初めて目にした瞬間からずっと好きな奴がいる。そいつを好きだと謂う溢れ出す感情が、紛れも無く俺を形成するもののなか、最も大切な部分であるのだ。

「えーもう帰んの。ヤッたら終わりってドライ過ぎじゃねえ? つか、折角だし泊まってけよ」
「帰る」

 出会いは知り合いのやっているゲイバーで、何度か顔を合わせるうちに、ウチに引っ張り込むことには成功したがそれだけで、あいつは全然釣れなかった。何の因果か勤め先が同じ高層ビル内の別会社であったことを、喫煙フロアでいっしょになって初めて知って、漸く名前を覚えて貰えたくらい。好きになったのはもっと前。バーで声を掛けるようになるまで、離れた席から見えていた横顔の、髪に隠れた瞳を見ては思春期の女子にでもなったように俺の心臓はやたらそわそわした。あァ好きだなァと人知れず思う度、これは恋なのだと思う度、恋をしている自分がどことなく誇らしく思えて、よくわからないがやけに嬉しかった。好きだ好きだと口にする程、鬱陶しそうな顔をされたが俺はそいつを愛しく思ってゆく。思うだけで幸せな気分に浸っていられる。だからほんとうは、どうだって良かったのだ。あいつの気持ちは。あいつをゲイだと知らない女性社員たちは揃って彼の恋人になれたら素敵だとかそうなりたいだとか黄色い声でそう言っていたが、俺にはそういった願望が欠落していて、それに、幾度寝たって奴の態度を見ていると、とてもこの気持ちが成就するとは思えなかった。完全なる一方通行な片想いである。それはそれで確かにそうなのだけれど、つらいかどうか、と考えると何だか少し違う気がした。
 そしてこの関係は今も変わらない。見かければ追い掛けて予定を聞き出す俺と、億劫そうな顔で俺を見るそいつ。ある意味この不毛さは条件反射なのだ。暗黙の了解でも構わない。ただ一方的に奴を好きなだけなので、俺は今日も明日も明後日も、変わらず仕事を頑張れる。

「あれ、この時間に喫煙室で会うなんて珍しいな。そっちもう終わったのか?」
「…まァ、あらかたは」
「じゃあさ、メシ食いに行かねえ? ちょっと呑みがてら」

 いつも通りの会話。そしてこいつは言うのだ。行かない、ひとりで行け、そんなに暇ならさっさと帰れ、帰りたく無いなら残業でも雑用でもすれば良いだろう。つい笑ってしまう程に想像は容易く、それはいつも直ぐ現実のものとなる。こいつが俺の誘いに乗るときは常々、俺を抱いてでも性欲を発散しなければならない程、溜まっているときだけなのだから。

「これからか?」
「え?」
「俺はまだもう少し仕事が残っているんだが」
「あ、あァうん、そっか。わかった。じゃあまた今度──」
「30分、待っていられるか?」
「…へっ?」

 ヒトとあまり目を合わせずに、代わり、口許へと視線を向けるのはこいつの癖で、声も、雰囲気も、確かに俺の好きな相手なのだが。如何せん何だか今日は言動がおかしい。だってこいつが俺とふたりでメシを食いに行く筈が無い。俺の駄目元な誘いに面倒がらず受諾する理由が無い。性処理以外では。

