<概略>
現パロ/おとなしめ変な子エレン/優しめ年上従兄リヴァイさん/ボーダー気味/
描写は有りませんがモブエレ既成事実とリスカ描写などが有ります。わりと平和ですが、苦手な方はそっとプラウザを閉じてください。
前世とか記憶とか全然有りませんパラレル。






   

 エレン・イェーガーは、変わっている。
 少なくとも血縁者や友人、知人を合わせてもリヴァイの知る限り1番おかしな少年だ。従兄弟であるエレンの家に泊まりに来たリヴァイはすぐさまそう思った。まァ昔から、そのような予兆はあったのだ。幾らでも。気に入らないものは何だって即、棄てるに躊躇しない。それはヒト相手にもそうで、気に入らない人間には徹底した無視を決め込む。まるで初めからその者が世界に存在しないかのように。それから機嫌の悪いときは前触れ無く頑ななまでに凶暴になる。親のかたきでも相手にするように何事も無かろうと噛み付き食って掛かる。しかしそれらは所詮別の誰かへの反抗心でしか無い。黙っていれば人形のような端整な顔に素直な性格、リヴァイを兄のように慕う年下特有の寄り添い方にも、嫌な気がするわけも無く、リヴァイとしては警戒する理由も無い。
 小学校に上がるより前から、エレンは少し変わった物に執着を見せた。それは、周りの誰が見ても無価値で無意味なもので、くだらない妄想の類いなのだが。例えば、鏡の向こうにはこちらと真逆にコピーされた世界があると言ったり、ふざけて落ちてしまった枯れ井戸から皆がどんなに助けようとしても動じず『ここおれのおうちにするー』と座り込み、出たがらなかったり──あのときは結局エレンの父親が枯れ井戸の底まで降りて無理矢理連れて戻ってきたのだ──けれど道端に転がっている歪つな小石をあたかも宝石でも扱うかの如く大事そうに拾い上げたりする、そんなエレンの姿は、今よりずっと若かったリヴァイの目に、とても美しく映った。

 だが、これは、異常では無かろうか。リヴァイは入室して小1時間もせぬうちに、忌憚無き意見を持つこととなる。これは15になりたてのエレンと、三十路を超えたリヴァイの物語だ。


 2ヶ月ぶりにリヴァイがエレンの部屋のドアを開けると、親族と云えども来客者であるリヴァイに見向きもせずエレンは、真剣な眼差しでミルクパズルに没頭しており、

「おい、エレ、」
「しっ。黙って。もうちょっとで完成だから」

 ここ数年、エレンは中学に入って部活だ受験だと忙しくしているのであろうと云う気遣いから、リヴァイからは電話を掛けるにも憚られた。そんな、親しき仲にも、と云うか、親しき仲だからこその、その気遣いを思い切りスルーし、アッカーマン家に入り浸ろうとするエレンを逐一イェーガー家まで送り届けてやった恩も忘れたのか、まったくリヴァイに構わず純白のパズルピースに夢中で齧り付いている。無礼この上ない。が、リヴァイはエレンがなぜそのパズルに執着しているのかを充分思い知っているためおとなしく黙っていた。ミルクパズルの完成はパズラーにとって最も重大な栄誉であるのだ。たかが100ピースと云えども、然れど100ピースである。イラストやラインなどのヒントが一切無い、少しずつ形の違うだけで同じような純白のピースを、その些細な違いを指先の感覚だけを頼りに手探りで嵌めていく。その達成感や如何程か。パズルに興味の無いリヴァイにさえ想像に難くない。残り10ピースと少し。エレンが高揚していることが金色の双眸の輝きで傍目にすらよく解る。ここまで来るとゴールは近い。ミルクパズルを完成に導くエレンには何が起きようとも関係が無いのである。いつものことだ、とリヴァイは思う。ぱち、ぱち、と、もう何の迷い無く嵌められてゆく白いピース。しかし最後のピースが嵌められると、空虚にもエレンの顔はたちまち曇る。だがそれすらいつものことだった。あーあ。エレンの唇から溜息混じりの落胆が零れ落ちる。同時、何時間掛けたのか判らぬそのパズルはエレン自身の手に寄って引っ繰り返される。そして当然、純白のピースたちはばらばらと床に散り、エレンの白い手はそれらを掻き回してから箱に収納する。本来、パズルとは完成後額縁に収められ観賞されるために有るとリヴァイは思うのだが──クリスチャン・ラッセンなどの大きなパズルですらエレンの部屋の隅に積み上げられている──どうやらミルクパズルは同じパズルとは云えそういうものともまた違うらしい。

