<概略>
アルエレ/未来捏造/
珍しく報われている(と私は思っている)結末。と、その先。
相変わらずグレーミン。






   


 古びたドアは重い音を立て、背後で閉まった。僕はいつしかおおきな音を厭うようになってしまったきみに小声で謝ってから、持っていた穢く血腥い鞄をなるべく静かに置いて、胎児のような、丸まった姿勢でベッドに寝転んでいるきみに寄り添い訊いてみる。

「エレン? 生きてる?」

 すると瞑られていた瞼がぴくりと震えた。もしも僕がきみのよく知るアルミン・アルレルトでは無くてどこかの殺人鬼だったらどうするつもりなのだろう、まったくエレンらしく無い。こんなに無防備で生きていて。

「……俺いま全力で死んでるところだから」
「そうなの?」

 つまり邪魔しないでくれ、という意思表示。丸まったエレンの手のなかで丸められた手紙が挟まっていて、僕はそれに差出人の名前も住所も、相手の名前も住所も、何も無いことを識っている。その手の甲側の、丁度親指の付け根と人差し指の付け根あたりの皮膚が驚く程薄いこと。青く浮いた血管が見える。僕の手がそれをなぞるように乗る。ねえ、もう誰にも捧げなくて良い心臓はそれなりに正しい速度で必要な分だけ脈動しているのだというそれだけの話。だからそれはそれで良いんだよ、って、教えてあげたい僕の前にはいつも親切心の欠落が障壁として立ちはだかる。瞼を開けないきみの横顔に手で触れて、おはよう、と言ってみたけれど、きみは疲れたような溜息をつくだけでその顔を僕のほうへ向けてすらくれないのだ。ただ振りほどかれないというのを良いことに僕から一方的に繋いだ手のなか、まだ僅かに見えている、きみの握り締めた最後の光を。ゆっくりと、きみから、唇を離していく。こんなにも近いのに僕にはきみの蜂蜜のような瞳の色を見ることも出来ない。

「…どう、だった?」
「何が?」
「おまえよりも体力も何もかも落ちて鶏ガラ以下になってる俺なんかにキスして、どうなんだよ。勃つのかよ。抱き心地だって悪いだろ。…何か楽しいのか?」
「んんとね、楽しくは……無いかな。きみの貧血が治らないうちはどこもかしこも冷たいよ」
「ひ、んけつ」
「うん。だって今日もまた何も食べてない」
「食ったよ、少しだけだけど…リンゴ」
「うん。頑張ったね。でも殆どが水分だし、あとは糖分とビタミンくらいしか摂れていないから貧血には効かないよね」
「………んだよ、めんどくせえ」
「まァ、ゆっくりで良いよ」
「ほんとうにやばくなったらおまえが何とかするから?」
「うん。ほんとうにやばくなる前に僕が何とかするよ」

 だから、別にまだゆっくりで良いよ。もう誰にも捧げなくて良い心臓はそれなりに正しい速度で必要な分だけ脈動していて、酸素が酸素の速度で巡っているように。今きみがそのきれいな目を開けても光なんか無くて――正確には、きみが光だと信じていた光なんか無くて。剥き出しの外の世界は荒れた地がどこまでも、誰にもわからない程だだっ広く、今のところわかっている限りではただ途方も果ても無く、ひたすらに続いているだけなのだ。最早ここは世界の終わり。光と翳りの境目は霞んでいるから見付けられない(空に掛かる虹はいつまであったの?)。僕らがあれ程までに夢に見ていた壁外に有るべき景色は嘘っぱちで、それは誰かの見た幻だったのだろうか、何かの蜃気楼だったのだろうか、荒地の砂だったのだろうか、カゲロウのようなものだったのだろうか、廃棄されるべき塵だったのだろうか、それとも単純に僕の目が、こころが、穢れているせいできれいなものが見えなくなったのかもしれない。
 いつかいっしょに、からい塩水で出来ている蒼い海を見ようね。
 冒険に危険は付き物だから気を付けて、炎を噴く山を識ろう。
 寒さで凍り付き、それでも陽の下できらきら光るという氷の大地に寝そべり、その冷たさに鼻の頭を赤くして笑い合おう。
 それらはあまりにも懐かしい夢物語。それらはあまりにも子供染みた妄想。それらは数えきれぬ程に居た空想家の拙い筆先が描いた、世界の終わり。やがてひとつずつ忘れていく。大切で仕方無かった僕らの、巨人と戦うなどという悪夢のような現実の先にある筈だった、壁外に羨望を抱き続けた夢の結末。ときにはそれがすべてだとさえ信じていたもの。何もかも壊れたときに、確かなものなど数える程しか無かったのだと漸く気が付いた。他の誰に馬鹿にされても、覚えていようとしたこと。知りたいと願ってもいないのに、知らされ覚えさせられたこと。すべてを必死になって忘れていく。記憶は褪せる。虹の色をも道連れにして。そう、生きてゆくために。そこにたいした意味など無いのだ。生まれる前からインプットされていた命令のようなものに従うために。けれどそのことが、悪いことだと言えるのだろうか? 何もかもを間違いだと、呼べるのだろうか? ほんとうのことを知りたいというわけでも無い。

