。

「サコー? まだ入ってんの? 俺ひとりで寂しいんだけど。ていうか飽きちゃったんだけど」

 リビングのほうから呼び掛けられて、その言葉を聞いた瞬間、一瞬だけ、足許から力が抜けたような気がして思わず背を壁に預けた。片手を額にあてがう。何と云うかいっそ泣きたい気分だった。出来ればこのまましゃがみ込んで顔を覆ってしまいたいけれど、口が勝手に言葉を紡ごうとする。

「うるせえ。夜中に大声出すな」
「えー?」

 へらへらしながら脱衣所まで入って来る。こいつの声に髪が嬲られていく。

「まだ頭濡れてんじゃん。ほら」

 恋人同士みたいに。好きな奴へとそうするみたいに。奴の指がタオル越し、俺の頭にふれる。俺はもうとことんまで嫌になってしまって、背中を壁に押し付けたままずるずるとしゃがみ込む。膝頭に顔を埋めたら、「サコ」とやけに優しい声が聞こえた。

「いつまでもこんなとこにいたら風邪引くよ?」

 だからこっちへ来い、と言う。まったくもってこいつの言う通りだが、けれど顔を上げることすら嫌でこっそり鼻をすする。顔を見られた瞬間にバレてしまうだろうと理解っていた。ほんとうは耳への甘噛みなんかじゃあ無く、キスして欲しくてたまらないと俺が思っていることが。
 足音がして俺のすぐ横にしゃがみ込まれる。

「……サコってさァ、こんな身持ち堅かったっけ」

 知るかよ、そんなこと。

「なんてな。俺が重いの好きじゃねえの知ってて、だから俺みたく浮気する、そういうおまえのかわいいところ、俺は嫌いじゃなかったけど」

 降ってくる台詞が過去形であることに逐一傷付いている自分があまりに憐れで可哀想になってくる。散々な付き合い方しか赦され無かったときからずっとそれでもまだ期待を捨てられないのだから、俺は本物の馬鹿だ。サコ、サコ、あのときと同じ声音で何度も呼び掛けられるだけで全部の思考が鈍って俺は何にも考えられなくなった。

「もしあのとき、サコが泣き喚いて縋りついてきてたら、絆されて別れてなかったかも」

 思わず顔を上げると目が合って、そうしてこいつはにっこりと笑った。

「嘘だよ」

 一瞬目の前が真っ白になりかけたが、変わらず優しい声のままで続けられる。

「サコがさ、死んでもそんなこと出来ないってことくらい知ってるよ」
「な、んだよ…」
「いいからこっち来いって、ここ寒いんだから」

 差し出された手を取ったら耐えられなくなりそうで、その手を無視して俺はのろのろと立ち上がった。苦笑して、から、そのまま部屋へ入ろうとして、でも奴は突然振り向き、俺の腕を取った。

「なっ……」
「サコ」

 耳元で囁かれて悲鳴を上げそうになった。小さな笑い声が首筋を掠める。

「……ずるいよねえ。サコはさ。いっつも、俺が手ェ出してくるまで待っちゃっててさ?」
「そ……れはっ、おまえのせいだろうがっ」

 息も絶え絶えに言い返すとべろりと耳の形を舐め上げられた。

「ぅあっ……」
「な、サコ」

 どうしようか、どうすればいいと思う? と奴は、勝ち誇ったような笑みを見せ、俺の頬を手のひらで包んだ。

「俺の好きな子、いなくなっちゃった」
「…………は?」
「留学だか何だかで、あっさり全部置き去りにしてさ。イギリス行っちゃったんだよ」
「それが俺と何の、関係、が──」

 言い訳を何も思い付けずにいるうちに、手首を掴まえられてバランスを崩した。押し倒された先のソファは、ベッドじゃあ無いので少しも跳ねない。逃げようと身を捩ってみてもビクともしない、それが、俺の手首を押さえつけるその腕の力が強いからなのか、俺が深層心理では逃げる気がまったく無いからなのか、俺には判断出来なかった。
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