「あれ。来てたんですか、リヴァイさん」

 更にこの言い草である。疾うにエレンを諦めているリヴァイは、あーあ。だなんぞと顔を曇らせてまで落胆するくらいならば、しなければ良いのでは、と思いつつ、さっきから居たし一応会話もしたんだがな、と呆れながら、敢えて口にするのを諦める。

「ああ。おまえの高校合格を祝ってやろうかと思ってな」

 エレンの受験も無事に終わり、リヴァイのほうからイェーガー家に足を運んだのだ。エレンはパッと嬉しそうに、そうなんですかーなぞと照れ笑いをしている。何しろエレンはリヴァイが大好きなのだ。リヴァイのほうから赴いてくれるだなどエレンはそれだけで嬉しかった。それが伝わるので、リヴァイはほんとうの目的を言うに一瞬躊躇する。が、知らなければならぬことは知らなければならないのだ。

「……おいエレン、あれは何だ」
「? あれって何ですか?」

 出窓のところに、リヴァイはひとつの小さな金魚鉢を見付けた。その金魚鉢と完成し額縁に収められているパズル以外に、エレンの部屋には飾り気が無い。エレンの周囲はいつだってエレンの好きなものだけで構成されている。空間さえ。要らなくなればいつでも棄てられるように。エレンは元々そうであったのだ。

「あァ、それ。綺麗でしょう?」

 そう破顔し、エレンが指差したガラスの金魚鉢にはなみなみと水が注がれていて、それらが外の光を受けきらきらしている。角度を変えながら光っている。

「見ても良いか?」
「どうぞ」
「何を飼っているんだ? エレン」

 リヴァイが態々部屋まで足を運んだのは、先程告げた通り高校入学を祝う気持ちも有ったが、実はエレンがまた奇行の片鱗を見せ始めたのだと、どうすればエレンを理解出来るのかと、カルラからリヴァイの母に相談が有ったからでもあったのだ。寧ろこっちがイェーガー家とアッカーマン家としては本題だった。そこでエレンが懐いているリヴァイに偵察染みた白羽の矢が立ったのだが──何だ、とリヴァイは拍子抜けした。親たちが、エレンが妙なペットに執着しているようだ、なぞと言うから、リヴァイはついにエレンがザザ虫やゴキブリなど信じられないものを飼いだしたのかと思ってしまっていたのだ。金魚やメダカなら飼っていても何らおかしくない。
 けれどリヴァイが近付いたその金魚鉢には、金魚などは1匹も居なかった。と、云うよりも“何も入っていなかった”のだ。
 リヴァイは靜か、問うた。

「…飾ってあるだけか?」
「“飼ってる”んですよ」
「何を? 何も入ってねえじゃねえかよ」

 ガラスの金魚鉢には、透明な水が入っているだけだった。
 するとエレンは不思議そうに首を傾げ、リヴァイを見詰めてくる。首を傾げたいのはこっちのほうだ、とリヴァイは思った。そんな意味のわからない空気のなかエレンは言った。

「水を、飼ってるんです」

 そうして、取るに足らない小さなひとつのことを、リヴァイに話し始めるのだ。

「リヴァイさん。俺ね、異様なくらい素敵な金魚鉢を見付けたんです」

 その出会いは偶然だった。受験生のくせにエレンがいつものようにふらふらと、散歩──と、云うより、放浪、或いは迷子と謂うべきか──をしていたとき、曰く運命的に通り掛かったガラス製品店のショーウィンドウの隅に、飾られていた金魚鉢。それが此処にあるそれだ。エレンはどうしてもそれを買わずにはいられず、金魚鉢を抱えて家に帰ったら。
 金魚鉢なんかじゃ金魚は飼えないわよ、ちゃんとした水槽とポンプが必要なのよ、とまず母親に叱られた。
 エレンが叱られるのもいつものことだ。
 違うよ母さん、金魚を飼うなんてことしない。エレンはそのときにはもう既に、金魚鉢で水を飼うことを決めていたのだ。

