<概略>
疑似恋愛/いつもより頭のおかしいエレン/に、邪魔されて困惑+うんざり兵長/殺伐/でもわりと平和かも知れない/
時系列はたぶん53話でエレンの巨人化練習を繰り返していたあたり(でも捏造です)。







   

 その名前をエレンは知らないが、花が咲いた枝は雪の重みに耐えられず撓った。ばさ、と雪のかたまりが落ちる音と共に、その下に健気に咲いていたものがいっしょに落下しただなどと誰が思おうか。こんな季節に花をつけるから悪いのか、花の咲く時期に異常気象によって積もる程雪が降るのが悪いのか。もう真夜中だと謂うのに、似つかわしく無い手元の書類ばかりを眺めていたリヴァイは、雪が落ちた気配で初めて顔を上げ、漸くネイビーブルーの瞳を細める。ベッドの上で、疾っくに睡眠をとるべき子供が寝そべり上体だけを起こしていて、目が合った。

「おい、こら。ガキは大人しく寝てなきゃならん時間だろう」
「だって、つかれたんですもん」
「あ? 疲れたって、寝ることにか? 実験のあとずっと寝っ放しだったからか」
「べつに。そういうわけではありませんけど…へいちょうにはわかりませんよ。それよりちゅうしませんか」
「するか馬鹿。おまえのことなんざ知ったことか。さっさと寝ろ。俺は忙しい」
「そうでしょうね。おれはこんなにあなたがすきで、ぜんぜんねむれないのに」

 いつもと然程変わらぬ口調で、しかしエレンは今すごく苛々している。そのことが一層リヴァイのストレスとなった。理由は不明だ。エレン自身、自分のことながらなぜこれ程苛立っているのかよくわからない。が、取り敢えずエレンは今、とてもエレンらしく無い激昂の仕方で、目の前の上官を困らせていた。ほんとうなら言いたくも無い言葉の数々が、何を切っ掛けにしたのだろうか──次々と勝手に口から飛び出るのだからどうしようもない。誰か助けてくれ、とエレンは思う。こんなことを口にする俺は絶対に俺じゃねえんだよ、と、すみません兵長、と。その馬鹿馬鹿しさにうんざりする。おそらくは有益な結果の1つも出せていない実験の繰り返しの日々が続いていて、その都度精密さを失っていくエレンの巨人化は、どうやら少し、元々大したことの無い残念な頭を、更に残念なものにして、悪く云うと頭の螺子がちょっと緩んでいる状態にまでエレンを落としているらしい。なぜならエレンは今現在まったく脳を通さず反射だけで喋っているようなものなのだ。脳がはっきりと働いていない、と言い換えるべきか。眠りたくない素振りで口でもそう言っておきながら、実のところほんとうは眠い。丸5日間も眠っていたのにまだ眠い。寝たい。それは口調はいつも通りと云えど、どこか呂律のまわっていないエレンの声からリヴァイにも存分に察することが出来た。
 けれども、だ。

「すきです。へいちょう。ちょうすきです。あいしてます。もうおれしんじゃいたいくらいです。すきすぎて。あ、まちがった。へいちょうのためならいくらでもしねます。おれ、なんでもしますよ。ちょうすき。ねえ、こんなにすきになれるってすげえとおもうんですけどどうしたらいいですか」

 エレンはずっとこの調子であるのだ。リヴァイは柄にもなく自分がこんな遅くまで書類仕事と格闘しているからかとおかしくなったエレンに正直かなり困っている。しかしそれは致し方無いことだろう。仮にエレンだって、リヴァイが突如こんなふうになれば大変困る。困り果てるし悩むだろう。どうしたんですか兵長、頭でも打ったんですか、兎に角ハンジさん呼んで来ます! とあわあわしつつ叫ぶ程度には。と、云うことはまさに今、リヴァイもこういうことを思っているわけで。医務室の消毒液の香りにさえ、あァもうほんとうに苛々する。

