<概略>
どうしてもエレンを手に入れておきたくてエレンを溺愛する兵長と兵長を憎みたい愚かなエレン/でも結局互いに溺れている話/殺伐/






   

 正当では無い問題を、争いを避けながら殺伐と平和を演じ分け、何も証明出来ないことが何であるのかを示唆する。多くの人々は、そんな世界を生きている。ドアノブを掴んだ手のひらが、ずると滑ったのを感じ、リヴァイは軽い憂鬱さと共に眉を顰めた。見れば幾重にも包帯を巻いた筈であった手のひらからは、油断すれば滴り落ちる程の血が染み出しており、もっときつく縛っておくべきだったかと後悔せずに居られず、思わず、歩いてきた廊下を振り返る。きれいなままの床に息をつき、改めてゆっくりとドアを開く。ついた血は後で拭ってしまえば良いのだ。どうせこの時間、部屋には客人も来ない。と、思っていたら、居た。そのせいだ。手のひらの痛みと、少しの苛立ちを吐き出すようにリヴァイは深く溜息を吐いた。
 ヒトが2人、存在している部屋のなか、それなのに漸く声が落ちたのは、リヴァイが入室してから、数十分が経過してからだった。

「……まだ、止まらないんですか」
 
 ソファに行儀悪く寝転がり、一見寛いでいたエレンは、リヴァイが姿を見せても、ちら、と視線を寄越しただけだった。そしてすぐに、また突っ伏する。だからリヴァイもそれを無視して、取り敢えずは再度応急処置を行う。その間、エレンは何もアクションを起こしてはこなかった。
 元より一切、期待なぞしていなかったが、人類最強との扱いを受けていても利き手の怪我の処置を自分ひとりで終えるのは流石に疲れたし、それに加え多少の苛立ちもあり、リヴァイは今まで黙していたと謂うに。

「じきに止まる。こんなもん、怪我でも何でもねえ」

 どうでも良さそうな口調で掛けられた言葉に、こちらも幾数分の間を空けてからリヴァイはエレンを極力視界に入れずに答えた。実際には指を動かす度に肉が引き攣れ痛んだが、あまり支障は無いし、伝えた通りにその内止まるだろう。血痕のせいでエレンには果てしなく深い傷のように思われているのであろうが、ほんとうに大した怪我などしていないのだ。

「兵長がさわった場所が、すべて、べたべたなんですが」
「放っとけ。後で拭いておく」

 我ながら斬り棄てるような言い方だとリヴァイは思った。そのことについ、チ、と舌打ちをする。血の染みは取れ難い。それを後回しにして、放っておけなどとは潔癖気味のリヴァイらしく無い。それをエレンも感じ取っていたようで、反応をせずに押し黙る。

「…おまえはもう自室に戻れ」

 仕方無しに、一旦冷静さを装う。そのせいで、ソファから躰を起こしリヴァイを見ていたエレンと、ここで初めて視線が合った。そうして、不貞腐れた幼い子供のように、エレンの眉間が顰められる。
 
「俺に、言いたいことがあるのであれば、いつもみたいに遠慮無くさくっと言っちゃってくださいよ。…正直、気分が悪いです」

 その表情に似合いの声で、そう吐き棄てた死に急ぎの新兵に、リヴァイは短く息をついた。気分が悪ィのはこっちだ、と云う言葉をどうにか呑み込み、更に苛立つ。

「何だ、てめえは……責めて欲しいのか」
「…………」
「俺に『この怪我を負ったのはおまえのせいだ』とでも、言わせてえのか?」

 リヴァイの言葉にまた、エレンが口を閉ざす。けれど先刻とは違い、ぎり、と奥歯を噛み締めているのが判る。すぐに言い返してこないところを見ると、図星であったのかも知れなかった。確かにリヴァイが負ったこの怪我は、エレンの勝手な判断による、些細なミスで負ったものではあった。しかしだからと言って、そんなことを逐一責める気なぞ初めから毛頭ない。勝手な判断は臨機応変とも取れる。し、今まで、そういった判断のおかげで兵団内の部下たちの命があった場面さえ無きにしもあらず、何よりこの闘いの日々は誰もが命を掛けているのだ。その上で、このような些末なことを気に病むほうがずっとおかしい。だがそれでもまだ、この少年兵は己以外の者が血を流す役割を負うことを、好まない。と、云うか、好まないと言うよりは、そういった役目は端から自分だけで充分なのだと、当然のように考えている節があった。敵共々自分たち、巨人化する化け物以外、削ぎ殺し続けるべく巨人の正体が元は罪無き人間であったのだと認識してからは、殊更それが顕著になったように思える。それが今回の、勝手な判断に繋がったのだろう。けれども今更ながら後戻りは出来ず、悔いても死者が生き返ることも無い。割り切れぬエレンの脆弱さは、リヴァイからすればこれ程馬鹿げた、深過ぎる自責も無かった。

「…ふざけるなよ、クソガキが」

 そして、これ程腹の立つ考え方も、外には無い。リヴァイは今度こそ遠慮無く、苛立ちを乗せたままの声でそう吐き棄てた。エレンの願い通りにしてやったというにそれだけで、その細い肩が少し強張るのが判った。リヴァイはそれを横目に立ち上がると、靜かにエレンへと近付いて行く。だが、気持ちは動かない。

「俺が、そんなことで苛立っているとでも思っているのか? なァ、エレンよ」
「……違うんですか?」
「相変わらず、てめえはヒトの感情の機微に疎いな。いつになりゃあ学習するんだ、愚図」

 言いながらリヴァイはゆっくりと、ゆっくりと近付くが、睨むようにリヴァイを気丈に見上げているエレンは、ソファからは動かない。その表情は何かを探ろうとしているかのようにも、訝しげにリヴァイの出方を伺おうとしているかのようにも見える。目前に立てば、その金色の双眸に、白い顔に、曇天の如く影が落ちた。

「俺は以前にも言った筈だろうが。エレン。ああいった無茶な命令違反はするんじゃねえと」
「把握しています。だけど、でも、今回のどこが無茶だったのかが俺には理解りません。兵長」
「それはおまえが判断して良いことじゃねえんだよ、クソガキ。状況は常に変化している。巨人の謎も歴史も──おまえの進退も。判断するのは俺だ」

 リヴァイが片膝をソファに乗り上げれば、息を呑みエレンが反射的に少しだけ躰を引いた。その様子を、ネイビーブルーの瞳が淡々と見下ろしている。革張りのソファがリヴァイの膝の下でぎちり、と鳴った。

「…………自分で決めろと最初に俺に仰ったのは、兵長でしょう」
「あのときとはもう疾っくに事情が違う。エレン、おまえの判断は、確かに咄嗟にしては優れている。良くも悪くも、決して間違いじゃあねえ」
「だったら」
「だが、駄目だ。おまえの判断はもう『使えない』」

 見上げてくる蜂蜜色の目に、獰猛な色が篭る。交わす言葉の真意が読み取れず、困惑し、苛立っているのだとも判る。

「てめえの案はな、エレンよ」

 遮るものが無いせいか、より鮮明に感じられるその金色のどろりとした感覚に、リヴァイは目を細めた。

「てめえの案はいつだって常々、おまえ自身を省みようともしねえ、ふざけたもんばかりだ。……そんなもん、いつ俺が赦した?」

 言葉とは裏腹に優しく伸ばされたリヴァイの手は、指先でエレンの前髪を掻き込むと、継いで今度は乱暴に、そのまま引っ張り上げた。そのせいで、エレンの喉が反り、突然の行為に引き攣った声が漏れる。

