<概略>
雨上がり/死にたがりの子供と接するということ/リヴァ←エレに見せかけたリヴァ→←エレ/





   


(Gluck entsteht oft durch
 Aufmerksamkeit in kleinen Dingen,Ungluck oft durch
 Vernachlassigun kleiner Dinge.)

 ──幸福とは小さなことに気付くことによって起こり、不幸とは小さなことをおざなりにすることによって起こる──。
 ドイツの風刺画家、詩人でもあるヴィルヘルム・ ブッシュの言葉である。この言葉をもしもエレンが知っていたなら、彼はもう少しましな思春期を迎えられたに違いない。無知とは──罪である。

「どんなに仲間に恵まれていても、こうして、ヒトに迷惑を掛けて生きていても、どうしてでしょうね。俺は独りで生きている気がするんです」

 赤煉瓦に擦り付けた、ぼろぼろの花弁。雨に濡れて傷んだその薄紅を、ゆっくりと剥がしながらエレンは言う。それを咎めるリヴァイの、爪の切り揃えられた神経質そうな指はそれを摘んで、意味も無くじっと観察している。枯れていく茶色が、花弁を余計穢いものに、見せていた。

「誰も傍に居ないような気がする──居られない、が正解なのかも知れませんけれど」

 傍に居られないものたちを慈しむような眼で、エレンは自嘲う。また、どうせこの子供はヒトを傷付けてしまうことを恐れているのだ。自分のせいで傷付けてしまって、かわいそうだと、本気で思っているのだ。かわいそう。己をひどく、良くないもののように、思っているからそう言う。
 リヴァイは、エレンが自らを厭うときいつも──裏切られた気分になった。

「誰しも結局、ひとりで生きてんだ。おまえだけが特別じゃねえ」

 求めなかった返事に、エレンは、子供のように地団駄を踏みたい気持ちと、泣いてしまいたい気分で頭がぐらぐらする。鼻の奥が少し痛ん、で、有害物質が溶けたような匂いがした。

「兵長は。どういう、ときに、」

 そう思うんですか。
 いつも、思う。いつも、だ。リヴァイはそう言う。花弁をぺり、とふたつに破き捨てながら、こういうときも、と付け足して。捨てられた花弁は水を吸ったせいで、無惨な落ち方をした。なぜ拾ったのかとかを訊くことを、リヴァイは随分前から諦めている。エレンはいつだって、意味の無いことをして、気を紛らわせている。かたちにしてしまった言葉を誤魔化すようにそういうことを、する。

「偶に、絶望します」

 真っ黒く濡れた石畳に、雨が次々に染み込んでいた。通り雨だった。空はもう乾いた青さをしていて、石畳をひからせている。雨がやんだあとの晴れの世界は酷くて、眩しい。エレンは遮るように目を細めて、続ける。

「誰も居られない世界に」
「誰も居られねえならおまえも居ねえんじゃあねえのか」

 リヴァイの、真っ直ぐな黒髪に水滴が付いていた。それは、ひかりを受けて黒髪をきらきらとひからせる。
 俺が傍に居てやる。とは、馬鹿げた答えだったし、かと云って慰めが必要かと言えば、エレンに言えるような慰めの言葉をリヴァイは持ち合わせていなかった。下手な慰めが、何れだけこのアンバランスな子供の負担になり、ストレスになるのかを理解していた。1度、望まれてもいないのに慰めようとして、今や思い出せもしない程、安易な言葉をリヴァイはエレンの前で口にしたことが有る。そのときエレンは、にっこり、と、笑った。リヴァイ以外の人間に対して何度も見てきた横顔だった。つくられた顔。そうしてその顔で、そうですね、と言った。それは、本心とまったく逆の言葉で予め用意されたものでしか無かった。リヴァイを刺激しないために、或いは自己満足の結果を欲したリヴァイを満たすための。言葉。
 一方通行でやさしく無い言葉を通しエレンを傷付けたのだと、理解った。
 リヴァイは、もう2度とあのときのような気持ちの悪いエレンの顔を見たくなかった。だから、それを知るエレンは、かなしいまま、平気な声で、訊いた。

「兵長も、死にたくなったりしますか」

 どこへ向かっているのかも判らないで、リヴァイとエレンは歩いている。節ばったリヴァイの手はゆるくブレードのつかを握っていて、余分な力がどこにも入っていなかった。それに引き換えエレンはと云えばとても無防備で、けれど何にも油断していない。横目でリヴァイをちらりと見ては、少し嗤う。その表情を好きだと言ったところで、すまなそうにするだけなのだ。どうにも厄介なこの化け物の子供は。

「そんなこと考えたこともねえよ。生きてえと躍起になったこともねえがな」

 リヴァイの手がエレンの手首を掴む。冷たい手のひらだった。古い剣だこが幾つかかたくなっており、器用そうな、長い指をしていた。綺麗な手だと、エレンがじっと見ていたら、リヴァイは、腹が立つかと訊いてきた。何に? 何にですか。エレンには、脈略が無さすぎて解らない。