「アルミン。なァ、気付いたか?」

 何かを思い出したふうにきみが言う。僕はきみの横顔に自分の顔を近付けて、何かを確認し瞬きをして、きみを見た。うん、とても上手に出来た、と思う。

「気付くって、何に?」

 肌の色が違う。髪の色も違う。瞳の色も違う。確率的な考え方をするなら同郷出身でも無ければ、超大型巨人が来ようが来るまいがたぶん普通に暮らしていて僕らが出逢うことも無かったかもしれない。幼馴染みでも無ければああして触れることも赦されなかった。きみなんか知らなくても僕は生きていた。もう今は解体されてしまったけれど調査兵団に入ることも無かったかも知れない。仮にそうであったとして、も、おそらく僕は生きてきただろうに、どうしてきみを知ってしまってから毎日きみを喪うことにこんなにも怯えながら生きているのだろうね。
 空が青くない、ってことにだよ。と、エレンは言った。知っているよ、つい今しがたも見てきたところだ。と、僕は言った。
 それはほんとうのことである。今日だって僕は終えてからこの部屋に来たのだ。日課、と云うより今やそれは僕の命。僕の呼吸。そういうものになっている。今日も僕は銀色のジョウロを片手に、荒地に水をそそいだ。随分雨の降らない土地なので。かと云って常に太陽が照っている程、攻撃的なわけでも無い。まるで天気など有って無いような不思議な空が、僕の頭上にあくまでも広がっていた。ジョウロのなかに満ちているものはたぶん、ただの水じゃあ無い。あれは誰かの涙だ。僕のものかも知れないし、もしかしたらエレン、きみのものかも知れない。誰かの、拭われることの無い涙だ。拭われることが無いから、足さなくとも空っぽになることは無くて、それどころか、態々足すことなどしないのに溢れ、零れることすらあった。だから僕は重くなったそのジョウロを持って毎朝、荒地に水をそそぐことを欠かさない。人間は毎日していることを突然やめることがなかなか難しい生き物だ。今まで出来ていた当たり前のことが出来なくなる――それだけで何が何だかわからなくなる。簡単に。
 ずっとただの子供のままでいられたのなら良かった。そしたら僕はひとりで本を読むのだ。きみなんか知らずに。きみの微熱なんか、声なんか、その寂しいきれいな横顔なんか、蜂蜜色の瞳なんか、何も、何も知らずに。知らない、何も知らない。知らない、は、要らない、と似過ぎている。まさかこれが『愛』だと云うのであれば、人間は何て哀しい生き物なのだろうか。『初めから何も無かった』ということ。信じていたすべてのことが、ただ単に辻褄を合わせるための仮説だった。僕らの夢は有りもしない虚構により積み上げられていた。人間だから。人間の思惑によって。寸分の測定ミスも無いよう、慎重に。それがある日『傲慢』に変わったのだ。それで、そのせいで世界の歯車は狂い始めた。

「……きみは、もう、怖くないの」

 僕が口にすると卑怯になってしまうばかりの偽善的な台詞だ、と思った。だってきみは、誰よりも純粋なままの人間だから。だけど、それだから僕は口にした。夢から、光から、裏切られたきみを、僕にはどうあっても救ってあげられないから。嘘つき、と、責められるくらいなら僕にだって出来るけれど、でも僕は理解っていた。きみはそんなことを絶対にしない。狡い僕はいつだって、計れるリスクしか犯さなかった。

「怖くないのかって…? え、と、何が? それって、何かを怖がること前提の話だよな」

 きみはまだ僕の問いに対する答えを考えている。そんなつもりで訊いたわけじゃあ無いのに。いつだってそうだ。きみはどんな戯言にも真剣に答えようとする。その視線はいつも、いつも、ここでは有り得ない、遠いどこかを眺めていたね。僕の戯言を疑うことなど1度も無かった。