「あー…えっと、大丈夫か?」
「何がだ」

 彼が薄く笑う。穏やかに。それを見て俺の心臓は早鐘のようにどくどくと音を立てる。しかしこれはときめきではない。率直に謂って──そうだ。不安、と云うやつ、だ。

「待てるか?」

 再度問われ俺は必死にこくこくと頷く。それを見てまた彼が優しく笑う。

「8時までには終わらせる。ロビーで待ってろ」

 俺は何も言えなかった。笑えてすらいなかったかも知れない。ただ馬鹿みたいに何度も何度も頷いては、自分の体温の上昇に眩暈を覚えた。彼の後ろ姿が去っていく。俺の視界は急激に狭まる。それはまるで足元が崩れてゆくような、そういう感じだった。俺は彼が好きなので、今までも冷たくあしらわれようと全然気にならなかった。あいつは俺と性処理をしても、俺のことを好きになったりはしない。ので、ただ俺だけが独りきり、あいつを想っていられる。喫煙フロアでほぼ毎日1度くらいはいっしょになって、話す機会はあったが、あいつは相変わらず素っ気無く無愛想で、俺の無駄口に億劫げに付き合ってくれる程度で、性処理の誘いなら兎も角、こういう、馴れ合った誘いになど乗る筈が──あれ? 最近はあまり誘っていなかったかも知れない。俺のほうも仕事が忙しく、喫煙フロアで会うと冗談みたいなことはよく口にしていたけれど、メシを食いに行こうとかそういう、必ず断られること前提の台詞は、久々に言った気がする。だからだろう、おそらく。今日は断らずに、セックス以外での誘いに乗ってくれたのは。散々の無茶振りがあったから、まァもうメシくらいなら良いかと折れてくれたのかも知れない。うん、確実にそうに違いない。あー良かった。途端、視界が明るくなる。妙な心配をしてしまい損した。繰り返すがあいつが俺を好きになる筈が無いのだ。ゆえにデートとか有り得ない。物凄く安堵した。




 奴は予告した時間ぴったりに現れた。律儀で真面目なところ、俺がこいつを好きなところだ。目が合っても今度は自然に笑える。夜に落ちる街をふたり並んで歩き出す。何人かが振り返って彼を見ていた。ヒトの驚く顔というのは面白いと思う。背の高い、寡黙なイケメンが今俺の隣を歩いているのだ。ほんとうこの状況なに? って話だろうなァ俺もそう思う。

「どこに行くつもりなんだ?」
「え、俺が決めていいわけ?」

 つい質問に質問で返すと案の定黙り込む横顔。歩く速度まで遅くなっている。俺の歩幅に合わせてくれているのだろうか。流石にそれは無いか。たぶん誘ったくせに何も考えていない俺に呆れているのだ。

「白紫行く?」

 助け舟を出す。チェーン店のファミリー居酒屋。気も遣わないしビールも呑める。

「……そんなとこで良いのかよ?」
「ん?」
「もっと…何か、あるだろう」
「うん? あー、居酒屋はうるせえから嫌だ?」
「そういうわけじゃあ無い、が」

 なら、どういうわけだ。嫌なら嫌だと断固拒否する性格どうした。アイデンティティ迷子か? 若しくはメンタルの調子でも悪いのか?

「んんーと。じゃあ、そのへんのラーメン屋にでも適当に入る? チェーンならアレか、牛丼屋とか、カレー屋とか? あと回転寿司?」
「おまえ…」

 隣で溜息をつかれる。どっか行きたい店でもあるのだろうか。

「あ、いつものバー?」
「それは絶対に嫌だ」
「じゃあ何が良いんだよ」

 わけがわからない。メシの誘いを断る代わりに遠回しの拒絶をしているのであれば大小即決なるこいつらしく無い。

「あそこにしよう」

 もやもやしていた俺に構わず奴が指差したのは、駅の向こう側に見える高くおおきな建物。最上階でネオンを見ながら本格フランス料理のコースとワインが楽しめる、らしいと、女性社員たちが食堂で広げていた雑誌で取り上げられていた洒落たホテル。俺も写真で見たが雰囲気が有って、野郎ふたりで入れる感じがまったくしない。

「えぇえ!?」
「嫌か?」
「あ、え、と、嫌、じゃねえ…けど……」

 まじでそこ? どう見ても落ち着いたカップル用の佇まいなのだが。つうか予約制じゃねえの? と俺がおろおろしているうちにいつの間にやらホテルは目前。彼はまるでふつうに当然の顔で中へ入っていく。置いていかれないように慌てて俺も着いていくが最早入口からして異世界だった。よ、予約とかは? などと吃った俺に、もう取ってある、と静か答えるその余裕。平日なので30分前でも取れたらしい。なぞということはどうでも良い。

「フランス料理が食いたかったのか? あ、ワインのほう?」
「別に」

 意味不明にも程がある。最早俺には何が何だか理解不能だ。あァもうすべてが何でも良い。考えてもわからないのだから。俺は気を取り直して流れに身を任せることに決めた。案内付きのエレベータに乗せられ、最上階のレストランへ。向かい合わせに席に着き、メニューを広げるがフランス語で書かれたそれは俺には読めない。