「ただの金魚鉢は少し寂しいけれど、水を飼えば、水面にも光が反射して綺麗でしょう? 窓の外からの風が水面を揺らせば、それはもう、とても可愛いんですよ」

 と、笑うエレンに、リヴァイは呆気に取られ『いや、綺麗だが、だからなぜそうなるんだ』とは言えない。エレンの話には続きがあるからだ。

「すごく俺の水は可愛くて、だから部屋の暖房で生ぬるくなったときは、ほんとうに悲しかった。だって、ひやりと冷たくない水なんて、死んだ金魚と同じでしょう。そしてそれを飼ってる俺は頭の呆けた老人と同じです」

 エレンの例え話はいつもこうだ。確りと聞いていても、何の話だったのか理解らなくなりそうになる。ゆえにリヴァイは、注意深く頷いてみせた。

「それから?」
「俺、悲しくて、ほんとうに悲しくて、冷凍庫の氷をいっぱい入れたんです。そしたらまた水は冷たくなって、生き返った。それ以来、部屋に暖房なんかつけないと決めたんですよ」
「ああ…成程。だからこの部屋は、寒ィのか」

 もうじき春だといっても、まだかろうじて3月なのだ。日によってはとても冷える。し、朝晩はふつうに寒い。エレンは、ふふ、と靜か声を出して笑った。

「さわってみて良いですよ。リヴァイさんには、さわらせてあげます」
「は。さわって良いのか」
「良いですよ」

 リヴァイは充分、これがただの水だと知っている。だがそれでもほんの少しだけ、ふれてみたいと思った。そうっと指先を水面につけると、ひんやりと冷たい温度が伝わってくる。

「冷てえな」
「でしょう。心地好いでしょう? それがまた可愛いんです」
「いや、まァ…可愛いかどうかは俺にはさっぱり理解らんが。心地好さ、みてえなもんはあるか」

 不思議な気持ちだった。確か人間の躰の70%だったか60%だったかは、水なのだとリヴァイは思い出していた。ヒトは生まれる前から胎内でも羊水につかっているし、生まれてきても水が無ければ生きていけない。エレンがどういうつもりで水を飼おうと思ったのかは理解らないが、水を愛しむ気持ちは、本来ごく自然なことなのだろう。

「どうして俺にはさわらせてくれたんだ? 大事な水なんだろう?」

 尋ねるリヴァイに、エレンは短く答えた。

「だってリヴァイさんは、馬鹿では無いので」

 では、他の者──例えばエレンの両親や友人たち──は馬鹿なのだろうか。否、そういうわけでは無い。きっとエレンはそういうわけで言ったのでは無い。リヴァイは、エレンが如何に周りを愛し、如何に周りから愛されているか知っていた。なのでエレンがどんなに変なことを言ったりしたりしても、誰もエレンから離れて行かぬのだ。無論、言うまでもなくリヴァイも、エレンが好きだ。それらはきっと、エレンが水を愛しむ気持ちとよく似ているのだろう。

 夜、リヴァイとエレンは同じベッドで寝た。客間は用意されたのだが、エレンが『リヴァイさんといっしょがいい』と駄々を捏ねたのだ。しかして暖房をつける気の無いエレンの部屋は陽が落ちれば益々寒く、フローリングに客用布団では風邪を引いてしまう。と云うことを考慮し結果、エレンのベッドで身を寄せ合うに至ったのである。それにしても狭い。中学生になりぐんぐんと背が伸びたエレンが筋肉質なリヴァイより身長だけは大きくなっているので、小学生の頃のようには流石にいかない。

「狭いですね」

 隣に寝転ぶリヴァイを肘でつついて、エレンがくすくす笑う。

「誰の我儘に付き合ってやってこうなってると思ってんだ。無駄にひょろひょろデカくなりやがって。チビの頃はあんなに愛くるしかったのに今はちっとも可愛くねえじゃねえか。15cmくらい縮めクソガキが」
「俺の身長は平均ですー。リヴァイさんの身長が低いんですよ。そのくせ何ですか、その筋肉は」
「てめえ喧嘩売ってんのか」
「まさか。喧嘩なんて売ってません。寧ろ羨ましいです」
「おまえは生っちょろいもんな」
「生っちょろいって…これでも気にしてるんですよ? 男として。ミカサなんて腹筋6つに割れてる上に物凄え力こぶまで出せるんですよ。ガチガチ過ぎて俺にはもうあいつが女に見えません。身長も俺と差して変わんねえし」

