<概略>
現実でも夢のなかでも色覚異常な兵長/摂食障害エレン/モノクロームの世界/殺伐/無意味な不幸/






   

 馬鹿言え、俺は元々結構喋る。と自称しつつ実際は、自分から無駄話を振ることをあまり好まずに、舌打ち同様、ハンジに対し口にする言葉は大抵にして、煩え、黙れ、とお喋りの片鱗も見せぬリヴァイが、最近ずっと夢を見るんだが、などと言いだしたので、ハンジは驚愕せざるを得なかった。夢? 夢ってどっちの夢? 就寝時の夢? それとも将来の? ──好奇心の赴くままに捲し立ててしまったそれらに返されたものはいつもと代わり映えしない、冷めた視線と溜息だった。

「馬鹿かおまえ。三十路過ぎたおっさんに将来の夢だのと確認の必要があってたまるか。就寝時の夢に決まってんだろクソメガネ」
「良かったァ…ついにリヴァイがトチ狂ったのかと一瞬ビビッちゃうところだったよ」

 曰く、夢のなかでリヴァイはまだ鮮やかなままの視界で夢を見ており、けれど、最近になり、その夢のなかの世界において、認識出来る色というものが僅かずつ、当初はリヴァイ自身ですら気付かなかった程ささやかに、日毎夜毎にひとつずつ、ひとつずつ、色減していってしまっている。と云うのである。現実にはそんなことは有り得ない。色を何色かと認識すると云うのはつまり、人間の視細胞の吸収スペクトルにより決まっていて、三原色である、赤、青、緑、の何れか、或いはそれらの複数が要素として減退することは有っても、何かひとつの色が視界から消えてしまう、なぞと謂うことは起こり得るものでは無い。ただ、リヴァイが言うには、夢のなかでもそれが起こる、という話だった。夢のなかの世界にて、ふと気が付いてみれば血の色を含む幾つかの色を除いたそれ以外がすっかりモノクロームになってしまった現実の視細胞を抱えたリヴァイが、そういう状態である己を無理無く受け入れるためにそんな不思議な夢を見るのか、それとも、もっと他の理由があるのか、勿論だがハンジにも誰にもわからない話だ。当事者であるリヴァイにさえどうすることも出来ぬのであろうから──ゆえに、彼は自らハンジに話を持ち掛けたのだろう。
 医者は、現実での色覚異常のせいだろうとしか言えません、とあまりに簡単に、簡潔的に述べた。ハンジは研究者としての傍ら医療行為についても知識が有り経験も有るが、それだけで、云ってしまえば専門的な医師ではない。兵団内にも一応のところ医療班は在るのだがそこに配属されている班員とて取り立てて医学に特化している程でも無くあくまで兵士としての戦闘が本分であるからして、責任者を除けば必要最低限の応急措置を他の兵士らに比べ措置経験が豊富と謂う程度、責任者すらどんぐりの背比べだ。第一、蘇生措置や応急措置──外傷の手当てならば訓練兵時に誰もが一通り学んでいる。つまり現在のリヴァイのそれは、外傷如何の問題では無いのであった。

「そんなことが起こり得るのか?」

 大事を取り内地の専門医に罹ることとなったリヴァイが向き合い座っているその目の前で、専門の医者がどう説明すべきか、と言いたげな顔をしていた。その直ぐ後ろで共に話を聞いていたハンジは突っ立ったまま、疑問を口にしたリヴァイの背を黙って見ている。勿論だがリヴァイがこういう事態に陥ったらしいその日から、多少であろうと医学に覚えのある兵士たちが揃えられ、素人にも可能な限りはありとあらゆる文献に、ありとあらゆる手段を併せ、調べた。だが、先天的なものであろうと後天的なものであろうと、赤系統の色しか判別出来なくなると謂うのならばまだしも、赤色を含め、他にも幾つかの色だけしか認識出来なくなる、ということなど有り得ない。医者はリヴァイの問いに、尤もな疑問点だとでも云わんばかりに頷きながら、幾度もの検査結果から、医療に準じた予測をも含めた幾つもの考え得る可能性をみっちり書き込んであるカルテを睨む。

「本来ならば有り得ません。しかし──こうして、リヴァイ兵士長殿に、実際に有り得てしまっている以上は、絶対に有り得ないことだとは言えなくなりました」
「……要は俺が患者第1号だと」
「はい。分類としては、1型色覚の1種。ただ、その原因のほうは……外科的要因のみで起こり得たとはあまりに考え難い」