「、い……っ!」
「ほんとうに必要なら、俺はおまえが危なかろうが、怪我をしていようが、死ぬ危険性があろうが、無関係に判断するし、そして指示を下す。…だから、おまえは、勝手に動くな」

 ぎりり、と掴み上げれば更にエレンの目許が歪んだ。リヴァイの手のひらにきつく爪を立てられる。未だ少年期を脱しない子供が癇癪を起こすように暴れだした。苦しくてただどうにかリヴァイを引き離そうと、もがく。けれど狭いソファで、尚且つ上から力を加えられていたエレンに、勝ち目など有る筈も無い。リヴァイはエレンの髪を引っ掴んでいた手を離すとそのまま勢いをつけ、肩をソファにつよく押さえつける。ここがソファでさえ無ければ、打ち身程度にはなったであろう暴力と呼んで差し支えない程のそれに、エレンは呻いた。その隙に、リヴァイは少年のもう片方の腕も掴む。

「理解したか、愚図野郎」
「う……ぁっ、理解な、ん、か……っ」
「まだ解らねえのか? 粗末な脳みそだな」
「あっ、い゙ァ!」

 押さえつけた肩、関節部分に更に力を込めればぎしり、と骨が軋む音と、堪らずエレンが上げた悲鳴が重なった。それを被さるようにして上から眺めながら、リヴァイは促すように首を傾げてやる。それを見て、痛みに顔を歪ませながら、エレンがそれでも口を開いた。

「な、にが…っ」
「あ?」
「何がっ、…そんなっ……に、気に入らない、ん、です…かっ! 兵長、あ…なたは……ッ」
「だから、てめえの勝手な判断で動くなと云う話をしている。物覚えの悪ィ野郎だな」

 薄い肩から手を外してやり、リヴァイはそのまま緩慢に、強張っている子供の腕を撫で付けた。二の腕、肘、手首、手のひら。先程とは打って変わったように、優しく、丁寧に。そして指先に、己の指を絡め、て。リヴァイがほんの少し力を込めれば、びくり、と薄い肩が震えた。磨耗して衰弱する。翻弄されて見失う。不信に陥り貶める。自棄になり均一になる。

「例えおまえ自身でも、おまえに傷をつくることは、俺が赦さねえ。おまえが俺の判断で、傷を負うなら良い。どんな目に合おうが構わん。だが、おまえの勝手な判断で負うな。腹が立つ」
「……な、にを、」
「だったらまだ、俺が傷を負った方がましだ」

 指を絡めているほうとは反対の手のひらが、熱い。無理をしたせいか、じわりと血が滲んでいるのを感じる。そしてその言葉にはっとしたのか、エレンの視線が己の押さえつけられている腕へと動く。
  
「だか、ら…俺の代わりにそんな怪我を、したん、ですか」

 手を。困惑した様子のエレンの口から、思わずといったかたちで、真実が零れ落ちた。視線もリヴァイから逸れている。

「おまえは、だから、気にするな。…気にされると腹が立つ」
   
 それをもう1度、つよく絡めた指に力を込めることで、引き戻す。目が合う。今度こそ、その視線が外れぬよう見詰めながら、息が掛かる程にリヴァイはエレンに顔を近付ける。

「お前からすりゃあ、俺は実際確かに、無理を言っているんだろう。…なァ、だがエレン、」

 するとそれに何を感じたのか、エレンが微かに、ゆるゆると首を横に振った。あたかも今から落とされる言葉を、拒否するかの如く。その様子にリヴァイは思わず喉の奥で嗤いながら、けれど態と優しく、エレンのその耳許で囁く。

「おまえは、馬鹿だが何も考えられねえわけじゃねえだろ。ほんとうはきちんと、俺の言うことを理解してやがるんだろう?」

 言って、押さえ付けていた腕を離しても、エレンはもう、暴れようとはしなかった。ひとつだと思っていた事象が、ぽろぽろと剥離して、ばらばらに主張し合い、支離滅裂と浮遊していく。十中八九、そうなってゆく確信が有った。エレンのこころは、いつも断崖に在る。





 味わうようにして、リヴァイの手のひらに無心に舌を這わすエレンの姿を、ソファに座ったまま見下ろしつつ、リヴァイは変な感じだと異様さを達観していた。その舌先が傷の上を撫でる度に痛んだが、犬のような猫のようなエレンの姿が面白くて──いっそ愛らしく、て、好きなようにさせている。

「ん、ん……」

 しかし、その舌が手のひらから離れ、つつ、と手首まで上ってきたところで、リヴァイは声を掛けた。

「満足したかよ?」

 その言葉に、久方ぶりに未発達な少年そのものの顔が上がる。乱れたエレンの髪の隙間から見えた目が、微妙な間を空け、不快そうに顰められた。

「、まず…」
「馬鹿か。美味いわけがねえだろ」

 ぺろりと舌で口許を舐めながら、座り込んでいたエレンがリヴァイの膝に手を置き、立ち上がろうとする。その動作の途中で無理矢理に引き寄せれば、ぐらり、縦は有ってもまだまだ細い躰は、簡単に倒れ込んできた。

「っ…! 何す、」
「どんな味がした」

 間近になった顔が、尚も嫌そうに顰められる。だがリヴァイを睨む金の目と視線を交わし、やわらかな黒髪に手を伸ばしながらそう囁くと、ぐっとエレンが黙るのが感じられた。愚かなわりに聡い子供は、リヴァイが暗に何を促しているのか、すぐに理解ったのだ。そうして続けざま額にくちびるを付くか付かぬかの距離で寄せれば、かすかな戸惑いのあと、今度は逆にエレンの指がリヴァイの髪に差し込まれた。

「……兵長は、いつもそうですね…」

 そのまま悔しそうに、吐き棄てられて呟いた、エレンに引き寄せられ、口の端で嗤いながらもおとなしくそれに従う。──でも、おまえはもう──忸怩たる思いをも捩じ伏せ危うく零しそうになったリヴァイの言葉は、寸でのところでエレンのくちびるに呑み込まれた。結局のところ、エレンはリヴァイに逆らえないのだ。その欲求に。例え、理解っていたとしても。
 急くようにして、ぬるりと入ってきた子供の拙い赤い舌に、大人は狡賢く応えてやる。と云う姿勢を崩さない。不自然だった体勢を正すようにリヴァイが背を手のひらで促せば、エレンは身を捩った。一瞬だけ唇が離れ、はァ、と熱い息を感じる。そして意図を察した子供はリヴァイの両脚の間に、膝を立てた。先程とは違い、今度は蜂蜜色の瞳が、リヴァイを見下ろしている。

「…………ねえ、兵長」

 そこで不意にリヴァイは──その目の揺らぎに、違和感を覚えた。先刻まで情欲で濡れていた筈の目に、違う色が篭っている。何かは判らない。しかしそれに思わず眉を顰めれば、すう、と金色が細められ、はは、とエレンが小声で自嘲か嘲笑か判別し難い声で嗤う。

「何だ」
「…だって。兵長。……顔にね、出てるんですよ」
「何がだ」
「俺に死んで欲しくない、殺したくないって。そんなぬるくて、監視が務まるんですか」

 すぐさま自嘲気味に口の端を吊り上げ、エレンは俯いた。やわらかな前髪が落ち、リヴァイの視線を遮る。表情が読めない。そのまま、エレンが口を開く様子だけが、見えた。

「やっぱり、兵長は俺を、舐め過ぎです」

 ねえ、そうなんでしょう? どうせあと8年も残っていないのに? と、どこか忍び笑いのような響きを含んだ言葉は、なぜだか、白々しくも薄ら寒い。更に、言われた言葉の中身は、もっと。リヴァイはエレンの意図が読めずに、思わず口を噤んだ。