 ほんとうにエレンはよく笑う。仔犬のように鈴が鳴るように、ころころと無邪気に。

「そう言えば、エレンよ」
「はい?」
「さっき風呂に入ったときに思ったんだが」

 リヴァイは寝転んだまま出窓の方へ視線をやった。

「おまえは暖房のせいで水が1度死んだと話していたが、湯と水はどう違うんだ? 同じものじゃあねえのか」

 温度の話では無い。
 リヴァイは入浴中、湯船の湯も確かに気持ちが良いものだと思っていたのだ。そう考えると、胎内の羊水もぬるい。水ほど冷たくは無い。喉などを“潤す”“冷やす”目的では水のほうが気持ちが良いが、実際にヒトが触れて気持ちが良いと感じるのは、ぬるま湯ではあるまいか、と。

「全然違います」

 エレンは即答した。

「風呂とか、湯は勿論気持ち良いですけれど、違うものです。湯には命が無い魂が無い言葉が無い。湯は水の死骸です」

 死骸──簡潔で理解りやすいように思える言葉だが、実態は無く胡散臭い言葉だ。

「水には命が宿っているのか?」
「そうです。だから、水は可愛い」

 水には命があるが湯には無い──つまりそれが、水の死だとエレンは言うのか。

「……悪ィが俺にはまったく理解が及ばん」

 リヴァイで無くとも、理解出来ると云う者のほうが圧倒的に少ないだろう。全人類で零、とまではいかないが。しかし、

「だが、おまえが飼ってやがる水は気持ち良かったぞ」

 リヴァイがそう呟くとまた、エレンは靜かに笑った。
 窓辺の金魚鉢が月の光を受けて、昼間よりも更に綺麗に見える。

「綺麗だとも、まァ思う」
「充分です」

 月を夜空に見ても然程美しく感じないのに水に映されたときにはひどく美しく見えるのは、それが少しでも揺らせば歪む程に儚いからだ。リヴァイには解らない。水とエレンは同じものだ。

「ねえ、リヴァイさん。人間が水といっしょになるには、どうしたら良いと思いますか?」

 天井を見詰めたエレンが問う。

「人間の躰の殆どが水分なんでしょう? なら、皮膚なんか失くしちゃえばいいのに」
「あ?」
「水といっしょになるにはどうすればいいんですか?」

 リヴァイは少し悩みつつ。

「…飲む? とかはどうだ」
「あはっ」

 噴出し笑いで返されてしまった。

「そんなことしたら単純に排泄されるじゃあ無いですか。それじゃ駄目です」
「なぜ夜中にこんな汚え話をしなけりゃいけねえんだよ」
「リヴァイさんが飲むとか言うからでしょ」

 俺のせいじゃあ無い、とふたり同時に口にし合った。ごそ。エレンが寝返りをうつ。リヴァイと視線を交わらせて、何分もただ黙って見詰め合った。

「……“1つになる”、とか言うじゃないですか」

 静寂を斬り裂いたのはエレンの小声だった。

「何がだ」
「例えばセックスなんて。“1つになる”とか、“溶け合う”とか、言うじゃないですか。でも結局そういうのって全部嘘で。嘘八百で。なれないでしょう? なれるわけが無いんですよ。個が、何かと、誰かと、1つになんて」
「ちょっと待てエレン。その口振りからするとおまえ、したのか、誰か女と」
「女の子じゃあ無いですよ。だって幾ら好かれようと俺が好きじゃ無いなら失礼じゃあ無いですか、そのヒトに」
「てことは相手は男なのか。どっちだ」
「どっちって、そんなの、俺が下に決まってるじゃ無いですか。好きでも無いのにヒトに痛い思いをさせるのは偲びない。俺が女役をすればそれなら問題無いでしょう?」
「問題大有りだ」