 医者は、専門医として、こんな台詞を患者に告げざるを得ないことは屈辱以外のなにものでも無い、ように、苦々しく続けた。

「原因として考えられるもののひとつは、精神的なものでしょう、としか……」

 貴様の優秀な医師としてのプライドなんざどうでも良いから兎に角元々正常に認識していた状態へ戻せ、今すぐにだ、とでも完全な八つ当たりを今にも言い出しそうなリヴァイが口をひらく前に慌ててハンジが、わかりました、引き続き調査を願います、と似合いもしない口調を用いてまで横槍を入れる。

「……リヴァイ」

 言外に、駄目だよ、と訴えられリヴァイは不快げに息をついた。

「仕方ねえ。帰るしか無さそうだ」
「兵士長殿……」

 解明するどころかまるで治療法が見当たらぬ事実に最も困ったように、申し訳無さを滲ませて、誰より情けない声を漏らしたのは第1号の患者本人では無く医師だった。ここでまだ、必ず近々解明します、と気休めにも口頭ですら約束をしかねること。余程厄介な事例らしいとそれだけ理解したリヴァイはふいと視線を外し、帰るぞ、とハンジを促した。ハンジもそれを追う。ハンジが困惑しているのは、リヴァイの現状について、というのも無論あるが、それよりも、当事者であるリヴァイでは無く彼の異変を知るエレンが、聞き分けの無い幼い子供のようにリヴァイが目覚めるより前から──目覚めた今も、摂食障害に陥っているからであるということを、リヴァイのみならずハンジの知るところでもあったので、ゆえにハンジは余計に何も言えなかった。
 リヴァイの身に降り掛かった事の発端は、実験中に意識を失い崖から落下したエレンを庇い、代わってリヴァイが岩肌で頭をしたたかに打ったことからだった。人類最強兵士と呼ばれていようとも後頭部の皮膚がずる剥けになる程出血し、その失血の度合いと衝撃により人間らしくも気絶したリヴァイが、数時間後に呆気無く目を覚ましたときにはもう既に、リヴァイの両眼の視細胞は白と黒の判別しか出来なくなっていた。鮮々しい血の色を除き。だがおそらくそれは、ほんとうにただの切っ掛けにしか過ぎず、神経科だの脳外科だのを専門としている医師に罹らずとも、原因は精神面にあるのだろうとリヴァイ本人は勿論ハンジやエルヴィンには見当が付いていた。そしてこれは、その原因要素を取り除かぬ限り治らない。散々に巨人のうなじを削ぎ、討伐と言えば聞こえは良いが只管に巨人を殺し続けてきたリヴァイが、巨人とは本人の意思に関係無くも無理矢理巨人化させられた憐れなる人間であった、と知ってからずっと口にせずとも不調を抱え込んでいたその真実によって、それでも最早、今更立ち止まり殺戮をやめられる筈も無いままにヒトを斬り、ヒトと知っていながら斬り続け、生じる迷いに赦されるべき正当な行為であるのだと思えるわけも、当然無かった。

「藪医者ばっかりだ」

 信じられない、とふたつの目玉をぎらつかせ、リヴァイの検査結果と医者の見解の報告を終えたハンジの前で、エレンは憤っていた。カップを傾け紅茶を啜っていたリヴァイは誰より靜かに、涼やかに顔色を変えない。

「別に、今まで通りに生活するのにも、闘うにしても、何らかの問題があるわけじゃねえんだ。支障が無いなら構わんだろう」
「っ……構いますよ! 兵長の目は俺の、せいで!」

 当事者である筈のリヴァイがあまりにも冷静に、且ついっそのんびりと呼んでも差し支え無い口調でそう言うので、エレンはつい声を荒げてしまっていた。す、とリヴァイの視線がエレンを見据える。エレンにとっては果てしなく悔しいことに、リヴァイはじっくりと、殆ど辛抱強く、子供に言い聞かせるかの如くエレンを窘めようとした。

「じゃあ何か問題になるようなことが有るか? エレンよ」
「問題? 問題だらけでしょう、何で兵長は」
「そうか」

 いっそのことこのまま口論に発展させてしまえたなら幾らか救いもあろうが、そうか、と、そう穏やかに頷かれてしまえばエレンも一瞬口篭るしか出来ない。唐突に色と云う色を失った当事者が、何を不便に思い何には然程の不満を感じていないのか、初めから色覚を持たない者のそれとは明らかに違うと云う認識にしか考えが及ばぬのだ。