 ひとつだけあれば良いのだ、それより他は何を失っても良い、なんて、うっかり誰かを護りたくて堪らなくなる悲しい曲を奏でるピアニストはきっと芸術家じゃあ無く、怖がりなのだろうね。

 いつのことだっただろうか、そう僕が言ったとき、じゃあずっと傍に居れば良いじゃねえか、と、きみは言った。大好きで、陳腐なぬいぐるみやおもちゃなんかを宝物のように抱き締めて眠る子供の顔をしていた。これは自分のものだ、自分だけのものだと、他の誰でも無く自分自身に言い聞かせそう認めさせておくかのように、ぎゅう、とつよく抱き締めて、眠るよう、に。他の誰かが何気無く、悪意無く、それでも触れるだけで穢されてゆくような気持ちだった。目覚めれば、決して誰の目にも触れさせないように宝箱にしまって、ひとりきりでそれを開けては優越感に浸る。まるきり恥知らずで、甘えたの子供。

「何で?」

 首を傾げるきみは幾分幼く見えるからその仕種を見るのが好きだった。

「だってさ。その、失う、かもしれない、何か、が。そもそも自分のものかどうかなんてわからないのに」
「……え、ううん?」
「なのにそうやってすべてを逐一確かめながら生きるのはとても疲れることだよ。失う前に、手に入れられないのかもしれないのに、そうやって、それは自分のものだって、僕だけのものだって、ひとつずつ確かめていくのは、疲れる」
「悪い。よくわかんねえ…から、ちょっと待ってくれよ。考えるからさ」

 僕の腕にそっと触れる。優しい指。無意識のうちに血管が動くのを指の腹でつついては、すげえ、と少しだけ驚きながら、たのしそうに笑った。
 うつくしい、という言葉はきっと、こういう人間のことを言うのだろうな。きみを見てはそう思った。

「じゃあさ」
「なあに」
「俺が言えば良いんだよ、たぶん。おまえが泣いちまったらそれを拭うためだけに今、俺はここでおまえの傍で、居るんだよって」
「…エレン、実は今ちょっとだけ寂しいんでしょ」
「わかんねえ。そうかもしれない、し、そうじゃあ無い、のかも、しれない」

 誰もがきみを憎み、畏れ、嘲い、愛さずにいられない。寂しいなんて言ってさ、ほんとうはもう失うものさえ無いくせにね。僕たち。

「きみがずっと、ずっと僕の傍に居てくれたら良い」

 それだけでもう他には何も要らない。蒼い海も炎を噴く山も凍り付いてきらきら光るという氷の大地も。幼いばかりで何も知らずにいられた夢の何もかも。

「は? 居るよ。要らない、って言われねえうちは」
「そんなこと僕から言うわけ無いよね。わかっているんだろう?」
「たぶんな」

 きみは、即ち、彼だった。ここには彼はもう居ない。寂しいので、きみ、と呼ぶことにしたのは、彼が僕の傍から完全に居なくなってしまったからだよ。消えてしまった。雨と太陽の無くなった世界で、彼は花のように枯れて、散ってしまった。僕よりずっと男らしく勇ましい彼だったのに、笑える程に、小さな花がよく似合った。彼の傍が僕の居場所だった。蜂蜜のような、光に透かせば金色に光るきれいなきれいな花だった。生きることを誇るようにいつだって咲いていたのはまだそう遠く無い日で、でも、もうここには居ないのだ。彼は。枯れてしまったのだった。散ってしまったのだった。子供のままの僕らで笑っていられた日も、耐えきれず嗚咽を漏らした日も、自分に嘘をついた日も、ずっと傍に居たのに。ここに居たのに。嘘で良いから居て欲しかった。僕は残されたきみのなかに彼を咲かせるために水をそそぐ。誰かの涙を借りて。ほんとうは何もかもが無意味だと理解っているのに、縋りつくように繰り返す、そればかり、ジョウロ遊び。ほんとうは何でも良かった。自分の手で大切にできるものが欲しかったんだろう? その手で誰かを、あの、たがえた世界を、救ってみたかったんだろう? あの頃人間からも味方からも憎まれながら、彼は確かにそれを望んだ。僕は従い、エレン・イェーガーの戦術価値を説く役を演じた。人間、でいても、巨人、であっても、どちらのエレンも変わらぬ血の通う肉の塊。僕にはそれで良かった。それでバランスが保てているのなら。エレンを愛することは誰にとってもきっと、欠けている部分を埋めるだけの作業だった。だから誰も傷ついていないのだ、エレン以外は。何もおかしくは無い。エレンは、彼は、きみは、まったくひとつも、おかしくは無かった。
 エレン、
 エレン、
 エレン、エレン、エレン、エレン、
 幾度その名前を呼んでも返事のひとつも戻らなかったとき、僕らの世界は終わったのだ。
 水遣りは、水溜まりしか生まないことを僕はきちんと識っていた。
 我慢が出来ずにジョウロを空に投げ棄ててきたよ。少しして、からんからん、と、ジョウロが足許で転がった。拾い上げると、不思議だね、また涙でジョウロが満ちていく。俯いた。足許に咲くきみを、花が咲くように笑うきみを僕は夢見ていた。
 誰かの涙が空に散り、まるで雨のよう、荒地に水をそそぐ。僕は顔をあげる。きみや、僕や、誰かの涙が、止んだら漸く、それらは虹となるのだろう。
 あれはね、いつかの、きみだ。きれいなのに直ぐに消えてしまう、儚さがうつくしかった。ジョウロは最初から軽かったのだ。代わりに瞳から体温を含んだ水が滴り、流れて、頬を濡らしていく。僕は前を向く。頼り無い、足を、それでも何とか1歩、踏み出して、きみの居た筈の場所から離れた。水溜まりには新しい芽が出始める。生きることを誇るように。それはいつかのきみの、うしろ姿のように。