 突然の展開にリヴァイは頭を抱えた。けれどエレンは何でも無いことのように大きな双眸を丸くし、リヴァイの言葉の意味が理解出来ぬ様子で訊き返す。

「なぜですか? 俺が負担を担うだけで済むじゃ無いですか。それにちゃんと俺に告ってきた相手ですよ? その人は嬉しそうだったし、何が問題なんですか?」
「そういうことを言ってんじゃねえよ。マセガキ、問題だらけだ。貞操観念がねえのか、おまえには」
「好奇心が勝ちました」
「おまえは馬鹿か」

 そうだな、そうだった。エレンは馬鹿だった。リヴァイは溜息すらつけずに呑み込んだ。

「けれどさっき言ったように、全然無理でした。汗ばんだ肌をどんなに合わせても、体内を幾ら掻き回されて、粘膜を擦り付けて内臓まで好きにさせても──結局独りと独りで、2人は2人のままで、1つに溶け合うなんて出来ない」
「そりゃあ当然の事象だろうが」
「だから、それがなぜなんですか? 俺は光になりたい音になりたい言葉になりたいラッセンが描く海になりたいそういう綺麗なものになりたい。なのに1つになれると思ったセックスは汚くて気持ち悪くて痛くて醜悪で、1つにもなれなくて、」
「そうまでして1つになりてえのか」
「はい。だって、」
「そうなると消えちまうな」

 寂しいでしょう。とエレンが零す前にリヴァイは遮った。それでも、それさえも、エレンには響かないのだ。

「何が消えるんですか?」

 きょとん、と訊き返すエレンにどう説明したものだろうかと、考えるだけで嫌気が差す。

「おまえが、だ。エレン。それにそういう行為は好きな奴とするもんだ」
「じゃあ俺リヴァイさんとしたいです。中古品は駄目ですか?」
「何処で覚えるんだ、中古品だとか下品な台詞を」
「だって、リヴァイさんは潔癖気味なので」
「そういうことを言ってんじゃねえよ、この馬鹿が。俺たちは親類だろう」
「そんなの。男同士で関係ないでしょう? なのに風呂も昔みたいにいっしょに入ってくれなくなった、どうしてですか。いまだってこんなふうに密着して、リヴァイさんだって勃ってるのに?」
「…………いま俺が、おまえに手を出したら、犯罪になる」
「我慢してんですか」
「うるせえ。クソマセガキ。とっとと寝ろ。言っとくが仮に俺とセックスしても、おまえは絶望するだけだぞ。1つになんぞなれねえからな」
「どうして。ならどうすればいいんですか。好きな人とセックスしても、孤独だ、なんてそんなの。全然そんなの幸せじゃ無い」
「大人になる為に、それに慣れていくんだよ」