「別に腕をもがれたわけでもねえんだ。目も、赤と金色と翡翠だけは見えている。だったら、何か問題が生じるまではこれまで通りに過ごしてりゃあ良いだろう」

 流石に俺も、困ることがあったらこんなにも落ち着いてねえよ。とリヴァイは現実世界での色を失ってから幾度も同じことを言った。それは別段、エレンを気遣ってやっているわけでも無く己を責めるエレンへの優しさや配慮でも無くほんとうに何でも無くて、たかが色の判別が出来ぬことなぞ平気だと本心から思っているのだと。なのでエルヴィンとハンジ、エレンしかこの事実を知らされていない。他の兵士たちの士気に拘るほうがずっと不味いからであるのだと。それこそ平気なわけないじゃあ無いのか、とエレンは思う。ほんとうにすべてが『平気』であるのであればそもそも最初から、こんなことにはならなかった筈だ。しかしリヴァイに怪我をさせた張本人──下手を打ったのは俺だけだ、とリヴァイは言うが──であるエレンから、そんなことを提言出来るわけも無く、エレンは、完全にリヴァイのつよさに甘えるかたちでリヴァイの主張を受け入れざるを得なかった。
 そんななかリヴァイが、夢の話をし始めたのは、こういうことになって直ぐのことだった。

「色が、ついていた」
「…え」
「起きている間は未だモノクロームに赤と金色と翡翠だけだが、昨夜見た夢には、見えていた頃の記憶か、たくさんの色があった」

 と云うのはつまりそのまま、色のついた夢、と云うことだ。

「なっ、何色ですか?」

 起き抜けの地下室のベッドの上で身を乗り出し、過ぎて、エレンは転げ落ちかける。のを、リヴァイは仕方無く静止してやる。

「そう慌てるな。……そうだな、確か…巨大樹や草花や空なんかには、はっきりと色がついていた。あとは何だったか……」

 ベッドの上で半身だけを支えられた状態のエレンに、リヴァイはつらつらと幾つかの色の名を並べ始め、唖然としたエレンが自力で座り直すまで、延々と挙げ連ね、それから、ふと言葉を切るとそこでエレンの瞳を覗き込み、

「それで、あとは一面の青だった」

 と、言った。もうそれだけで充分な程に、エレンはリヴァイの優しさに頚動脈を絞め殺されそうな気分になる。

「おい、何をひでえ面してやがる。エレンよ」
「…………元々こういう顔です」
「所詮、夢の話だ」

 何しろ俺はおまえの話でしか海ってもんを知らねえんだからな。そう言って、リヴァイはエレンの瞼に軽くキスを落とす。こんなことは望んでいないと、言えぬ己がエレンは腹立たしかった。