「……初めから何も無かっただなんて、誰が決めたんだろう。エレン、きみはその目で確かめたの」

 けれどもどうしても通じ合えないものがまだ足許に散っている。器用なふりをしようとして気取った指から零れた。抱き締めたときの体温は疑えない筈だった。ほんとうに触れ合えば独りきりのときの冷たさは忘れられない。僕は横顔では無く、まだ寝転んだままのきみの向こう側を覗き込む。閉じられていた筈の瞼があいていた。でもこうして見詰め合ってみたところでわからない。それは、懸命に伝えようと訴えなければ、わからないのだ。

「おかしい。きみは立派に人間じゃあ無いか。もう巨人にもなれない。エレン、僕が教えないといけないなんて、ほんとうにおかしなことだよ。ねえ、こういうときはどういうふうに触ったら良いの? どうすれば、きみが。そうやって毎日毎日死んでいるみたいに生きている、きみが。安心出来るの。教えてよ。何も無いことが怖いことだなんて、今この瞬間に泣かないほうが良いだなんて、いつから信じているの? どこの誰が決めたの。――きみを、こんな、に、不自由に、して、」

 もう誰にも捧げなくて良い心臓はそれなりに正しい速度で必要な分だけ脈動していて酸素が酸素の速度で巡っているように、例えばそれなら、僕らを裏切った夢は裏切ったのでは無くてゆっくりと夢の速度で、きみが永遠に喪失したと思っている光は喪失したのでは無くてゆっくりと光の早さで、進んでいるだけだったりするかも知れないだろう。真偽ならどうでも良いのだ。ほんとうは。それだけなんだよ。だから、きっと。

「ゆっくりで良いから、ねえエレン、巨人の居ない世界で生きる理由を捜してよ」
「ああしろこうしろってそんなのばっかりだな、アルミンは。飽きた」
「きみこそ聞き分けの無いことばっかり」
「……まだ何をすればいい」

 それは問いでは無い。何をすればもう2度として失望しないで済むのか、とか。要はそういうことだった。

「まず何か少しずつでも食べて。それが生きる方法のひとつだよ。それから僕とどこかへ行こう?」
「どこかって、どこへだよ」
「どこでも良いよ。どこかはどこかだ」

 暫くどころか随分と長い時間、全力で死にっ放しだったきみは、やっと朝がきたから目覚めた子供のように自然に寝返りをうち小さく伸びをする。

「巨人を駆逐する以外何もしたくない」
「――もう居ないんだよ。巨人、なんてものは」

 或いは初めから。

「探せば1匹くらい居るかもしれねえじゃん。いきなりここに現れて襲いに来るかもしれねえじゃん」
「そんなことされたら立体起動装置もブレードもガスも何も持たない丸腰で食べられるだけだよ、僕らが」
「大丈夫だ、アルミン。丸腰だろうと1匹くらい何とでもしてやるよ」
「じゃあ、ちゃんと、食べてよ」
「巨人を駆逐する以外何もしたくない」
「もう……」