「……馬鹿な俺なんかには、理解んねえとでも、思ってたんですか?」

 けれど、エレンが顔を上げ、リヴァイを見下ろすその視線を見れば、簡単に納得がいった。そこにはあからさまな程の、リヴァイへ向けての怒りが篭っていた。僅か前まで情欲に濡れていた筈のそれが、冷たいひかりをちらつかせている。それに、ぞくり、と柄にもなくリヴァイは自身の背が粟立つ感触を覚える。

「てめえは、なぜ、そう思う?」

 否定はしない。けれど肯定もしない。慎重に言葉を選びながら、リヴァイは少しだけ目を細めた。エレンの視線はつよく鋭い。刺すようなそこからは、憎悪にも似た感情が垣間見える。それは自分に向けられたまま、決して揺らがない。それでもこの今に、リヴァイだとて揺らぐわけにはいかなかった。刹那、沈黙が訪れる。

「…『なぜ』? 本気で仰っているんですか、そんなこと」

 先に口火を切ったのはエレンのほうだった。邪魔なものだけを斬り棄てるそれで、口付けだけで掠れた声でそう呟いて、きつく眉根を寄せる。その表情には今度は怒りではなく、嫌悪が浮かんでいた。けれども、それはリヴァイに対してのものでは無い。

「何なんです、これは? ねえ…俺は今、いったいどうなってしまってるんですか? どうして。俺が、こんな、」

 怒り、嫌悪、不安、戸惑い。それらが言葉となって、リヴァイだけに向かってぶつけられる。リヴァイは黙ったままそれを受け止め、じっとそのつよい視線を見詰めた。そうやって暫くの時間、宥めるように──否、促すように、這わした手でエレンの背をただの1度だけ、撫でてやる。それだけで、様々な感情の入り混じった蜂蜜色が、それに過剰反応を示し、ぎゅっと狭められた。

「ふざけ、てんのはっ……どっちですか…ッ」

 乱暴に、リヴァイはシャツを引っ掴まれる。不敬罪で蹴り飛ばしてやろうかと思う一瞬の狭間で、疾った痛みに眉を寄せてはみたが、リヴァイを見下ろすエレンの顔を見て、リヴァイは一切の行動を止めた。そしてそのまま、ゆっくりと口を開く。

「なら、てめえは、」

 きっと、誰がどう見ても、エレンは、混乱していた。持て余すだけ持て余すしか無い怒りをリヴァイにぶつけ、嫌悪を己に向け、けれどもそれをどうすれば良いのか判らずに、ただ独りきり混乱していた。それを察し、あァ、とリヴァイは胸懐にて呻く。どうやら自分は少しばかり、失敗をしたらしい。疑問などまったく抱かせずに、この腕のなかへと閉じ込められたと、思っていたのに。それがそも誤りであったのだ。率直に、悪いことをした、と思う。同時、可哀想に、とも。無意識的に幼い子供を傷つけることは、リヴァイとて本意では無い。

「ならばエレン、おまえは俺に、どうして欲しい」

 逆に言えば、意識して傷つけることは微塵も厭わぬと云うことなのだが。今のエレンに対し、どういった言葉を掛ければ宥められるかも、子供の不安を払拭してやれるかも、解ってはいる。だがそんな方法は得てして何も面白くはないし、何の得にもならぬのだ。そして何よりも、そんなことではエレンの根幹には、おそらく響かない。

「……これ以上、俺の、なか、に、」
「ああ」

 促され、辿々しくも──なのにひどく苦しげに、エレンの口が開く。掴まれていたシャツから手が離され、靜かにその腕が落ちる。そのあと漏れ出た、言葉、に、

「侵入って来ないで、ください」

 リヴァイは心中で少しばかり、否、少しでは無く、大笑せずには居られなかった。なぜなら紛れもなく、これはエレンの本音なのだ。本気でそう、思っているのだ。混乱のなか、それでも逸らさずにこちらを見る視線と、重い感情の篭った口調にそれをつよく感じる。真意を明かさないことがせめてもの償いで、エレンの死なない理由になれば良いと願っていた。それを失態であったと気付かずに。そう、願ってきたのだ。
 消してしまえないから侵入しないで欲しい。
 もう耐えられないから、侵入しないで欲しい。
 これ以上踏み込まれて、それでも追い遣れそうに無いから、侵入しないで欲しい。
 きっとどれも、正解だ。

「別に俺は、それでも構わんが」

 しかし、その言葉の裏が何を意味するのかを、子供はまだ理解っていない。言葉の裏腹、駄々を捏ねる程度には確りと怯えていておいて。最早それは敗北宣言だった。己がリヴァイに侵食されていくことを、こんなにも恐怖していると言っているものと同等である。それでいてまだ、エレンとリヴァイは向き合いたく無かった。既に手遅れであるのだと認めたくも無く。それでもすんなりと、リヴァイはエレンがこの腕のなかへとすべてを抱えたまま落ちてきてくれることを望んでいた。所詮、欠陥品のふたりであるのだ。

「そうなって困るのは、おまえだろうが」
「……困、る…?」

 靜かに、幼児にでも言い聞かせるようにリヴァイはエレンへ話し掛ける。見下ろす視線が、きつく歪んだ。

「まだ理解らねえのか? ほんとうに? よく考えてみろ。おまえのなかから俺が消失しちまったら、」

 背におざなりに回していた手のひらに、ぐっと力を込めシャツを脱がす。すると、今更驚いたようにエレンの肩が震えた。

「ゃ…、はな、し、」

 震えたまま重苦しく落ちていた筈の腕が上がり、リヴァイの肩に触れ、引き離そうとつよく押される。だがリヴァイはそれを赦さずに、その細い腰に更に腕を巻きつけた。

「眠くなっても、おまえの傍には居てやれねえ。こうして、抱き締めてもやれねえ」
「やめ、」

 背の窪みに沿うようにして、じっくりと甘く下から撫で上げていく。時折指でつよく押せばその都度背がしなり、ひくり、とエレンの体躯は震えた。兵士にしては華奢な躰。巨人の能力が無ければ、エレンを痛みや快楽から護るものは、とても薄い。その程度にはエレンはいつだって無防備だった。

「撫でてもやれねえ。キスもしてやれねえ。……何より、独り寝すらままならねえ甘ったれたガキを、寝付かせるために抱いてもやれねえ」
「っ…、ふ、あ…ッ」

 やがてリヴァイのその手のひらがエレンのうなじへと到達する。そのまま包み込むようにして敢えていやらしく撫で、擦れば、耐えられずに声を上げたエレンが、逃れるようにして首を俯けた。リヴァイのすぐ傍に、快感に耐える子供の顔がある。

「それでも良いのか?」

 うなじを撫でるのをやめ、今度はやんわりと髪を掻き込み、優しく梳いて。するとそれに呼応するように、つい今し方までリヴァイを刺すようにして向けていた双眸が、淡つかと緩んでいくのが見えた。

「今、俺との関わりを、真っ当な上官と部下でしかないものだと、この瞬間から断てないのなら──おまえにはもう、無理だ」

 耳許にくちびるを近付け、それだけで息を熱くするエレンに対して、はっきりとした口調で伝えてやる。その言葉に、ひく、と薄い肩が小さく震える。だが俯かれた頭はそのまま動かない。目の端に映った顔は、ただ苦しそうに悔しそうに、負の感情で歪んでいた。