 以前エレンがなぜ“それ”に執着するのかを、聞かされたことが有った。リヴァイはそれらをまざまざと思い起こす。


 クリスチャン・ラッセンの『セブン・ドルフィン』を初めて買った小学生のいつかのとき、エレンはそれを何て美しい海だろうと思った。7匹のイルカが、紺碧色の海を泳いでいる、有名なアクリル絵。けれど、最後のピースをはめて1000ピースのパズルを完成させてしまった瞬間、途端に、酷い程の虚無感に襲われて、美しいと思っていたものは直ぐ様色褪せ、達成感なんぞクソ喰らえだとエレンは思った。確かに構築作業は楽しかった筈だった、し、完成までわくわくしていたつもりでもいたのに。終わってしまった目の前のそれはエレンにとって鑑賞に値する海では最早無かった。なぜならそれが、パズルだったので。ジグソーパズルは、鑑賞用にするには縦横にくまなく走る凹凸の網目が頗る邪魔だ。出来上がってそれで完成形である筈の1000ピースのパズルは、1000/1000=1にはどうしようと成り得ずに、深い溝に阻まれたピース同士はどうしようと1/1000でしか無く、だから矢張り1000/1000=1に成り得ずに、つまりそれは1/1000×1000の集合体にしか過ぎず美しい筈の絵は忌々しい境界線にどうしようと阻まれる。失敗も無くきちんとピースは繋がっているのに、海もイルカも断じて1つには成り得ること無く、およそ1p四方のそれぞれのピースは1/1000の孤独を抱えてそこに在った。失敗も無くきちんとピースは繋がっているのに、小さなピースの境界線は途方も無く大きく孤独だ。7頭のイルカたちは集団なのに中心から放射状になってそれぞれ別の方向へ向かおうとしていて7/7=1×7にはどうしようと成り得ず、1匹が7頭存在しているのでは無い。ゆえにどうしようと1/1=1×7の集団では無くなってしまう。真ん中よりやや下を泳ぐ、1頭のまだ幼いイルカが自分はいったい何処へと向かうべきかとまるで首を傾げたような、あたかも戸惑っているかのような、眼差しを寄越してくるものだから、視線がうるせえんだよこっち見んな。という気分になり、やがて安寧がひたひたと漸くにして、やってくる。人間に限らず動植物も虫も何もかも、生まれてしまった生き物はみんな独りでしか無い。みんな孤独でしか無い。どんなに誰かと、何かとの、傍らに寄り添ったつもりでいても結局生き物はみんな孤独でしか存在出来ない。誰かと、何かとなんてどうしようと1つになっては存在出来ない。最初は、ラッセンだからだろうかとエレンは思った。ラッセンだからと云うより、そこに美しい絵が描かれているからかと、そう思ったのだ。ので。『ミルクパズル』と呼ばれる真っ白でまったく絵も色も無い貴重なジグソーパズルを偶然──寧ろ、必然的にネットオークションで見掛け即、落札し手に入れたあとで、挑戦してみたのだけれども。つくりあげた瞬間の達成感なんぞクソ喰らえ。馬鹿みたいに頭をつかってつくりあげ、襲ってきたものはラッセンのパズル以上に空虚で憂鬱で絶望的で、そしてとても言葉に変換出来ない攻撃的ですらある焦燥と消えたい程の惨めさだった。自分という生き物は、此処に居るが、それはほんとうに1/1=1の存在なのだろうかと。1人なのかそれとも独りなのか、生き物であることを諦めない限りは延々と続く日々のなか永遠に後者だ。それこそたった独りきりの世界を構築しないと1人には成り得ない。絶対に。それは街なかだろうが家のなかだろうがどこだって良いけれども、解り易く学校の教室には1/30もの孤独がある。クラス中の人間が各々1/30もの孤独を抱えて、でもきっと逐一そんなことを数字には表わさず生きている。こころのうちは他人からは見えないけれど、でもきっと様々な思考を巡らせ毎日を生きている。それは7頭のイルカたちが抱えていた1/7の孤独より遥かに大きい。分母が大きくなればなる程、分子の抱える孤独は大きさを増し分子の存在を押し潰す。押し潰されないよう、けれど気付かないふりに必死だった。たぶん誰もが──そんな憂鬱さを孤独を気にしていないだけで、そうであるのだ。だが流れに逆らい続けることは馬鹿馬鹿しい程に疲弊する。全校生徒を校庭に集めても、広場に善人と悪人をずらり並べたとしても。それはそれで複雑でシンプルであるのだろうが、地球上の生き物など数え切れない。
 たった100ピースしか無く、等しく微塵の狂いも無く真っ白でまったく同じ色をしているミルクパズルさえも、凹凸によってどうしようと阻まれる。境界線はどうしようと消えない。ピースとして独立しているときには存在しなかった忌々しい境界線の影が、ピース同士が寄り添うことによってご立派で強固でどうにも出来ない確かな境界線を浮き彫りにする。深い不快な溝をつくる。どうすればいい。どうすればいい。1人の存在になるために独りきりの世界を構築することも出来ないで生きている人間が、いったいどうすればいい。繋げても繋げてもまるきり繋がらない。ミルクパズルは全部まったく同じ色をしていて違いなぞ殆ど皆無に等しいのに、だけれど、でも、ミルクパズルの純白はどうしようと100/100=1などでは無かった。ただの1/100×100の集合体でしか無かった。1/1=1なんかでは無かった。全然。ちっとも。そんなふうに、同じ色をしていようとも絶対的に1つにはなれないというのに。どうすればいい。どうすればいい。まったく同じ色をしたミルクパズルでさえどうしようと1つには成り得ないのに。どうにか出来る筈が無いではないか。誰かと、何かとなんて。1つに。
 忌々しい境界線を無理矢理にでも取っ払うどころか、こっそり埋めていくどころか、熱して溶かすどころか、そもそもそんなものは有り得ないのだと嘘にして、有耶無耶に出来てしまえばもうそれでいいと誤魔化すことすら出来ない。何年経とうとも、未だに。そうしてエレンは悟るのだ。己を躊躇うこと無く傷付け、渺茫とした日々を命を時間をみなもに揺蕩う星を月を。