「大人しく座ってろ。子供かおまえは」

 座りが悪くきょどきょどしていたら鼻で嗤われた。腹立たしい。けれど言い返せない。肩身も狭い。そう言えばこいつ商社の海外事業部だった。俺より遥かに稼いでいるばかりか語学はさぞお得意だろう。畜生。
 改めて店内を見回す。どこもかしこも高級そうだ。淡い照明と心地好いピアノの音。生演奏。ウェイターも上品でバイリンガル。心なしか客層も至ってセレブリティな人間ばかりに見える。俺だけ場違い感パネエ。何だこの公開処刑は。

「……よく来んの、こういうとこ」
「まァそうだな…仕事柄」

 この野郎。思わず舌打ちしたくなった。が、ここは俺も初めて来た、と真実か否かは不明だがそう言うので。

「ふうん」

 としか俺は言えない。しかしグルメというわけでは無い俺を態々連れて来ておいて自分も初めてだと言うのなら、別段どうしてもフランス料理を食べたかったわけでも無さそうだ。

「…ここに行ってみたいと聞いたから」
「は? 誰が?」
「俺が。良さそうな店をこのあたりで無いか訊いたら、デートならここに行ってみたいと」
「誰に?」
「…うちの課の、同僚」
「女だろ? それ」
「そうだ」

 こいつは元々然程雑談が得意な人間では無いので、いつも俺たちが話すときは大抵の場合ひたすら俺からどうでもいいことを話し掛けている状態で、偶に会話らしくなったとしても、多少なりとも齟語が発生するのだが今日は特に凄いと思った。だって何が言いたいのか殆どわからない。寡黙で少々どこかミステリアスな男は超タイプだけれども、何事も程々が1番であることをこいつは学ぶべきだ。ゆっくり、次々と、運ばれてくる料理は、芸術品かと思う程に綺麗だったが、テーブルマナーも最低限の初歩しか理解していない俺にはただただ緊張する食事でしか無く、正直なところ、味わって楽しめるような余裕は最後まで生まれなかった。どう表現すれば適切であるのかがわからない。美味かったかと訊かれれば、とても美味かったのだけれど。

「足りたか」
「え?」
「量」
「あ、うん。でも美味いってことくらいしか俺にはわかんなかった。何か勿体無い」
「美味かったなら他にも頼め」
「いや無理。食べきれなかったら失礼だし。ていうか俺が食うには敷居が高くて失礼だし」
「じゃあ、また来よう」
「は? 何でそうなんの」
「慣れれば舌も肥えるだろう?」

 何のつもりだ俺の舌なんか肥やしてどうする。訝しむ俺を奴は穏やかに見詰めていた。優しい瞳がこっちを見ている。言葉どころか声すら喉に引っ掛かり、俺は何かを言おうにも何言も出なかった。こいつは冗談を言う奴では無い。だが冗談で無く本気なら、尚更、言う筈が無い。よりによって俺に。
 そしてこの日はそのまま客室に泊まった。セックスするだろうと思った俺の予想は外れて、奴はワインでほろ酔いになっていた俺がキスをしようとも、向こうからそれ以上は指1本俺にふれてこなかった。そのせいで、少しずつ俺のなかには妙な不安が降り積もっていった。普段、にこりともしない彼が俺に穏やかな表情を向けてくる。どうして。俺はその都度ひどく胸の奥が苦しくなった。確立されている筈の関係が崩れていく恐怖。何かあった? そう尋ねても答えてくれない。ただ、優しく、わかりにくい程度にかすか、笑むだけなのだ。俺はそんな顔を見たくて今まで周りをうろついていたわけでは無い。面倒臭そうに、億劫げに、いっそのこと不機嫌そうにでも良い。そうして欲しい。視線が絡むことに気付き幾度もそう思った。懇願とさえ呼べる程に。