「…………ハンジを、」
「呼びにいく必要なんか無いですよ。だって俺正気だし平常ですもん。だいじょうぶですよ。平気です。元気です。全然」

 全然駄目だった。何なのだろう、ほんとうに。エレンは考えてみる。俺どうしちゃったんだろう。大丈夫? 駄目か。駄目だな。

「おい、おまえは何を言ってんだ」
「あァもう本気で大好きです。結婚しよ。俺ね、性転換して女になっても良いですよ。逆でも良いですけど」

 遮る。嫌な遮り方だった。何があった、と問うても無駄だ。エレンはきっと、何もなかった、と答える。救いの手があったか、と訊かれて、そんなものなかった、と答えるのと同じような素っ気なさで。リヴァイは訝しげにエレンを見る。手を休めるな。集中して仕事をしろ。と、己に言い聞かせながら。だがこの状況では無理だった。リヴァイはエレンのベッドサイドに椅子を置いて監視も兼ね仕事をしていた。お陰で互い、見たくもない顔がよく見える見える見える見える。

「ねえ兵長、もうほんとうにどうしたら良いんですか。これは何ですか。これが初恋? ってやつですか? 兵長が傍に居るとそれだけで超どきどきする。死にそうなくらい。心臓も破裂しそうです。責任取ってください」

 普段こんな台詞を言えと誰かに迫られたら、大笑するか完全に引きまくるかどちらかだろう。けれど今のエレンはそうでは無かった。完璧過ぎる無表情で、こんな失笑の言葉を呪いのように浴びせている。あァまったくもって気持ち悪い。巻き込まれているリヴァイはただ可哀相だった。しかしエレンは止まらない。

「クソガキ、こら、エレ」

 ン、までなど言わせてやらない。

「愛してます。恋ってすげえ。どうしてくれるんですか兵長。こんなの犯罪ですよ、もう。15のガキに何するんですか」
「な」
「でもまァ当人同士が愛し合っているなら犯罪も何も無いですよね。こう、なんて言えばいいんですか。俺、兵長を想っているだけで幸せなんです。いやだなァもう恥ずかしい。こんなこと言わせるなんて」
「に言って」
「結婚式は巨人を駆逐したあとになりますよね。でも俺そんな形式的なものになんて捕らわれませんよ。寂しいは寂しいですけど。だって障害は有れば有るだけ燃えるでしょう?」
「何言ってんだ。俺がおまえに何をした。冤罪だ全部」

 ちくしょう。もうネタ切れが来た。しかも切れ味はダブルだ。

「…………なんですか」
「そりゃあ俺の台詞だ」
「ああ、そう」

 沈黙が落ちる。どうやらエレンの本能は、喋ることをやめたらしい。相変わらずリヴァイは訝しげにエレンを見る。エレンはリヴァイを見ない。暫くするとリヴァイは仕事に戻った。再開されるペン先が紙に擦れる音を聞いて、エレンはやっと顔を上げた。

「……好きです」

 その一言でリヴァイは再び固まった。完全なるフリーズ。エレンはそれを良いことにまたもや愛のマシンガントークを繰り出す。

「ずっといっしょにいたい。俺、自分で云うのもアレですけど、たぶん結構使えるんじゃねえかと思うし。ねえ、どうですか? 例え調査兵団が失くなっても。兵長専属のお手伝いさん。兼、妻。便利ですよ」
「……なら、まずその仏頂面をやめろ」
「無理です」

 リヴァイは盛大に溜息をついた。だがエレンだってほんとうは、つきたかった。

「どうしちまったんだおまえは一体」

 問われても、寧ろエレン自身が自分に訊きたい。訊いてもよくわからないのだけれど。

「やっぱアレですか? 俺がガキだから無理なんですか? 兵長の守備範囲外? でも待ってください。よく考えたらあと10年も経てば俺丁度良い時期だし、兵長は老いてるし、色々お買い得ですよ。ちゃんと老後の面倒とかも見るし。だから安心して俺を嫁に」
「要らん」
「そこを何とか」
「……エレン」
「何ですか」
「熱でも」
「無いです。頗る健康。でも心配してくれてありがとうございます。どうしようすげえ嬉しい」

 ついぞリヴァイは小さな机に突っ伏した。エレンはリヴァイのつむじを見詰め倒す。顔が見えなくなってほんの少しだけ、苛々が遠のく。遠のいてやっと気が付く。あァ矢張り。このむかつき具合の原因を思案する。