「顔を上げろ。エレン・イェーガー」

 けれどそれを意に介さず、促した。僅かながらもきっぱりと硬質な声音で名前を口にしてやれば、少しの躊躇いのあと、ゆるゆると顔が上がった。こんな時でも、教え込んだ条件反射は効くらしい。上出来だ、とリヴァイは悟られぬ程度にほんの少しだけ、口角を上げた。

「それで、おまえは結局、どうしてえんだ」

 そして問いというかたちを、装った、子供を追い詰める言葉を吐く。選択肢なぞ、元より与える気も見せる気も無い。疑問を覚え、怒りを感じ、嫌悪を見せたエレンを、また無理矢理に篭絡する。精神的にも肉体的にも、子供は今まで無知で無色であった分、快楽にとても弱い。それを利用して、まともな思考の余地さえ奪う。

「…どう、し、……?」
「そうだ。どうしてえ」

 卑怯だと、狡猾だと、酷薄だと、どこの誰に何を言われてもリヴァイは一向に構わない。他人に言われようと、エレンに言われようとも。自分ですら、そう思っているのだから。そんな己の狡猾さに嫌気が差さぬことなぞ無い。もっと他に遣り方が無いのかと、後悔をしないことだって、無い。リヴァイはエレンに対し、罪悪感を覚えぬことなどまるきり無かった。倫理観や常識、己が今まで培ってきた善悪。それらがいつも、リヴァイには纏わりついている。だが、ただの1度でもこの快感を知ってしまえば、もう何もかもすべてがどうでもよくなった。この子供が、自分の思い通りになる。それは何ものにも代えがたい興奮である。考えるだけで、ぞくぞくと背筋を這い上がる何かを感じる。血液が巡り沸く。心臓が熱を持ち、息すら詰まる。
 この感情を、何と呼ぶのか。

「理解らねえのか? 自分じゃあ」

 問いを投げられたエレンが、リヴァイを再び見る。けれどその視線は揺れ、最早どのようなつよさも無かった。それに安堵しつつも、リヴァイは慎重に言葉を掛ける。この憐れな子供が我に返らぬよう。逃げ出さぬよう、に。気付かない、ように。

「だったらもう、何も考えるな。したいことをすりゃあ良い、おまえは」

 するり、と頬を優しく撫でてやる。その感触に、エレンの表情が強張った。リヴァイの与えるそれから逃れようと、耐えようとしているのが解る。

「エレン、」

 だからこそ、リヴァイ自身、己からこのような声が出るのかと思う程、出来得る限り穏やかな声でエレンの名を呼んだ。頬に触れていた手を後頭部に回し、そっと引き寄せれば、エレンが声にもならぬ声で、へいちょう、と呟く。

「言え。今おまえが1番してえことは何だ?」

 その声を殺すように、上から再度問う。引き寄せた顔はリヴァイのすぐ近く、息が掛かる程の距離に在る。

「っ…、」

 息を吸い込んだエレンの口許が、震えるようにわななく。何かを言おうとしているのか、言葉が見つからないのか。幾度も薄く開き、閉じられる。そこで垣間見えた舌の赤さに、リヴァイは今すぐ絡め取ってやりたくなるが、だけれどこの距離は詰めてはいけない。エレンにはあくまでも、己で選んだのだと、勘違いをさせなければならない。

「…あ、なたをッ……貴方を、嫌いに、なりたい…っ!!」

 嫌いになって、侮蔑して、恨んで、ぶん殴って、叶うなら、殺してやりたいのだと、喉を絞るような声で、漸くそうつよく吐き捨てたエレンの目許が、歪む。リヴァイに対しこれ程憎い相手は居ない、と。悔しい、と、つらいのだと──。
 だがそれ以上に、リヴァイに憎まれてしまいたいのだ、と。
 そう鮮明に訴えかけてくるその表情と視線に、リヴァイは嗤った。嗤ったまま、あァ、と頷いてやる。

「それが、おまえの今、したいことならな。だが違うだろう。おまえにしちゃあそう悪くねえ案だが、そんなもん『使えない』じゃねえか」

 エレンの後頭部を撫で、髪をまた優しく梳いてやれば、目の前でエレンが歯を食い縛る。そして次の瞬間、噛み付くような勢いでくちびるを塞がれる。がちり、歯がぶつかり、舌が歯列をなぞり這いまわる。何度も喰らうようにして、口許が動く。下手糞。エレンの激しいその動作に存分に応えてやりながら、リヴァイは更にその細い躰に、きつく、腕を回した。
 身の丈に合わぬ悦楽を覚え込まされた子供は、就中に敏感だ。
 疾うに溶けた意識のなかでそれでも、痛い、と吃逆するべくして出る頼り無さで呟いたのを、リヴァイは無視して、下をもひん剥き、上体を支えたまま腰を進める。ソファが一瞬沈み、それに連動してエレンの首が、逃げるように軽く仰け反った。背中から抱きすくめるかたちをとっていたリヴァイの目前に、その白い喉が現れる。思わず、噛み付いた。

「ぅあ、あァっ!」

 快感からでは無いエレンの声に、しかしリヴァイはやめる気など皆無だった。そのまま舌を喉許に這わす都度、エレンはがむしゃらに逃げを打つ。暴れるようなその様子が気に食わず、リヴァイはその平で薄い胸許を飾る突起をつよく捻った。今度こそはっきりとした、痛みからの悲鳴が上がる。

「あァ、痛かったか?」

 そうしてまた態とらしく掛けたリヴァイの言葉に、掠れた声で、いやだ、とエレンは呟く。憎悪とも情欲とも取れるだろうその押さえ込んだ声音に、リヴァイは意地悪く口角を僅か上げると、エレンを宥めるようにこめかみに口付けた。1度、2度、3度。その内に少しずつ、強張っていた痩身から力が抜ける。その隙を見て思い出したように揺さぶれば、今度は息を呑んだ体躯が、びくつき、おおきく跳ねた。けれど声は出ない。いい加減に、悲鳴でも喘ぎでも嗚咽でも、声を出させることが好きなのだと、エレンにさえ想像が付いたのだろうか。

「くどいか」

 だが、たかだか15の子供にこころの内を全部気付かれるのは面白くない。覗き込めば、エレンは震える口で深く激しくも、何度も呼吸を繰り返していた。そこから必死に快感に耐えようとしているのが伺えて、思わずリヴァイは瞬きをする。馬鹿なことをされている。けれどもリヴァイは、自分に対して抗うことをやめないエレンのその姿が、とても好きだった。
 とても良い。
 とても気持ちが好いし、とても見ていたいし、とても屈服させたくなる。だからエレンは抗えば良いのだ、無意味に無駄に、好きなだけ。極稀に時折その悪足掻きに、リヴァイのほうが辟易し根負けしてしまうこともある。だがそれくらいで丁度良い。

「まァ、今はどちらにしろ、無駄だがな」

 何しろリヴァイは今日、エレンにひどく腹が立っているのだ。

「、ひっ、ああ…ッ!」

 だらしなく開かれていた白い足を後ろから掴むと、軽く抱え上げる。その動作だけでエレンのなかにペニスの先端だけが張り傘の直前まで挿り込んだのを感じ、反射的につよく目を閉じれば、同時にエレンの口から喘ぎが零れ出た。一旦枷が外れればあとは容易い。間を置かずにリヴァイが腰を揺さぶれば、殺しきれなかったエレンの嬌声が上がる。