「……何で、」
「あ?」
「何で貴方は兵士長なんかしているんですか」

 唐突に言ったエレンに、リヴァイは怒っても良かったのではと思うのだが、そんな素振りは少しも見せず、ただ僅か眉根を寄せただけだった。

「そりゃあ、俺が調査兵団で1番巨人を削ぐのが上手かったからだろ」

 そんなの、と思う。そんなの、今やいっそ些細な問題では無いのか。兵士として、どころか、成人男性としても小柄であるリヴァイの瞳を初めてエレンが見上げたのは、巨人化して見せたエレンを処刑するか、それとも解剖したのちにやはり処刑するか、という『審議』と呼ぶより驚嘆と畏怖による単なる私情を纏めたような意見が殆どだった、『似非審議』とさえ言えるそれが行われた審議所にてのことだった。それは後ろ手に縛られたエレンを、リヴァイが容赦無く蹴り尽くしたときがエレンにとってのリヴァイとの始まりであった。あのときの衝撃をエレンは今でもよく覚えている。自身を見下ろす何の表情も乗せられていないネイビーブルーの双眸の、幾度夢想したか判らない奥だけが濁った青い海原に似た深い色をしていた。そのきれいな、というよりも寧ろ吸い込まれてしまえば引き摺り下ろされ2度と浮上して来られぬ深い深いどこかへ、エレンを惹きつけ離さぬような、リヴァイのその眼がほんの僅か足りとも無駄な動きをすること無く、ただじっとエレンを見ていたのだ。1発めで見事なまでに奥歯を折られたそのせいで、直ぐには気付くことが出来なかったが、2発、3発、と休みなく続けられる蹴り技の合間で何とか覗いた、冷たい無表情とは真逆にも、乾いた皮膚を舐めたあとのような湿度のある熱い瞳の奥。エレンを蹴りながらじっとエレンを見ていたリヴァイを、エレンは蹴られながら必死に見ていた。覗いていた。交わされた視線、そこには互いの瞳に互いが映り込んでいた。あのとき、おそらく、ふたりは同じだった。同じようにぎらぎらとした期待に濁っていた。その間ずっとエレンの腹のなかに蠢いていたわけの理解らない感情に、もし名付けるとしたらそれは恐怖などでは断じて無く、白濁した欲望とこの人にならばこの先何をされても構わないという切望ですらあった。幾ら周りを黙らせて調査兵団へエレンを入団させるために必要なパフォーマンスの一環であったとしても、のちに『やり過ぎだよ』と言いながらエレンを手当てしたハンジの苦言や、リヴァイ本人が問うた『俺を憎んでいるか』という言葉の通りに、エレンはあのとき、きっと、もっと、怨み辛みを抱くべきであったのだ。やり過ぎだと、噛みついて、リヴァイを憎んでしまえば良かったのだ。そうしていればきっと、これ程屈辱的で、厭で厭で耐えかねる程の、憐れみを孕んだ双眸を見ることにならずに済んだ筈だ。リヴァイを嫉まずに済んだ。僻みながらも苦しい程に胸を焦がさずに済んだ。
 あの審議所の地下で、審議所内部で、屋根の無い馬車のなかで、連れられた旧本部古城内で、鉛の鎖がエレンの腕を後ろ手にめちゃくちゃに、縛り上げたりしていなければ。だのにその地下室で呆気無くもリヴァイの手によって、信じられない程に優しく拘束具を外されたりしなければ。そのまま、大人が幼い子供にそうするように、まさしくリヴァイの、身長のわりにおおきくごつごつとした如何にも兵士らしい手がエレンの頭を撫でたりしなければ。そうであったならばエレンは今でも独りきり、暗闇のなかでもどんな劣悪な環境であろうとも平気である筈だった。じめじめと湿りの匂いをさせる、底冷えする程寒々しいばかりの、光などどこからも届かずに小さなランプの、ささやかで吹けば消える不気味な暗闇のなかに居られただろう。ずっと、ずっと、そこに居る間中独り、ただただ巨人への憎悪の焔に焼かれていられたなら良かった。そのほうが良かった、と思う、ことが、何れ程惨めで恐ろしいことであるのかを、知らずに居られた筈であったのに、最早エレンは識っている。決して親切な誰かが教えたのでは無い。エレンの目附役を任されるよう仕向けた、人類最強の兵士と呼ばれるリヴァイがエレンに教えたものは、そんなことでは無かった。地下室の暗闇や孤独では無く、そして光でも無い。だがしかしエレンはそれが光なのだと、エレンをわかりやすく憐れむ厭で厭で堪らないリヴァイのネイビーブルーの向こう側が、エレンにとっては、エレンにとっての唯一の光なのだと、思い込むことで張りつめていた憎悪しか無かった胸中がいつしか少しずつ、楽になってしまった。だからエレンはきっと、もっと、リヴァイのことを何と理不尽で粗暴な上官なのだと畏れてしまえば良かったのだった。腕を捕まれるだけで後ろに立たれるだけで、背筋がわなないてしまう程度に、怖い男だと、そう思い違うべきだったのである。巨人への憎悪だけを抱えていた、それが本来エレンのあるべき状態だったのだ。エレンのなけなしの持ち物には、ただそれだけがあれば良かった、良かった、の、に。なのにリヴァイがエレンに教えたことは、憎悪に焼かれ孤独であれということでは無かった。地下室の暗闇だけでは無かった。無論、そこに差し示された光でも無い。リヴァイがエレンに教えたのは、エレンが如何に救い難い程に憐れで、つまり、わかりやすくかわいそうな存在で、愚かで、歪で、浅ましく、忌わしく、悍ましくて、囂しくて、年相応に脆弱であり、穢らわしくて醜いだけの、気色の悪い化け物である、ということだったのである。エレンは今更に思う。狡い、と、卑怯だ、と──初めからずっと、随分な方法を用い、裏切られていたのだ、と。