「俺ね、別に本妻とかじゃなくても良いんです」
「……いい加減にしろよおまえ」
「愛人で良いし。2号でも3号でも。だから、」
「そんなに怖えのか、クソガキ」

 突っ伏しているせいでリヴァイの声はくぐもっている。いつもの威圧感も何もあったもんじゃないと云うのに、それなのにエレンは戯言をやめた。怖い? 何がだ。闘いだろうか、死ぬことだろうか。またも沈黙が落ちる。変な空気が辺りに漂う。リヴァイは何でもないように起きあがって仕事を再開した。なぜだろう、普段なら喜ばしいことの筈なのに、さっきは仕事しろよと強く思った筈なのに、気に入らない。虫の居所がわからずエレンは欲望のままに行動した。平たく謂うと今リヴァイが何やら書き込んでいる書類を腕を伸ばしてひったくった。これにはリヴァイも驚いたらしく、一瞬だけ動きを止める。しかしすぐに地を這う声が響き渡る。

「チッ、このクソガキ」
「もう俺の名前、クソガキで結構です」

 エレンは書類を離さない。リヴァイは勿論それを奪いに来る。

「破れちゃいますよ」
「返せ」
「やです」
「……何がそれ程気にくわねえんだ」

 何が? 何だろう。そんなことは、エレンにもわからなかった。

「エレンよ。それをこっちに寄越せ」
「ヒトにものを頼むときは」
「ふざけてんじゃねえぞ」
「まさか。真剣です」

 そうなのだ、このときエレンは、まさに真剣だった。新しく手に入った禁書を読んでいるときのように、アルミンから外の話を聞いていたときのように。真剣に。集中して。焦点を合わせ。リヴァイを見ていた──ただ、リヴァイだけを、見ていた。

「兵長と同い歳に生まれたかった」

 だから思わず本音が出た。いつもなら絶対にこんなことは言わないのにも拘わらずにだ。途端、リヴァイは虚をつかれたふうな顔をし、そしてそのまま硬直する。この小1時間にも満たぬ時間で何回めになるのだろう。そうさせているのはエレンのせいなのだが。ご苦労なことだ。リヴァイは視線で相手を押し倒せることが出来ると信じるかのように力をこめて睨むが、今夜のエレンはなかなか手強い。微笑を浮かべながら頑なに突っぱね、ついには自分自身意味不明な主張のほうを通してしまうのだった。そうなることをどこかでわかっていた。リヴァイはわかっていたのだ。なので本気では腹を立てることもせずベッド脇の椅子に腰を掛けている。長いコートの裾が冷たい床に垂れていた。

「花が」
「あ?」
「咲いていたんです。そこ。窓のところ」
「眺めていたのか。そりゃあ眠れねえわけだ」
「あれは冬には咲かない筈の花だった気がする」
「その情報はもう古い。雪が降ろうがあの桜は1年中咲く」
「さくら?」
「花の名前だ」
「別に名前なんかどうだって良かったんですけどね」

 何で花に限らずこの世界には名前が有るのだろうかと、エレンの苦笑を受けてもリヴァイの表情は変わらない。それでも蜂蜜色の瞳には何らかの感情が映って跳ね返ってきてしまうのか、拗ねるな、と諭すように言われる。

「桜。桜ね。俺の知識が1つ増えました」

 元々エレンは学の有るほうでは無いので、アップデートは慣れている。エレンは今のところ1番長い時期で1週間程目を覚まさない。今回は5日間なのでまだましな範囲だった。冬眠に入ったのかと思ったぞ。目覚めたエレンを気遣ってそう言えば、リヴァイは冗談を学んだのかと茶化される。

「おまえが目覚めねえと不安になる。エレン」

 唐突さにエレンは顔を上げる。ひっそり物思いに耽っていたかったことを、四六時中監視するリヴァイには見抜かれたのだ。

「ね。俺が死んだら、ちゃんと死亡記事に載るんでしょうかね」

 雪が、またどこかで落ちた。撓った枝の折れる音する。花は埋もれただろうか。次から次へと降ってくる、花びらより白い結晶の群れに覆われて。

「そんなこと知ってどうすんだ」
「知らない。たぶんどうもしない」

 エレンが首を横に振ると、猫っ毛の黒髪が揺れた。
 あァこの人が好きだ、とエレンが手を伸ばす。それだけでは届かないのでエレンはベッドの端まで躰を寄せた。自分のものよりおおきな手が無造作に猫っ毛を掻き混ぜるのを黙って受け入れる。気持ちが良い。もしかして俺は慰められているのだろうか? エレンは考える。知らない、と、云っているのに。