「っ……ぅ、あっ」

 強気な瞳が180度反転して潤んで正気を失ってゆくさまがひどくこころに痛くて甘い。ぎっぎっと生き物のように鳴くソファのスプリングが些か耳障りだったが、それを上回る、響き始めたエレンの声と先走りの水音が直接鼓膜に届くことはリヴァイの嗜虐心を煽り、燻り、自重などする気も起きずにリヴァイはエレンの心中を忖度しようとする。

「はっ、はっ、ああっ、や…っ、あぁ……っ」

 リヴァイの膝上を跨ぐ体勢で、その華奢な両腕はエレンの頭上、一纏めに拘束されている。未だにエレンの内を弄るのはリヴァイの先端だけだ。ぬちゅりぐちゅりとした卑猥な音はエレンの鼓膜をダイレクトに刺激し、激しくなった愛撫にただ泣き叫ぶことしか出来ずにいる。そんなエレンの揺らめく腰を悪戯に撫で、まっさらできれいな肩甲骨に触れる。そこから現れる翼を押さえ込むように、もしも生えたらすぐにでも、もぎ取ってしまえるように、執拗に撫でる。

「やっ! あ! ああっ、……やめて、くださ……兵長、……ひっ、ぁっやだ!」

 大いに焦らされエレンのくちびるから願いが零れ落ちていく。

「嫌だと? 嘘つけ」
「ひっ! あ、ああ…っ、も…ぃゃだぁ…っねが…、んんっぁっ!」

 がくがくと震える足、その太股を汚す液体といっしょに撫でる。こうなった子供は全身のあちらこちらが性感帯になっているため、どんな触れ方でも逐一感じてしまって、それが尚更、リヴァイの手のひらの上でだと感じれば脳内を甘い毒で犯される。顎を取り、エレンの蕩けきったハニーゴールドを真正面から見据える。涙で濡れたその瞳に映った自分の顔にリヴァイは甚く満足していた。

「強請り方なら、教えてやった筈だろう。何と言えば良いんだ?」
「ああ、あっ、ひぅ、え…ぇ…っ」
「おい、俺を見て言わねえとずっとこのままだぞ」
「い゙やぁっだ!」

 卑猥な水音と共に砕けた細い腰を支え、震えだした唇を小さく啄ばむ。この日リヴァイのほうから初めて与えられたくちびるへの口付けに、ほうっと息を吐いたエレンの蜂蜜色がリヴァイを見据える。

「っ……要らない、……っ…何にも、……俺には、兵長から貰うものなんかッ…何にも要らないっ…!」

 泣き声交じりのその声は、リヴァイが教えた強請り方とは真逆のものであったが、まァ良い、リヴァイは実に卑劣にも頷いてみせた。




 嵐を躰全体で受け止めたような抱かれ方だった。
 激しい挿出にがくがくとエレンの足は揺れ痙攣し、待ってと放つ言葉さえも呑み込むような濃厚な口付けを何度も何度も、それこそ酸欠になって正常な判断が困難に陥る程のキスをし合った。外された手枷の下、その皮膚が赤く染まった箇所を何度も舐められ甘噛みされる。それにさえも胸がきりきりと痛み、熱を受け入れた部位が男を締め付けるように悦んだ。涙は止め処なく溢れ零れ歪んだ視界に映る赤色が目に眩しい。いつも余裕綽々のリヴァイの表情が歪み、その額から汗が流れることにエレンの胸はいっぱいになる。満たされる熱、満たされた体躯、それでもこころはいつでも四方左方に、ふらふらと飛んでいく。フェイク同然のこの行為がエレンの何かを傷付けているのに、躰だけは快楽に流され、確かな熱に騙される。こんなにもエレンの胸中いっぱいにリヴァイと云う男の存在が広がり欠落部位を満たしているのに、リヴァイの口から出てくる愛だなんて安い営みはちくちくとエレンの心臓部に鋭い針を刺す。いっそのこと、鋭利な刃物なら良かったのに。致命傷を受けるくらい、ずたずたに引き裂いてくれたのなら、何もかもすべてに諦めもつくのに。

「…っ、るい、……ぁあっ、も…無理、…ぃ…っ」

 今は寝そべった体勢で居るリヴァイを見下ろしながらエレンは溢れ出る涙を止める術を探している。腰に添えられた手に自分の手を重ね、腰を振るう。ずくずくと奥まで挿ってくる熱に浮かされ、額から流れる汗がぽとりとリヴァイの腹部へ落ちる。

「ぁ、…くっ、も…ゃ…っ」
「てめえはいつも、嫌だと言うな?」

 細い腰を支えながらつよく腰を振るうと、のけぞる子供の痴態。露わになった白い首筋に噛み付けばエレンの息の根は止めてやれるだろうか、そんな考えがリヴァイの脳裏をよぎる。この行為が少なからず子供にとっての暴力となっていることをリヴァイはよくよく知っていた。

「おい、」
「ッ…あっ、く」

 腹筋を使いリヴァイが起き上がった拍子に、尚、深くなる体勢にエレンの瞳からまた涙が零れる。ぼろぼろと止める術を失った涙がとてもきれいだと思い、リヴァイはそれを舐め取った。

「エレン、なぜおまえは信じねえ?」
「…な、に? ……信じ、…ぁっ」

 ぼふん、質の良いソファの上に押し倒され、今度はリヴァイがエレンを見下した。子供の見開いた蜂蜜色が良く見えなくて、視界を邪魔する自分の前髪を片手で掻き上げる。ふう、と溜息を吐き、オールバックになった途端、リヴァイのネイビーブルーがいつもより鮮々しく見えて、エレンの胸が更に痛みを増してきゅんきゅんと高鳴った。どくどく、ばくばく、どくんどくん。もう心臓が限界を示すかのようなそんな音。どうか、どうか兵長には聴こえませんように。そうつよく願ってエレンがリヴァイの乱れたシャツを引き寄せ、胸許近くまで持って来て覆い隠す。

「エレン、」
「……、な、に…?」
「俺がおまえを愛していると、言ったら嗤うか?」

 近付いたネイビーブルーに自分の驚愕した顔が映される様が滑稽だ。狡い、狡い狡い狡い。狡い大人だリヴァイは。こんなにも胸をいっぱいいっぱいにして、心拍数を上げて涙を誘う音を簡単にかたちにする。卑怯に過ぎる、この痛い程高鳴るエレンの鼓動を、フェイクの言葉で治めようとする。フェイクの優しい熱で掻っ攫おうとする。

「信じ、ません…っ」
「どうすりゃあ信じる?」
「どうされたって、信じませんよ…っ! だって貴方は………狡い」

 ほんとうに狡い。行為に及んでいるときだけしか吐かないくせに。なのにリヴァイは求めてくる。同様のその言葉をエレンにも求め、その口から吐き出させようとする。リヴァイと同じフェイクの言葉を、抱きかかえられずに翻弄されるだけのエレンの想いを、言葉にさせようとする。下唇を噛みながら、リヴァイを睨んでそう言った。

「…そうだな、俺は狡い。だからおまえを代償にした。……エレンよ」
「………?」
「だがおまえだって嘘つきだろうが」
「!? ひっぁっ!」

 突然、抽挿を再開されたことで、おさまりかけていた熱を呼び戻され、エレンは声を露わにしてしまう。びくりと動いた脚、その内股をリヴァイの手がすーっと撫で、エレンの握り締めていたシャツを脱ぎ己も前を寛げると、それからエレンの胸に手を置いた。ばくん、ばくん、リヴァイの手のひらに伝わる鼓動があまりにもつらそうにおおきく鳴っていることが、こんなにも恨めしい。