「────水になりたい」

 眠りに落ちる瞬間、エレンがぽつりと呟いた。



 エレンが変わった少年だということは、エレンを知る者ならば誰でも知っていた。エレンを異常だと思うのなら、何としてもあのとき、気付いておくべきだったのだ。
 リヴァイがエレンの部屋に泊まった3日後、エレンは病院に連れられ帰宅していた。その白い手首から肘裏へ掛けて、目に痛い程尚更に白い包帯が巻かれていた。その下には5針の縫い傷──深く、手首を切ったのだ。

「エレン、」

 リヴァイはエレンの部屋の扉を開けて、3日前とは違い叱るような厳しい声でその名を呼んだ。

「ふざけやがって。なぜそんな馬鹿なことをした? 死にたかったのか」

 清潔なシーツに顔をうずめたエレンは、答えない。

「どうして」

 エレンは昨夜、あの金魚鉢に手首を浸して、果物ナイフで切ったという。
 命に別状など無かったが、その様子があまりに異常だと両親の目には映ったため、カウンセリングなどを受けることにもなってしまった。

「聞いてんのか、エレン。手首なんざ切ったぐらいじゃあ人間は簡単に死ねねえんだよ」
「……知ってますよ」

 漸く答えたエレンの声はか細く、掠れ今にも消えてしまいそうだった。

「……泣いてんのか?」

 エレンは夢見がちでおかしなことばかり言うが、幼い頃からずっと、滅多に泣く子供では無かった。それが今は、ベッドにうつ伏せになったまま、独り靜かに泣いている。

「……矢っ張り俺は、駄目なんです。水と混ざれない」

 かなしいんです。
 かなしくてどうしようも無いんです。
 水にはなれない。

「体内の殆どが水分だから、切ってみただけなんです。水にはなれなくとも、俺の1部が金魚鉢の水といっしょになれるように。邪魔な皮膚を切ってみただけなんです」

 エレンは興奮気味に早口で話し出した。どうしても水と1つになりたくて、手首を切ったこと。死ぬ気など無いと謂うこと。だが幾ら切っても、水と1つになれなかったこと。それがショックだったこと。

「俺の血は、赤くて、水と混ざり合うことも出来なかったんです、自然には。初めは針で指先を刺して、水に血を滴らせただけで。けれどその血はインクを垂らした筋にしかならなくて、そして固まろうとする。水には、なれない。そればかりか水に嫌われてしまいました」
「嫌われた?」
「混ざらない水が俺の血に“あっち行け”をしていたんです」

 かなしいんです。
 かなしくてどうしようも無いんです。
 水にはなれない。

「エレン、なァ、エレンよ。どうしてそこまでして水になりたいと望む? 例え死ぬかも知れないとしても?」

 そう訊くと、エレンは顔を上げてコクリと頷いた。そんなエレンの躊躇の無さに、リヴァイは胸を痛めた。何と言えば、エレンに伝わるだろう。
 何と言えば。
 ベッドの上、壁に背を付け上半身だけを起こし、座っているエレンの頭を、思わず掻き抱き目を瞑る。身じろいだ細い未熟な躰は体温が高く心地好い。そうしてリヴァイは、どうにかエレンと完全に1つになる術は無いだろうかと考える。無理に体躯を繋いだとしても、それは互いが別質の個であるということの確認にしかならない。決して溶け合うことはないのだと、絶望と共に思い知らされる。過去にリヴァイの裸体の上を通り過ぎていった女性たちを思い出し嘔吐感に苛まれる。満たされるのはほんの一瞬だけで、擦れ違った次の瞬間にはもう遠く霞む景色の彼方だ。もしもエレンとリヴァイが繋がることの唯一の証明が、性行為だとしたら、だが子を成すことは出来ない。困難を押しのけてやっと寄り添わせた個の証明が不確かで、擦り替えすら可能な記憶だけなのだとしたら、ヒトは曖昧な海を漂いほんの偶然でこうなったに過ぎない。し、離れたときには互いを求める頼りすら無いのだ。無知は罪だが、知ることは更なる罪だ。人類が生まれてから絶えず追いかけてきた命題であるところの愛を知れば知る程不幸になっていくのなら、これほど悲しい生き物は存在しまい。
 そこまで考えて、リヴァイは背にエレンの手がまわされ、縋り付かれていることに気付く。エレンはやっと深い呼吸を吐いて、リヴァイの匂いに包まれていた。目隠しでどこまでならば行けるか。抱き締め合えれば苦しさから解放されると思っていたのに、エレンは余計に苦しくなった。こんなことなら始めなければ。物語自体を始めなければ良かったとも思うが、始めるも何も出会ってしまった時点で当人たちの都合など関係なく始まるものなのだからそれは嘘だ。ならば出会わなければとも思うが、この感情を知らなかった頃の自分になど何の価値も見いだせないのでそれも嘘だ──今だって何の価値があるのかと訊かれればわからないが2人は互いに双対的な意味を持って存在しているのだ。だとすればこの苦しさだけが本物で、男のくせにやたらとぼろぼろと零れ落ちる涙の熱さがその事実を突きつけてくる。嘘にまみれた世界のなかで、冴えわたるこころの痛覚だけで生を貪り、それでも生きねばならぬのか。