 蜂蜜色の瞳よりも白目の青さのほうが気にかかる。僕はエレンの躰が物凄い速度で、それこそ光の早さで過去へ遡っていってしまって、ほんとうに幼い少年に戻る瞬間を目の当たりにしても、その白目の色合いだけは変わらないと思う、それはコンパスの軸みたいに。花が枯れて散り落ちても枯れない根のように、もう何れ程色を加えていってもそれ以上変化しないその撫で心地の好い髪色のように。振り返る余裕も無く斜め前の立て鏡でふたりの位置を眺めてみる。バルコニーと呼べる程立派では無いけれど、開け放しておいたおおきな窓から外へ出れば、その向こうには絶望があって、そして更にその向こう側には、何も無い。草花も木もろくに育たない荒地のなか、虫の鳴声がしている。かつてのある日、幼かった僕は博識ぶって言ったのだっけ。確かエレンの興味を引きたくて。

「7日を短いと思うのは、人間が7日で死ぬ生き物じゃあ無いからだよ」

 虫の命は儚いよね、と、物憂げな表情で語ってみせたら当時のきみはぽかんとして、そうなのか、とだけ言った。そうだ、思い出した。何も書かれていないまま誰にも何も訴えない便箋を1枚、どこからか拾ってきたきみが、飛ばすわけでも無いのに丁寧に夢中な瞳で紙飛行機を折っているときだった。僕は何度か尋ねようとした。飛ばさないのに何でつくるの。紙飛行機は飛ばすためにつくるものじゃあ無いの? でも尋ねられなかった。僕らはいつも同じ場所に座り込んで、いつも、誰とも重ならない、見たことも無い景色を眺めていた。今ならわかるよ、きっとエレンにも僕に尋ねようとして尋ねられなかったことがあったのだと。だったら、アルミン、おまえは何で生きているんだよ。今ならわかるよ。同じだったのだ。生きて努力して何かを成し遂げることも、ただ惰性で生きて何にも打ち込まず何も成し遂げられないということを成し遂げるなんてことも。総じて同じなのだ。あのときの幼いエレン、いつも隣に居た。驚くべきはエレンの体格の成長ぶりや彼の巨人化能力よりも寧ろ、僕の体格の成長の無さっぷりだった。違う骨格、違う肉付き、すべてが当たり前に違う人間の持ち物で、だから僕はそれに触りたいと思うし触られたいとも思う、し、それは手じゃあ無くて手以外でも良い。感じたい。今の僕ならばそれを踵で踏み付けられるだろう。痩せ細ったきみの蒼白い躰を蹴りあげられるだろう。それくらいなら出来るだろう。それなのに、僕はまだ手紙を奪えないのだ。

「何してきたんだ、アルミンおまえ。少し鉄の匂いがする。これは血だな」

 上半身だけを起こしたきみを抱き締めたら言い当てられて、僕は少しだけ考えたあと、自由の象徴をね、と返した。

「もっと自由にしてきただけだよ」
「それって、」
「人に飼われていない自由な生き物のことだよ」
「おまえは怪我とかしてねえんだな?」
「してないよ。返り血は拭ってきた筈だけれど、まだ匂う?」
「いや? そんなには……」

 うん、ときみは考えるふりをして言った。

「そうだなァ…今は俺も、誰にも飼われちゃいねえわけだし、ついでに自由にしちゃってくんねえかな」

 実際巨人は殆どが殲滅されたけれど、でもほんとうに1匹足りとも残さずきれいさっぱり居なくなったわけでは無い。駆逐し尽くされたわけでは無い。ただアレらが元々人間だったのだと、それで遠く、遠くの人里より充分に離れたところに残存するものは襲いかかってこないうちは放っておこうと。調査兵団が解体されたその流れをきみにだけは誰も教えない。箝口令が出ている。誰もが、もう終わって欲しい、と望む戦いが、エレン・イェーガーが存在する、というだけでいつまでも終わらないからだ。僕は何も知らないふりをする。きみは何も気付いていないふりをする。