「こんなに激しく鳴っているのにか」
「もうっ、さわっ、んないでっ…くださいよ!」

 ふれられた胸許が熱い。発熱しているかのようにそこだけ熱が集中しているような感覚。まるで心臓を焼き尽くされるかのような、そんな危うい感覚にエレンのくちびるがわなわなと震え上がる。知られた。リヴァイに、鼓動が伝わってしまった。

「…ふ、……ぅ、…え……っえ、」

 ふれられたエレンの心臓部位は熱く、ふれたリヴァイの手のひらは対照的に冷たかった。それが自分たちの熱の違いだと思ったら悲しくなる。耐え切れなくて熱に犯された瞳が溶けてしまいそうなくらい、エレンは泣いていた。声を出して、数年振りに泣きじゃくった。今より幼い頃、巨人に母を喰われたその日に、エレンはハンネスの胸のなかで大泣したことがある。そのときは何も知らず、ただただ愛しい母を亡くしたことに、その喪失感に耐え切れなく、切なさに侵食される前に感情を前面に押し出して泣きじゃくっていたが、それを続けても意味が無いと、仲間を喪う度に無言で声を殺して泣いてきた。昔とは違う今、同じくリヴァイの腕のなかにいようとも、あのときの無力感には程遠い。
 切なくて、苦しくて、悲しくて、それでもひどく、愛しくて。

「…エレン」
「ず、るいんですよ…、兵長は…っ…ぇく、…ぅー……狡い、狡い狡い狡い! も…っ、抜いてください!」

 冷えた手のひらに抱えた感情が凍らされそうだ。それが怖くて、それでもなかに埋め込まれた熱が熱くて、その熱に騙されそうになる。凍えさせられた気持ちごと、騙されてくださいと言わんばかりの熱に、冷えた手に、エレンを見下すリヴァイに、エレンはどうしてここまでと思う程に苛立った。しかしリヴァイは、リヴァイの胸許を力無く押し退ける、その華奢な腕を取り、無理矢理に組み敷いて律動を再開させるのだ。

「あ、あ、いや…っだ! ぃやだ、やだ…っ! ひ、ぅ…ううっ、く、」
「おまえは何にも理解っちゃいねえ…っ、」

 無理に絡めた指先に力を込め、リヴァイはエレンのその腕を取り自分の胸元へと導く。

「…ぁ、……っ」
「聴けよ、ほら、これでも解らねえとぬかすのか? これでも違うと言い続けるのか? これでも、……信じられねえのか」

 どくん、どくん、宛がった手のひらから伝わるつよいくらいの鼓動。その鼓動と合わせてエレンの心臓も高鳴る。何で、まさか。兵長。

「ひぅ、えっ、……ぇ、…ぃちょう、へいちょ、兵長っ」
「もう1度訊く。俺がおまえを、愛していると、言ったら、嗤うか?」

 ひどく甘い声色で囁かれたと同時に腰をつよく進められた。ぱたぱたと果てて散った熱がエレンの心中に広がりを見せる。熱い、そう思い呟いたら目の前のリヴァイがとても焦れったそうに、それでもどこか熱を含んだかの如くリヴァイが笑んだのを見てエレンは怒鳴った。

「兵長が誰を愛そうと俺には関係無い…! そんなことより俺はっ…今、貴方に、すっげえ腹が立ってるんですよ…っ!」
「気が合うな。俺もだ。俺も今おまえに滅茶苦茶腹が立っている。……だから部屋へ戻れと言ってやったんだ」

 どんなふうに蕩けているのか、とても顔が見たくて。リヴァイが衝動のままに、エレンの顎を掴んで無理矢理にこちらを向かせれば、快感と痛みで滲んだ蜂蜜色と目が合った。細切れに喘ぎを上げながらも、そのまなこはリヴァイを映し、歪んでいる。まるであたかも、睨まれているようにも、縋られて、いるようにも──見えて。どちらにせよ堪らずに、リヴァイは深く口付けた。
 
「んんっ…ん、ぅ、」

 馬鹿げているのだ。こんなものは。くちびるを喰われているようで、エレンは慄きを隠せない。侵入どころでは無い。これでは侵食だ。こうしてリヴァイに貪られる度に思う。馬鹿げているのだと。こんなものは愛憎劇どころか喜劇でさえ無いではないか。なの、に。抗えないことが悔しい。悔しくて腹立たしくて気持ちが悪く、て、それでも矢張り抗いきれずに。その事実は、ただ只管にエレンの矜持を完膚なきまでに打ちのめす。こんなふうに泣きたくて、ぬくもりが欲しくて、気が狂いそうになることがある。こんなふうにふたりきりで居るときだけのリヴァイの声を聞きたくて、どうしようもなくなることがある。こんなふうに突かれて悦がって、滅茶苦茶にされたくなることがある。いっそ何も考えず何も抵抗せずに、何もかもすべてをリヴァイへと委ねてしまいたくなることがある。こんなふうに行為や言葉を否定されて、恥も外聞も放り棄て、欲しがり、ねだり、求めてしまいたくなることがある。今まで知らなかったこんな爛れた欲求を、抑える術をエレンは露とも知らなかった。それなのに、その欲求が満たされる瞬間の快楽を、知ってしまった。教え込まれた。もう抵抗なんぞ、出来やしない。そんな自分が憎くて、気持ち悪くて、吐き気すら催す。そしてその度に、こんな未知だった快楽を与えてくるリヴァイへと、本気で殺意と憎悪が沸き立つ。教え込まれたと云えどいつだって、求めてしまうのは自分のほうなのだから。そうして相反する感情に、どうしていいか判らなくなる。判らなくて、また、苦しくなる。死にそうになる。総じて何もかも、リヴァイのせいで。

「あっ…あっ…あぁっ」

 入口に変えられた孔の奥を穿たれる度に目の前で火花が散るような錯覚に襲われる。リヴァイの与える悦楽はひどく甘くて、甘いばかりで胸焼けがしそうだ。きっと、野良猫の鳴き声も、愛情の振りをしたでたらめも、エレンには読めぬ分厚い辞書も、等しくくだらなくて、かけがえが無い。それらと比べ自分たちはどうだ。不毛な行為に不浄な劣情。頭がどうにかなってしまったのだろうか。と。もう、何度も何度も繰り返した自問自答。終わりは見えない。抜け出す術も無い。不毛で不浄であることが、普通なのか、異常なのか。リヴァイがおかしいのか、エレンがどうかしてしまっているのか。何の判断基準も持っていないエレンには、ほんとうに判らなかった。ただ必死に躍起になり、己を保つことで精一杯だ──保たれているのかも怪しい。縋りついて、抗って、宥められて、憎んで。その繰り返しなのだ。しかしその繰り返しのなか、確かに己の内側で、育っていく何かをエレンはいつも感じていた。もう目を逸らし気付かぬ振りを出来る段階は、疾うに過ぎている。それはエレンの公に捧げた筈の心臓に纏わりつき、締め付け、一向に緩む気配を見せない。秒事、どんどんと苦しくなっていく。息すら出来なくなる程に。思考すらまともに働かなくなる程に。この感覚が自分だけなのか、リヴァイにもあるのか。エレンは知りたかった。知りたくて、知りたくて、知りたくて堪らない。だがそれは幾ら考えようとも矢張りエレンには何も理解らないし、よもや尋ねる訳にもいかぬ。誰かに吐き出せるものでもない。だからただ、黙って耐える。只管に。確かなのは、何れにせよ、それを己のなかからは、もう決して消すことが出来ないと云う、事実だけだ。そして今日もまた、その得体の知れない何かに怯えながらも繰り返すのだろうと、エレンは歯噛みしつよく目を閉じた。散漫する意識がひとつふたつと消えてゆく。まるで花びらが散り風に乗りどこかへと去っていくようだった。そうして頭のなかが爆ぜて、閉じている筈の瞼の裏側が一面赤く染まり、波間を揺蕩い揺らぐランプの灯火が掻き消えたように意識は途絶え、何も考えられなくなるのだ。