「ん、…ふ、ぅんん……」

 気付けばどちらからとも無く咥内を貪り合っていた。唇が角度を変え吸い付いては舌先を絡め合う。激しくて、熱い。熱い熱い熱い、猛烈に激しいキスをしながらも、こんなに蕩けそうに気持ちが悦いのに、どちらの舌も盪くことは出来ない。出来ない。1つにはなれない。

「俺は、エレン、おまえが好きだ」

 抱き合い見詰め合ったまま、何れ程時計の針は動いたのか。
 随分立ち尽くした後、リヴァイは言った。

「俺だけじゃねえ。みんなおまえが大事なんだ。頼むから、頼むからもう2度と水と混ざろうざなんて馬鹿な真似はしないでくれ」

 月並みの台詞だった。きっと、エレンには届かない。リヴァイの口からはキス以外に、エレンが溺愛した水以上には、エレンを夢中にさせるような言葉は出てこなかった。リヴァイは泣きたかった。エレンのように。でも出来ない。出来ない。出来ないのだ。

「おまえを理解してやれねえ」

 金魚鉢の水に泣く程、静脈を縦に切る程に執着するエレンの気持ちを、理解することさえ、リヴァイには出来ない。

「そんな顔、しないでください。リヴァイさん。どうせならもっと、キスが欲しい。貴方と、1つになりたい」

 言われて、だからリヴァイはその通りにした。1つになれもしないのに。どこまでもエレンは独りぼっちで在るのに、泣けもしないリヴァイに泣かないでと慰めることの出来るエレンが、リヴァイは好きだった。


 その夜中、なみなみとついだグラスの水に、リヴァイは祈った。信じてもいない神に星に夜空に月に。
 神様どうか、エレンを水にしないでください。
 エレンが水を愛するように、誰もがエレンを愛しているのだ。だからこそリヴァイはエレンになり得ない。
 エレンはエレンだ。
 水は水だ。
 エレンが水になれないのも、当然のことなのだ。もっときちんと言ってやれば良かった。

 そんな愛し方では生きていけない、と。エレンに。

 慈しむことは、そうでは無いのだと。

 エレン・イェーガーは変わっている。
 そして、それ以上に、みなものように儚い。
 帰り際独り言ちた、エレンの言葉が耳について忘れられない。

『灼けて溶けて失くして消えて1つになる為には、この躰が、俺の世界が、俺のすべてが、氷で出来てりゃ良かったんだ』

 例えば──高い高い塔の上にエレンが居たとする。リヴァイはそれを見付け、エレンを迎えに行くべくして塔を登ろうと考えるだろう。だがエレンは、リヴァイの到着を待つことも、階段を降りることも考えない。ただ下にリヴァイを見付けたらそのまま脊髄反射のように、どちらかが、或いは両方が、死ぬかも知れぬとしてもリヴァイに向かって躊躇なく飛び降りる。受け止められる保証など無くともだ。どうしようともエレンはそういう生き物なのだ。

 それゆえに。だからこそ。
 エレンは、あの窓辺で、今度は、空の金魚鉢を飼っている。
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