「きみは自由だろう? もう地下室生活を強いられることも無くなったし」
「いや、だから、そういう意味じゃねえよ。おまえに殺された何かになりたいな、って」

 やめて。やめてくれよ。そういうリアルな嘘をつくのは。何でそんなことを言うんだよ。まるで僕にならば何をされても良いだなんて顔で願い、乞うのは。やめてやめてやめて、今の僕はしようとさえ思えば今のきみにほんとうに何だって出来てしまうのだ。きみは僕のバッグを勝手に漁り、出した立体起動装置を床に置いて、その佇まいを、まるで、妄想のなかの出来事のように薄笑みすら浮かべ眺めている。それに付着しているものは誰の血だ? 誰。いいや、きみとは違う、自由な巨人の血。きみのように不自由な生き物の血では無い。いつもそう。いつもそう。僕らは合理的な方法を知っているのだ。きみが巨人化能力を持っていたあの頃だって、きみを虐めていた数多の人間をどうにかしてしまえる程も僕は強く無く、何より臆病だった。そしてそれは生まれつきだから治しようが無い。けれど今更になり僕は出来るのだ。方法を知ってしまったから。手入れもまだしていない立体起動装置に血飛沫が飛散している、真新しい緋。それは誰の血だ? 誰。いいや、きみとは違う、誰よりも自由な生き物の血だ。たがえた領域と非領域。聖域と非聖域。誰もそんなものには構わない。存在するのかしないのかわからないどこかの神さま(そんな名称さえ既に奇跡に等しいだろう)が、もしかすると目を逸らした瞬間の世界、片隅で惨事が起これば皮肉にも幸運にも生命を賜ったこの手が。そして僕は返り血を少しだけ浴びる。もう怖くない。だって生きているんだもの。哀しくなったりもしない。だって生きているんだもの。生きる、ということ、それより怖くて哀しいことなど無い。生きている限り死ねない、それより永遠に不変のルールなど無い。
 エレン、
 エレン、
 エレン、 エレン、エレン、エレン、エレン、
 彼が居ない世界できみを呼ぶよ。それしか覚えられなかった単語のように。貧困の土地で同世代の誰かが飢えようとも、余ったパンは廃棄される。床に落ちた肉は棄てられる。食べ物も富も流れていかない。愛なんて、もっと届かない。何と憐れなのだろうと同情する顔、理解してあげるよと上から目線の微笑みと、そう宣言することで崇高さを保って、完全なる優越と『自分で無くて良かった』という醜い安堵感に鼻の下までどっぷり浸るために流される、そんなものばかりが平和の日々だ。正しく並んだ文章のなかにスラングを見い出す。巨人の肉は美味しいのだろうか、調理次第で食糧に成り得るのかそんなことを考える研究者たちが存在する。右と左で入れ替わる善悪。タブーとモラル。伸びた前髪がきみのきれいな瞳を隠す。巨人化能力を持つ少年兵の姿をした、真実の英雄は死んだ。少なくとも彼はもう居ない。代わりに広場に建てられた英雄のブロンズ像は、エレンには勿論、リヴァイ兵士長にもエルヴィン団長にも全然似ていない、どこの誰かもわからない、どこにでも居るような顔をした、架空の人物を象って、見慣れた自由の翼のエンブレムがはためいているマントだけがきちんと本物として彫られていた。だがそれもそのうち風化し、傷めば撤去されるのだろう。皆して気持ちの悪い愛に満ちている。愛? 愛? 愛が何? それが何? 理解り合うことって何? それで、何。誰にならば、きみを変化させる彼を救えた? 彼は誰からも救われること無く、きみも誰からも救われること無く。憎しみと疑問ばかりの戦い。すべては終わった? ほら、世界は欺瞞で溢れている。愛では無く、理解でも無く。それが、現実、なのだ。なんて。広場に善人を立たせて、悪人に銃を構えさせ、そうだ今この瞬間この世界にいるすべての人間たちと人間だったものたち、一昨日街に行くときに道端で擦れ違った脚の悪いおじいさんを、見ず知らずのその家族を、皆々ずらりと並べて、それはさぞ壮大な眺めであるだろうが僕は不可思議を死ぬまで思考しようと、解明出来ないだろう。

「なぜ、つくるの」

 どいつもこいつも、誰も彼もだ。答えられない者に悪人の銃弾は容赦無く放たれてしまえば良い。人間は脆弱で身勝手で、そこで僕は知るだろう。7日を短いと思うのは、人間が7日で死ねる生き物では無いからだ。
 エレン、
 エレン、
 エレン、エレン、エレン、エレン、エレン、
 例え何も返され無くとも僕は呼ぶ。だから博識ぶって誤解を解かない僕の隣で、丁寧に夢を乗せて飛ばすための紙飛行機を折っていてよ。きみの手のなかで丸められたままずっとそこに握られている手紙は誰へと宛てたものだろう。それすら僕にはわからない。なぜなら僕は受け取らないからだ。そんなものは、見るつもりも無ければ読むつもりも無い。

「――エレン」
「んー?」
「死なないでよ。…お願いだから」
「何で」
「だって僕が疑われてしまう。殺人罪で捕まるなんて嫌だよ」
「なあアルミン、どんな感じだ」
「どんなって?」
「死ぬかもしれない、それって、どんな感じだったっけ」