「他人にさわられることを、嫌いな奴はどこにでも居るじゃねえか。そうだな、特に、俺とかな」

 湿気で少々くたびれたスカーフを指して緩やかな波のように、リヴァイは話す。エレンにとってリヴァイは兵士長である以前に英雄であったので、皺の出来たスカーフに苦笑して見詰めてみる。エレンは不敬にも少し呆れていた。リヴァイは変なことを気にしている。

「…成る程。そうか」

 言ったあとに、そうかも知れぬと自嘲する。リヴァイは睫毛を伏せて小さく嗤う。そんな動作にエレンは安堵する。ただ、エレンが、リヴァイについてどんな言葉を口にしようともリヴァイには信じて貰えないので決して言わないが。兵長──。こんなふうにリヴァイを想っている人間が居ることを、リヴァイは少しも知ることは無いのだろう。エレンだって、リヴァイとキスやセックスをしたいとは少しも思わないけれど、こうしてリヴァイが嗤うときにどうしようもない悲しみが、愛おしく感じられることを、知ることは無いのだろう。
 泣きたくなる。
 突然、陽射しがやけにつよく頬を射した。どうしてだろうとエレンが思う前に、いつの間にかリヴァイの冷たい手は離されていて、エレンの手はリヴァイに掴まれていた位置に、浮いた状態のままになっていた。滑って転ぶんじゃあねえぞ、クソガキ、リヴァイはそう言った。団服を着たリヴァイの後ろ姿は、エレンの謂う絶望とやらを背負っていることが当然のような穏やかさだ。ゆっくりとした歩調。

「兵長。何で、そんな、」

 そんなことを、言ったんですか。主観なのか、それとも、もしかしたら自分が自分の感情だとか考え方だとか好みだとか思っているそれそのものが、誰かのつくり上げた類似品かも知れない。薄曇りの空の隙間から、青色のアクリルで塗りたくったかのような歪つな空が覗く。ゆるやかに吹く風が、雲を動かしているのだ。エレンと同じように空を眺めるリヴァイは思い出したように、ああ、と呟いた。

「今日は、入籍してきたんだと、ふたりで俺に態々会いに来やがった奴らがいてな」

 ──ふたりして心底、幸せそうだったな。

 この狡い大人はどうして、子供の知らない話ばかりを、特別なことのように話すのか。エレンはリヴァイが、自分と居るこの時間をどこかで特別なもののように話す姿など想像もつかないのだ。だから殊更、羨ましくなる。

「ふたりで絶対に独りにならねえんだ。明日どっちか片方が──或いは両方が、死んでもおかしくねえってのにな。そういうのが、少しだけ羨ましかったのかも知れねえ」

 そうして、どういうわけか困ったように笑むのだ。

「兵長は、泣きたくなったり、しませんか」

 やんでしまった雨の匂い。鼻がつんとした。ぬるい湿度が漂っている。雨がやむ静けさは、泣きたくなる気分とほんの少しばかり似ている。と、エレンは思っている。多少、考えた素振りを見せたリヴァイは、そんなもん疾うに忘れた、と嗤う。もうガキじゃあねえからな。おまえは? リヴァイがエレンを見る。

「どういうときに」

 泣きたくなるんだ。今度はリヴァイが尋ねる。エレンは言葉を知らず、ただ黙る。リヴァイには絶対に解らないものだと知っているので何も言わない。こうしてリヴァイの近くに居られることが、何れだけエレンにとって大事な時間かを、リヴァイはきっと知らない。何も知らない。元々ピースが足りていないのだから、それでエレンとリヴァイのふたりが完成されることなど有る筈が無かった。有る筈の無いことだと謂うことなら敢えて言おうとしなかったがいつも考えてはいた。けれど結局、ばらばらと崩れ落ちてしまったのだ。
 この想いは、いつまで続くのだろう。口にすることさえ幅かれる。浅はかに過ぎて。それでもまだ。

 リヴァイにだけ理解されたくて、リヴァイだけを理解してしまいたい、という、獰猛な獣のような、この想いは。

 いつまで。
 いつまで、続いていくのだろう。

「兵長」

 呼んではみたがついぞリヴァイからの返事は無かった。リヴァイはどこまでも歩いていく。エレンはそれに小走りで追いつく。つまりはもうそれだけで、良いのだろう。良かったのだ、安易に尋ねる権利は元より最初から、エレンには無かった。無関心を決め込むリヴァイに、伝えることなどもう、何も。それでもエレンは幼い子供のように声を掛けずにはおれない。返ってくるものが何も無くとも、この想いには関係が無いのだ。
 エレンと話すとき少し顎を上げ見上げてくれる。逆にエレンは、少し視線を下げて屈むように、して。そんなことさえエレンには、言葉に出来ぬ程、特別だった。いつだって。
 決して立ち止まらぬ死神のような背中にも、鷹のように自由に飛びまわるその雄々しき姿にも。なのにどこにもいかないで欲しいと望む我儘が顔を出す。リヴァイになら何をされても──例えばそれが何れ程酷で、何れ程エレンのやわらかなこころを傷付けてしまうとしてもだ。

 あァ、この人が、好きだ。

「…………兵長、」

 この人が。
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