「おまえ、殺してやろうか」

 頭上から降ってきた言葉はエレンに対しあたたかな蜜のように甘かった。雪に垂れて黄金色に輝く。細い窪みは深度を増し、花もたどり着けない底辺へ行き着くだろう。それでも。

「意味が無い」

 エレンは首を小さく振る。

「おまえなら、そう言うだろうと思った」
「兵長は、俺を殺せるんですか」
「今、断ったのはどこのどいつだ」
「ただの質問です。嫌なら答えなくて良い」
「すごく嫌だが答えるなら、」
「ストップ。答えなくて良いです」

 リヴァイの手に額を押し返されてエレンは体勢を立て直した。少し寝癖のついたエレンの髪をそのままにリヴァイがじっと見詰めていると、エレンは咳を我慢する。腕を伸ばしてさすった背中は骨の形がよくわかり、そして如実にあたたかだった。

「あなたからのばした手は、俺に届かない。けれど俺がのばせばあなたに届く。ねえ、兵長」
「何が、言いたい」
「俺にもあなたを殺せるということですよ、兵長」

 無理だ、とさえ云わずリヴァイは嗤う。エレンが自分を殺さないことなど一笑に付すまでも無く明らかだった。だから。冗談だと受け止めた確証を伝える切っ掛けさえ見失い、黙って、頷きもしなかった。エレンの細い首を掴んでいた手を下ろし、リヴァイは立ち上がる。部屋に備え付けのポッドでレーションのインスタントスープに湯を注ぐとエレンの元へ持ち帰った。

「後ろから見ると死神みたいですよね、兵長って」

 減らず口をたたくエレンをリヴァイは無視する。元の椅子に腰を下ろすとスープが冷めるまで暫く自分でマグカップを持った。

「エレンよ。おまえは、兵器であると同時に知性巨人のサンプルだ」
「だから大事にされていることくらい知ってます」
「俺たちのような生き物がいる限り、無くなりはしねえだろうな。変化はしても」

 生き物──エレンには自らをそう分類することに些かの抵抗があった。生き物を定義するには、寿命の問題が不可欠だったからだ。今、自分の頭には従来の人類が受け継いできた知識や情報程度のものならばおさまってはいる。だが与えられる情報には限りがあるが、組み合わせの自由は残されている。現にエレンと話をしていない間、エレンが目覚めぬ長い間、リヴァイはさまざまな組み合わせを考えてはそこに何か真新しいものを見出そうとした。
 腹を探り合う意味は無いのにエレンには幾度か嘘を吐いた。死体のように眠るエレンの姿を、見詰める度に。見詰め続けたどころか、ふれたことさえあるのだ。金色の瞳を持つ者はエレン以外にも存在するが、エレン程に理想的な双眸はなかなか見られたものではなかった。兵器を進化させるだけさせて出来るだけ多くの巨人を──人間を殺すことにかけて尽力を惜しまなかった調査兵団が、エレンのような人体そのものの兵器化に人類の希望と名付け踏み切ったのは、小さな勘違いに似ていた。ヒトがヒトで失くなる瞬間。しかしまだまだ未熟と云えど犠牲者の数は闘う度に抑えることが出来た。ヒトで有ってヒトで無い生き物。拒む程気になるものを、棄てると失うは別物だ。拾うように産むように、手放し忘れたとして。得られるものが絶望だけとは限らない。罪の文字さえ知らないのなら、ヒトは犬にだって赦される。わからないのは、生死の返上方法。受け継がれて消えていく、主人の影。おそらくエレンはリヴァイを残していくだろう。大戦は数百年前のことのようでもあるし、数世紀も先のことのようでもある。確かなことは、リヴァイはエレンに遺されるだろうと云うことだ。巨人に成る人間。実際それと同様の生き物として理解されている地域が未だ残存することを否めない。寧ろ正しく把握している場合のほうがはるかに少ない。100年前以降に産まれた人間は歴史を刷新する。事実よりも辻褄が求められた。1つの国家が、この世界が、独りの個人の考えのように時として不道徳と呼ばれるようなことを実行するだなんて、生者は、知り得ながらにして、誰も知りたくはないのだ。