 と、云う、そんな俺の願いも虚しく、あいつは別人にでもなったかのような不審さで、翌日もそれ以降もどんどん俺の心のなかの、パーソナルスペースに侵入するようになっていた。好きだ好きだと何もかもを曝け出しているようで、ほんとうは誰にも──こいつにも見せず、護り抜いてきた俺の心の奥へと奴が足を踏み入れてくる。こいつを好きでいたい。奴を好きであることが、現在、俺が俺である証であるのだ。拒絶されてもめげずに追い掛けることだけが、俺が奴を好きであることの証明なのだ。

「おい、」
「あんだよ?」
「……どうした」
「どう、って?」
「何かあったのか」
「えー…それ寧ろ俺の台詞じゃねえの?」

 俺が意図的に喫煙フロアへあまり寄り付かなくなって、エレベータで偶々ふたりきりになり顔を合わせ、彼は戸惑っているようだった。そうだな、以前なら、こいつの姿を見掛けただけで真っ先に駆け出して話し掛けていたのは俺のほうだったもんな。わかっている。自覚している。俺は今たぶん、思考的な意味でも情緒的な意味でも、どこかがおかしいのだ。

「仕事きついのか? 煙草も吸う暇すら無いくらい」
「えっと……別に、そういうわけじゃねえよ」

 俺よりも自分の仕事のほうが確実に、何倍もきつく多忙であるだろうに、俺を心配したり労るような態度など易々と見せないで欲しい。らしく無いばかりか気持ち悪い。

「あの、さ」
「何だ」
「好きだよ」

 奴の喉から、まるで息を呑むかのような音がした。好きだと、前々通り俺から口に出せば楽になるかも知れないと思ったのだが微塵もそんなことは無く、我ながら驚いた。自分自身に、だ。俺の胸は苦しいままで、大して良くも無い頭は上手く働いてくれないまま、何も変わらない。靜かなエレベータのなかはずっと息苦しい。

「…そうだな」

 居た堪れずについぞ俺は俯いた。目の前がぼやける。こいつから貰いたかった答えはそれでは無かった。だから。

「……嘘だよ」
「嘘?」
「好きだなんて嘘だよ」
「……」
「嫌い」
「……」
「嫌いだよ」

 好きだと言ってもほんの少したりとも楽になぞなれずに苦しさが増したので、代わりに、嫌いだと正反対の言葉を言えばこんな重苦しくて息苦しい気持ちも楽になるだろうか、と思い、口に出してみれば、子供のように泣きじゃくってしまいたい程、もっと苦しくなり途方に暮れる。自分の感情が理解出来ない。どうすれば良いのか考えても、俺にはどうしようも無い。

「知ってる」
「…え、」
「おまえに嫌われていることなら、俺は知っている」

 そんなふうに言いつつも、奴はやはりあの日を境に俺にだけ見せるようになった穏やかさで優しく笑んでいる。その双眸には、いったい俺はどう写っているのだろうか。怖気る程に怖かった。

「嫌われていることを知っていても」

 おまえの顔を長く見られないでいるのは寂しい。

 言われたそれが不思議過ぎて、不可思議過ぎて、脳の情報処理が追いつかなくて。困り果てる。俯いた顔を上げられずにいる俺の頭を奴の手のひらがやわく撫でてきた。

「またな」

 何か言わなければ、と思いながらも何も言えないでいる俺を宥めるように慰めるように、チン、と小さく鳴った到着音と共に俺から離れ、奴は背を向けて歩いて行く。己の言いたいこと以外を口にしないところは俺の好きな彼らしいが。何で? 俺にはわからない。あいつが俺を好きになる筈が無い。好きになられる要素も理由も何も無いのだ。しかし奴は、またな、と言った。嫌いだと口にした俺に、またな、と。それはつまり、俺の気持ちなど関係無いのだと云うことでは無かろうか。俺は今ちっとも幸せでは無い。あいつのせいだ。遠ざかってゆく背中に向け俺は誰にも聞こえないよう物凄く気を付けて、小声で、好きだ、と呟いてみる。胸はまた苦しくなりほんの少したりとも楽になぞなれなかったが、ひとつだけわかった──そうだった、思い出した。一方通行で決して成就しないもので無ければならない、これが俺であるのだと。好きだ好きだ好きだ。紛れも無く俺を形成するもののなか、最も大切な部分を、俺はどうしたって譲ることが出来そうに無かった。
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