 最前線で僕よりずっと多くの死を見て、僕よりずっと『死』に近いところに居たきみがそれを訊くのか、と思えば何だか可笑しかった。

「そうだなあ…。うん。あァ僕って生きているんだなあ、って、思うよ」
「え。それだけ? それって怖いの?」
「そうでも無いかな。大家さんが家賃の催促に来るときのほうが何倍も怖いよ」
「それは払えよ」
「無いものは無いって、何度説明しようとわかって貰えないんだよ? 理解力が無い人間が1番怖いよ」
「ふ、はは、」

 時折きみが笑うとき、僕はもう、今ここで何でも良いから刃物を借りて僕の頸動脈にでもぶち込んでしまおう、と思ってしまうのだ。けれどエレンのことだから自分のフルーツナイフなんて僕には貸してくれないだろうし、それに、たかだか、それくらいのことじゃあ、

「思惑通りには死ねない、と、思うけどね」

 どうも浅い。

「おまえの嘘はわかりづらいんだよ」
「嘘じゃあ無いよ。ねえエレン、これからも生きてよ」

 えー、と駄々を捏ねる。幼い頃のように。壁外へ夢を馳せて瞳をきらきらさせていた頃のように。

「えー、じゃ、無くて。我儘言わないでよ。もう僕ら、子供じゃあ無いんだよ」

 僕は立ち上がるとバッグを引き寄せ、窓枠を掴んで空を仰いだ。誰も居る筈の無いそこから誰かの声が聞こえてくるような気がする。

「エレン、僕は待ったよ。もう充分な程に」

 返事を求め小声で呟く。

「悪かったな」

 ほらやっぱり、空の向こう側からだ。

「ほんとうのきみはどこにいるの。偽物なら要らないよ」
「空になんか居ねえよ。勝手に死んだ奴扱いすんな。居るだろ俺は、おまえのすぐ近くに。ほら、こっち来いよ」
「見えないよ」
「ここに居るんだから、見えるだろ」

 ここに居るんだから。ずっとおまえの隣に居るんだから。

 それはまるで太陽の言い分だと思った。愛だの愛だの、愛だの愛だのはどうにも僕にはわからないけれど、でも、光が巡るように僕のすぐ隣を漂って、或いは開け放たれたままの窓から飛んで出てゆく紙飛行機を眺めながら、僕は、僕は出逢ったばかりの頃から変わらずに、他の誰よりも軽薄にきみを愛しているのだと思う。それはとても寂しいことに、初恋と呼ぶにはあんまりな程、諦めに瓜二つなのだけれど。

「はやく俺を自由にしろよ」

 きみの腕が、回想していたせいでぼんやりしていた僕の腰にまわされる。飼い主を独り占めしたい犬のように躰を縮めて訴えている。

「しろ。なあ、アルミン。してよ」

 その手のひらはいつの間にか僕の手のひらより頼り無くなってしまっていて、ほんとうに何も掴めなかったのか、と泣きたくなる。ほんとうに、何も。何ひとつとして。欠片さえも。

「なあ。俺を、してよ」

 鏡越しに見ても状況は真逆にもならない。だってエレンは相変わらず巨人を駆逐する以外何もしたくなくて、僕は相変わらず臆病者なのだ。目を覆いたくなる程の。赤い綿、赤いガーゼ、赤いシーツ、赤い手のひら、その手のままで白い紙飛行機を折って。きみの手が僕の首を触っていく、僕の手がきみの頬を触っていく。穢されていく。そして、いく。そのまま呼吸を止めて、顔を寄せあい、額を突き合わせ、ねえまだ生きている? って、確認し合って、死んでいるから邪魔するなよな、って、使い古したくだらない返事で何度でも応答して、でも結局生還して、死なないでいる僕ら。きみと僕、今日もまた。もう誰にも捧げなくて良い心臓はそれなりに正しい速度で必要な分だけ脈動し酸素は酸素の速度で巡り、きみが漸く飛ばした紙飛行機は、紙飛行機の速度で飛ぶ。欠片のなか、何とか希望を見付けられる目を取り戻そうと必死で、ふたりはふたりの早さを保ちながら、死なずにいくのだ。今日だって。
 ひとつずつで良い。意味を与えていこう。名前をつけていこう。そしていつかきみを、きみだけの名前で呼んでみたい。初めから何も与えられていなかったのだとしても。最期には何ひとつ残らないのだとしても。僕が呼んだように、きみが息づいていけば良い。そういうふうに世界が、形造られてゆけば良い。それが僕の望みなのだ。僕たち人間が犯した領域への言い訳。神さまになりたかったのだろう他人によって用意されていた、世界の終わり。きみに触れられるとき僕は震えていただろうか。きみは僕なんかより余程つよい人間なのだと誰より僕が1番識っているくせにね。この緊張がきみに伝わらなければ良い。きみは僕のあたたかな体温だけを感じていてくれたなら良い。どうして、なんて愚問も甚だしい僕らはふたりだから落ち着くのだ。そうして安心出来るのだ。けれどそれはもしかしたらおかしなことだったのかも知れない。きみの告げた通り、ほんとうに、おかしなこと。僕らは幼い頃から夢の果てを見てばかりで妄想の世界を手にしたくて、だからきっと他人より少しだけ頭がおかしい。そう、これはおかしなことだよ、きみに答えを求めることも、きみに教えられようとすることも。全部が。