 例えば──。
 ここからどう切り出し、あとから何を付け足せば、或いは付け足さなければ。リヴァイはエレンを誤魔化し通せるだろう。少なくとも何も理解っていないふりを、続けてくれるのだろうか。事実は、いつも不安になる程に平凡で、与えられなかったことを晒すのをあんなにも怯えていたと知られる恐怖。何も手に入れなかったのでは無いのだ。何も棄てられなかったのだ。ゆえに今ここでリヴァイはエレンを拾うのだ。手離すことも廃棄することも出来ぬから。だから思う。振り返るな、振り返るなと、終わりあるものは、終わりあるからこそ──いつも良きものに見えるもの。誤るな、誤るな、それはやがてかたちを変えるものだと。引きずられるな、引きずられるな、それは回復したらやがて飛び立って戻らないものだと。それでも良いか。自分にとってのエレンがそれでも良いかと、リヴァイはずっと誰かに尋ねたかった。出来ず幼い寝顔に慈しむ視線にて語り掛ける。どこかの誰かが見ていた夢の続きのように。リヴァイはエレンが思う程、軽々しく憂鬱なのでは無かった。そう反論したところで滑稽に映るだけだろうけれども。なので黙ってただそこにあろうとし、て、いつも失敗をする。身に余って凶暴になる。リヴァイでさえ無ければ、上手く他人のくちびるから零れ落ちて、どこかの出会わぬ子供の悪夢を、斬り裂くひかりにでもなるだろう。リヴァイにはもうずっと、そうとしか思えないのだ。決してそうだと告白はしないが。ヒトの命は丈夫に出来ていて、たった数日程度なら、寝ない食べない程度ではびくともしない。肌は張って瞳は昏く輝く。エレンの雄弁な双眸は語るのだ。膜1枚隔てた世界で、貴方だけは解剖を続けてくださいと、リヴァイへと。どうか今より未来を教えないで、と、リヴァイへと。


 かたん、と窓を開ける音と共に眩い陽のひかりが瞼に滲み、エレンは目を醒ました。自室の有る冷たい地下室とは違い、真っ白いシーツの波が起き抜けの視界には心地好い。けれどそれに甘えることも出来ずに、目を逸らすようにしてベッドに顔を埋める。あんなにも無茶な抱き方をしておいて、裸体のエレンの全身は隅々まできれいに清められており、まさかも何もここはリヴァイの寝室だ。きっと先程まで人がいたはずのそこには、もう疾うにぬくもりは残ってさえいない。その冷たい感触に今は逆に安堵を覚え、己の中に燻っている何かを吐き出すようにして、エレンは、ふ、と、息を吐く。しかし気を失ったのは自分のせいだとは思いはすれど、強烈な程の怒りと情けなさを覚え、歯噛みするに剴切する。セックスで抱き潰したのならばそのままエレンの自室にでも投げ込んでおいてくれたら良いものを。態々リヴァイの手で清めて、ふかふかしたベッドへと運ぶなど手間であろうに。どうしてこれ程優しくされねばならぬのだろうか。

「起きたか。珍しく随分と寝ていたな」
「……誰のせいだと思ってるんですか。半分以上は、兵長のせいですよね」

 時計を見上げれば、針は昼食にも遅い時間を指していた。陽は疾っくに昇りきり、太陽のやわらかなひかりが、無駄な物を何も置いていない寝室のフローリングを焼いている。緩慢な動きで、くるまっていたシーツから這い出てきたエレンは、その眩しさを見て不機嫌そうに眉を寄せながらベッドの端に座った。そしてそのまま昨夜の繰り返しのようにリヴァイを睨みあげる。リヴァイはリヴァイで無機質的な顔をして、今日はおまえは体調不良により休みだ、なぞと言い放つ始末。ベッドサイドテーブルには1人分の食事が用意されている。

「昼も過ぎて腹が減っているだろう。食え」
「……要りません」

 やがて窓際からベッドサイドへと戻ってきた足音がそう言うと、かすかな言葉のあと、エレンが黙り込んだ。小さく何度か咳き込むようにして喉を鳴らす。察して、リヴァイがトレンチから水差しを手に取りグラスに注いでやれば、流石にエレンもおとなしくそれを受け取り、グラスを傾けた。ごくり、ごくり、と白い喉が反らされ波打つ。そこには、判然と残っている、ゆうべリヴァイがつけた自身の歯型。それが視界に入り、リヴァイは思わず奥歯を噛み締めた。何のためかは理解らない。だが、その赤黒い鬱血痕だけで、胸中が掻き乱される。後悔、優越感、焦燥、快感、自嘲、眩暈。自分がした筈の行為、自分がつけた筈のその痣に。
 いつから、こんなにも。揺らぐようになってしまったのだろうか。最強の筈の己のすべてでエレンを囲い込んで、腕のなかへと落として、思い通りに動かして。それが、終着点だった筈だ。それで、満足をするつもりだった筈だ。まだ完璧では無いとは云え、今のふたりのかたちとしては、ほぼ、その理想に近い。エレンはもう、リヴァイに縋ることを覚えてしまった。家族愛や友愛では吐き出せぬ感情を委ね、甘やかされることを知ってしまった。それはリヴァイが手を出すまでまっさらだったエレンには、さぞかし甘美なものに思えたことだろう。加えてリヴァイは、それらを突き放しエレンが独りでは立てないように、少年のなかのいろんなつよさを手折ってきてもいた。ひとつひとつ丁寧に、ゆっくりと、言葉と躰をもって。ゆえに、それを振り切れるようなつよさが、今のエレンに有るとは到底思えなかった。昨夜のように、寄々、それが綻び、手痛い目に合うことも在るとは云え、もう今は終わりにしても構わない段階だ。飽きても、ゲームオーバーにしても、このままエレンを放り出しても。きっとそれでも暫くは、この死に急ぎの少年兵を、思い通りに動かせることだろう。
 エレンを、手放す。いつかは。そう遠くない未来に。
 しかし、そんな気はまるで起きない。それどころか、確実にリヴァイはこれ以上先の何かを、求め始めている。

「俺が食えと言ったら、食え」
「だから…要りませんってば」
「駄目だ。面倒臭え奴だな。無理矢理その口にパンを突っ込まれたくなけりゃあ食え」
「…兵長は俺を窒息させるおつもりですか」