「へいちょう」

 リヴァイが顔を上げるとエレンがリヴァイのネイビーブルーをじっと見詰めていた。

「見付けることだ、エレン。俺以外でも、おまえのことを、止めてくれる相手を」
「…何にもならない」

 エレンの舌を火傷させない程度に冷めたスープを、リヴァイはエレンに手渡した。何にもならなかったことなんぞ何もなかった。スープを受け取るなりエレンは口に含んで、3度めにリヴァイに口移す。

「あなたと対等になりたい」

 矢張り嫌な種類の沈黙が部屋に満ちた。でも、開き直るどころか開ききっているエレンは、後悔など微塵もしなかった。

「冗談を言ってるんじゃないんです。ほんとうに。そりゃあ今は、俺はまだまだ青二才って呼ばれてるような年齢ですけれど」
「信じられんな」
「でもそう思っているんですよ。このスープ、苦くないですか」
「寝過ぎで舌がイカレてやがるんだろ」
「……兵長。そんなことばかり言っていると、あなたを殺してやらないから」

 半分より少なくなったマグカップをサイドテーブルに置いてエレンは次のごちそうを引き寄せるみたいにリヴァイの首に手をかけた。バランスを崩したリヴァイはエレンの脚の上に上半身を倒す。

「いい。俺は兵長以外を探し出せる」

 咄嗟の返し言葉で云ったものの、エレンにまだ自信は無い。わかっているのかいないのか、リヴァイは平気で、わかった、と頷く。エレンにはそれが我慢ならない。しかし、我慢ならない自分を曝け出すことはそれ以上に我慢ならないことだった。エレンは手を伸ばして、固まっているリヴァイの右手を、同じく右手で、がっちりと捕まえた。無理矢理、握手の形をつくる。

「どうですか。駄目?」

 まずい、そろそろ限界だ。眠い。エレンは仕方なく奪った資料を机に戻した。リヴァイはまだ呆然とエレンを見ている。自ら手を、ぱ、と離して、エレンは咲った。横になれば、リヴァイに掛け布団をかけられたらしいことがわかった。心地良い重みとあたたかさが腹の辺りに加わる。また、少しだけ髪をさわられたが、すぐにその手は引っ込む。どうして酷くしてくれないんですか。文句を言ってやろうと思ったが、睡魔には勝てない。

「……兵長。俺は俺を、信用、出来ない」
「出来ねえのは、やり方を知らないだけだ。単純にただそれだけだ。おまえが自己を忘れても、俺が覚えておいてやる」
「自分で出来ます」

 リヴァイの目の前で無防備にエレンはうたかたの眠りに落ちる、その1歩手前で、わかっていた。次に目覚める頃に花は散っているだろう。白銀が降りしきり、もう見つけられなくするだろう。1歩分の手前で、それは絶対にわかっていた。けれどエレンは抗えない。目を軽くつむれば髪を撫でてくるリヴァイの手つきの不器用な内に眠りに落ちてしまうことを、それが次の目覚めと同時に絶望の記憶に擦り替わる感触と成り得るだろうことを際引いても、眠りに落ちてしまうことを。もしやこれは永遠かも知れないと、信じ続けることだけを。ただ、ただ。
 これは、死なない者の消えていく祈り。これから2000年かけて再生を繰り返すだろう、幻影の原型、その光景だ。そうして漸く、ペン先が奏でる音は再開された。若さは何の保証でもないがすべての理由になる。この途方も無さはエレンだけの手に負えるものではない。100年後よりも明後日のほうが見えない。棄てた不可能は何1つない。誰が悪いでもないのに何かを責めたくて仕方がない夜。鋭いものの握り方がわからないと自身のなかを流るる血を憎む。明確な使命のもとに動き続ける粒子の健全性を羨むからなのか。大人ってものは。大人ってものは、老成した子供が思いたがる程、難解ではない。理解され得た途端、無理解からのみ生じ得た、尊い憂鬱は失われてしまうのだ。
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