「エレン。きみはさ、そんなにも僕を泣かせたいの?」
「結論から言うとたぶんそうなんじゃねえの、と思うこともある」

 有るけれど無いからわからない。
 曇りガラス越しの光だった。大小様々の斑が横切る。散らばった不安を忘れたふりをしたきみが、隣に居る僕を見詰めるので僕はとても意地悪く笑った。

「へえ。言うね。きみの夢をつくったのは、僕だよ? つまり、」
「つまり?」
「きみの感情を構成するものの殆どを僕がつくったんだよ。怨んでいいよ、憎んでいいよ、罵ったって、いい」

 嘘だらけの世界のなかで僕は砕け散った夢の破片を集めよう。ここが世界の始まりになるように。まだ何も間違いで無く、何も正しくは無いと云える荒地に在るうちに。きみに触って、よくわからない愛を口にして、息をしていこう。そういうふうに、妄想だけがただ続いていくように。終わってしまった世界の真実でもう1度何かを紡ぐ行為。誰も予想しなかった結末のあとで、もう1度何かと、きみは僕と、初めから始めたら良い。分別をわきまえない幼い子供へと還れば良いのだ。幾度でも。

「ほら、アルミン、」

 そう言ってさ、いつだって僕の手を引いてくれるのだ。用意したよ、と、きみは言う。

「なあに」

 不思議そうに首を傾げるきみはうつくしく、同時に幾分幼く見えるからその仕種を見るのが好きだ、

「おまえに必要な世界」
「きみが僕を好きだって言って隣で居てくれるならもう何だって良いよ」
「すきだよ」

 ずっと? ねえ、エレン。ずっと?

「は? 居るよ。要らない、って、おまえから言われねえうちは、」

 僕は笑った。きみを誰より理解していながら誰よりきみを傷付け続けてきたのは僕だ。
 ねえエレン、きみが咲うと僕は嬉しい。
 アルミン、と名を呼ばれて返事をしようとしたけれどそんな隙さえくれずに僅か、不安を残している僕の唇に、そっと軽くキスをする、あまりにもこの荒れた場所にそぐわない可愛らしい口吻に、いたずらに成功した子供のような顔をしてエレンが咲って目許を緩ませていた。

「僕らを阻むものはいつだってきれいだね」
「阻むもの? 阻まれた覚えがねえんだけどそんなにたくさんあったっけ?」
「僕にはあった」

 いつも、あった。
 涙や、雨や、花や、虹。それからエレン、きみの、言葉にはしなかっただけでいつでもその瞳が語る死の匂い、さよならの笑み。
 今はもう、無い。
 世界の終わりはもう見たから。ちっぽけで巨大な我儘を満足させるための、幼い子供の遊びをしたい。きみと僕を、今度こそ裏切らない夢の妄想を、指を絡めて手を繋ぐところから始まる、世界。目が眩む程目映い光、新たな世界はおそらく決して、もう僕らを阻まない。




補足:壁外にて
幼い頃からエレンとアルミンが夢見ていた、禁書に書かれていた世界は無かった。壁外には荒れ地しか無かった。のでそこに建てられたらしき家に間借りしているふたり。燃え尽き症候群状態エレン。と、うんざりアルミン。
『きみ』は、勿論エレンのこと。
『彼』は、壁外を夢見て〜巨人殲滅のためにエレンゲリオンになってまで戦いに明け暮れていたエレンのこと。
ミカサとか他の104期生を始めとする進撃キャラ皆どこ行った、とかは考えちゃ駄目です。私も考えていません。『世界よ終われ全人類を巻き添えに』とリンクした話にするつもりで書いて…アレ?人称が違う、ということに後で気付きました。馬鹿じゃね?(佐藤が)
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