 それが何なのか、己はエレンに対し、何をこれ以上求めているのか。何をしたいのか。何をされたいのか。もしかしたらすべてを認めて向き合って、素直に考えればすぐに答えに行き着くのだろうとは、リヴァイは思う。だがそれは、何よりも恐ろしい行為だ。己の深淵の1番醜い部分を認め、掬い上げ、白日の下に曝け出す。きっとそれはどろりと重く、手の隙間から零れ落ちてもくれないだろう。たったの1度でも掬ってしまえば最後、消えることは無い。膝を突き、こうべを垂れ、それらに塗れて生きていかなければならない。こんな子供の前で、その重さから、もう2度と、エレンには手を伸ばせないまま。有り体に謂って雁字搦めだ。理性を覆いつくし侵食する感情があるということを、リヴァイはエレンを抱いて初めて知った。何も情動を知らず真っ白だった子供に、醜悪で、けれど必然的で生理的なる感情を植え付け教え込んでいた筈の己が、逆に思い知らされてしまった。もう、後戻りも出来ない。けれど正しく、前に進むことはもっと出来ずに、立ち止まることも、勿論出来ないのだ。どうすれば良いのかが、今のリヴァイにはもう解らなかった。とんだ茶番だ、と思う程に。思い切り嫌々そうにスープを口に運ぶエレンの手を眺めて視界と口許が歪む。己が何を求めているのか。そんな最も重要なことから目を逸らしたまま、それでも手放せない。なぜか、など理解り切っている。エレンに縋られる心地好さを知ってしまったのだ。エレンを甘やかし行き場の無い感情の捌け口になれる気持ち良さを知ってしまった。それらが自分にだけ向けられているという、快感を、知ってしまった。リヴァイはもうそれに抗えない。振り切ることが出来そうに無い。これでは。すべてを囲い込まれ、もう逃がれられぬ程に縛り付けられているのは、まるで。この子供では無く、己なのでは無いのか。

「…何か考え事ですか」

 ふと、背後から声が掛かる。それで自分が数瞬ぼんやりとしていたことに気付いたリヴァイは、バツ悪く顔を上げ荒んだ心持ちで振り向いた。そこには気怠そうに、それでもリヴァイの命令に従ってゆっくりと食事を摂るエレンが、如何にも胡散臭そうにねめつけていた。

「いや、企て事だ」
「昼間っから不穏ですね。…別に構いませんけど。どーでも」
「……どうでもいいのか、おまえには」
「だって兵長ご自身のことなんでしょう? どうでもいいですよ。そりゃそうでしょう」
「、存外傷付くもんだな。エレン、おまえに言われると」
「嘘ばっかり」
「おまえもな。それより食が進んでねえぞ」
「…別に」
「残さず食え」
「…小姑ですか。うぜえので急かさないでください。朝方まで、殺されるかと思う程しつこく誰かさんが抱くから、食欲が無いんですよ」
「言うじゃねえか」

 自分で吐いた生意気な言葉に、エレンは自ら舌を打つ。だがそれは一瞬で、それ以後は表情にもその動作にも何の変化も無い。リヴァイはエレンのパンを1口千切り、もうぬるくなっているだろうスープを飲み込んだエレンに与えながら、施す餌付けに気を付けた。

「さっきも言ったが。今日は1日ここでゆっくりしていろ」
「…は? 地下室では無く?」
「不満か?」
「不満云々の問題では無くて……良いんですか、そんなてきとうで」

 不機嫌そうに顰められた眉の下、蜂蜜色の目がリヴァイを睨む。それを受け止めリヴァイは、俺も今日はここに居る、と告げた。

「まァ、あまり動きたくねえってのもある。手の怪我もあるしな」
「……怪我のことは俺には関係ねえってご自分で言いましたよね?」
「関係ねえ? そのわりには昨日、あんなに可愛らしく舐めてくれたじゃねえか」
「か…?」

 ぎろり、と一瞬で獰猛さが篭った蜂蜜色につよく睨まれ、リヴァイは、は、と肩を竦めた。ここであまり揶揄し過ぎるのは、得策では無い。リヴァイは態とエレンから背を向けている。けれどエレンが今どんな表情をしているかは、容易に想像が出来ていた。なのでゆっくりと傍に近寄ると、静かにエレンの名を呼びながら、そのやわい髪を梳いた。丁寧に指を通し、頭皮を軽く押さえ付けるようにして撫でてやれば、細い双肩が揺れる。

「…あの……あのですね、兵長…すごく食いづらいんですけど。やめて貰えますか、そうやってさわるの」

 食事を続けながらも発せられた、唾棄するような嫌悪感の溢れたエレンの声を、リヴァイは逃げも隠れも躱しもせずに受け止める。その嫌悪感がどこに対して向けられているのかなど考えずとも容易に感じる。それでもこの手を、子供は撥ね退けられないのだ。こんなふうに。リヴァイの他愛も無い言動に揺らぐまいとしていちいち揺らぐエレンを、自分の行為に逆らえない姿を見ている間だけは、リヴァイも、何も考えなくて済む。そうやって自分自身を、そして多感なるエレンを、騙し続けてゆける。だが、知っている。理解っているのだ、ほんとうは。勿論。こんな、醜くどうしようもない、己の欲に塗れただけの関係が、いつまでも続く筈が無いなんてことは。しかし今は、それが理解っていても、もうどこにも進めない。願わくば、ずっとこのままでいられたらなどと、吐気がする程にくだらない考えまで浮かんでしまう。

「おいエレン、許して欲しけりゃあ『ごめんなさい』と『愛しています』を100回言え」

 そんなもの。疾っくに精算されたことを蒸し返す。エレンは心底嫌そうに顔を顰め、苦虫を100匹程噛み締めたように口許を歪めた。

「…えー……別に許されたくも無いんですけど俺。性的虐待では無い懲罰なら謹んで受けます」
「性的虐待? 聞き捨てならねえ言い方をするんじゃねえよ。今のところは──おまえが可愛い間は、懲罰を課す理由がねえな」
「兵長って時々アホですよね」
「おまえが可愛いのが悪い」
「面白くないですそのジョークやめてください気持ち悪いです」
「馬鹿言え。俺は元々ジョークは言わねえ」
「貴方なんかに可愛がられるくらいなら、もう死んじまえば良いのでは無いのかと」
「誰が」
「俺が」
「じゃあ死ね」

 エレンは死ぬ。巨人と闘わずとも喰われずとも、処刑されずともばらばらに解剖されずとも──8年以内に必ず。それらがたぶん、今ここに存在するすべてであるのだ。変わらないでいると、変わってゆくことが解る。約束は裏切られる前に形状を変え、落日の映る川面に静かに沈んでいく。そして流れる。海は有ったが遠く源流は遥か、だから途中で気化して呪われる。有りきたりな言葉に有りきたりな動作、締めの顛末。

「俺ゆうべ言いましたよね? 兵長にすっげえ腹が立っているんだって」
「あんなに悦がっておいてまだ怒ってやがるのか。粘着質な男は嫌われるぞエレンよ」
「誰に」
「俺に」
「寧ろ本望ですけど。それ」
「命は大切にしろ」

 道すがら、何が起きようとも、なけなしの希望だとか冀望だとかと、呼ばれる手遅れなものは、容易く斬り棄てることが出来る筈だった。無意識的にでも無理矢理であっても、前へ進むためには怒りであれ巨悪であれ真実正しいことであれ、何でも構わない、些細さであれど理由が必要だ。エレンには圧倒的に時間が足りぬ。無意味に無駄に生き抜くため以外に、足掻くだけの時間は無いのだ。だから。独りきりを辞めるわけにはいかない。エレンは愚かで有っても真性の馬鹿では無いのだと最も傍で知っていたのに。リヴァイはこの少しあと、棄てた筈の己の考え通りに、とこしえ、一斉に潮が引く様に似て、まざまざとその脆弱さを、すべての脆弱さを、この上無き苦痛と虚無感と共に呆気なく、深々と思い知らされることとなる。
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