「エレン、」

 飼い慣らされてしまった化け物は獣にさえ成りきれぬ。リヴァイにより名を呼ばれれば最早それだけで、もう、はい、と返事と共に嬉しいという感情が、エレンの腹から湧いてくる。それは井戸水のように。とめどなく。そうしてエレンはそれが当たり前であるかの如く、リヴァイが何かを言わずとも自ら、絶対に両腕をリヴァイの目前に揃えるようになっていた。そのことに自分自身で気付いたとき、己が如何にもリヴァイ専用の、ろくでも無い忠実に飼い慣らされた愛玩犬のようで驚嘆したが、治そうとしても治そうとしても結局のところ、今の今になってもその癖は治っていない。たぶん死ぬまで治らない。エレンは夜中の地下室で己の両腕を絶対にリヴァイ以外に見せることが出来ない。見せればまたあの審議所の地下から始まったように誰かに拘束されるかも知れないから、などという理由であったなら余程ましであると思えたろう。けれどほんとうの理由は甘くない。縛り上げられるかも知れないから、などというかわいい理由では無いのだ。言いたくて、今にも口をつきそうになる。乞いたくて、堪らなくなるのだ。貴方に縛られたい、などと。貴方のすべてに成りたい、などと。ともすれば奴隷よりどうしようも無い、あまりにも愚かにも過ぎることを。リヴァイがそれを知っているのか否かはエレンは知らない。判らない。けれども反対に、エレン自らがその両腕をあの深いネイビーブルーの瞳の前に曝したところで、リヴァイはもう首を傾げるか口端のみで笑うかするくらいであるのだ。エレンの腕を縛りつけることなぞ今やもう、誰ひとりとしてすることは無い。エレンはその事実を、既にもう識ってしまっていると云うのに未だ尚、身をもって赦されていることが心底厭で、考えるだけで吐き気がする。だから、けれどもしかし、どうにも出来ず、エレンは地下室を訪れるリヴァイを前に、絶対に警戒することが出来ぬ。どころか、忠義心を見せ付けるように自らその腕を揃えて晒す。誰にも、最早、何にも、縛られる必要は無いのに、ほんとうに、牙を抜かれたパブロフに成り下がってしまっているのだった。強制などされていないままに、エレン自身が選んでしまっているのだ。馴れ親しんだ憎悪ばかりが燃え滾る、孤独さばかりが浮き彫りになる、暗闇へ逃げ隠れ、ただ息を潜めながら巨人を殺す機会を待ちわびるだけでそれ以外のものを斬り棄てて生きることよりも、おまえは憐れで愚かで歪で浅ましく忌わしくて悍ましくて囂しくて年相応に脆弱であり、穢らわしくて醜いだけの、気色の悪いただの化け物だと、それだけを識りそれだけを自覚していられれば良かったのに、その筈であったのに、エレンはいつでも手酷く裏切られても何をされても構わないと思い込めるほうを選んだ。わかりやすくかわいそうなものを見る瞳でエレンを甘やかす、あの深いネイビーブルーを選んだ。思い通りにならないからと然して酷くするような折檻をするどころか、縛り上げてくれもしないあのあたたかな手のひらを選んだ。選んでしまっていた。ここでは誰もエレンを責めない。なぜならエレンがわかりやすくかわいそうな生き物であるからだ。この時世に身内を目の前で巨人に殺された程度の人間ならば幾らでも居る。今やそれは何ら珍しくも無いことだ。けれども本人さえもわけがわからず巨人化する能力を得た子供などそうそう存在しない、誰だって畏怖をしながら否定しながら拒絶しながら理解するのだ。わかりやすくかわいそうだ、と。ほんとうはエレンのみならず原因と結果がそんなにわかりやすく出来ているようなものでも無いが、でも、それでもヒトはどうしてもわかりやすさを求めてしまう、ので、出逢い、エレンを識りその感情に触れ最低限であろうとも何らかの会話や交流をするとどうしても『どうしてこの子だけがこうならざるを得なかったのか』ということを考えて、過去を知り現在を知れば大抵の者は『あァだからこうなのか』と思わずにはいられない。どうしても。勿論、そうでは無いのだ、という証拠は無い。だが、だからこそ、そうだという証拠も無い。実質エレン本人も含め誰にもわからないことだけれども、でも皆誰しもがどうしても『あァ、だから、この子は…──成る程』と思わずにはいられない。それで、たかだかそんなことですべてを理解ったような気になっては善良さを僅かにでも持つ上で『俺は(私は)理解っているからな』という態度になるか、或いは重すぎて内心では引きつつも頷くか、変化系であれども『おまえの過去や現在は理解っているが俺には(私には)そんなことは関係無い』と云わんや不器用な思い遣りに似た態度になるか、兎に角、人々は総じて結局、そのわかりやすいかわいそうさにとらわれることで納得をする。ヒトという生き物である限りは。皆。誰もが。そこに悪意は無い。しかしエレンとしてはどうせならば自らを愛さないような生き物を主人に選びたくて歯痒いのだ。憐れまれるばかりの愛玩犬の一生など、不幸であり続けるしか無いのだと決まっている、それゆえに。それなのにエレンは選んでしまった。なぜなら、エレンを愛することの出来る生き物などこの世界のどこにでも溢れていて押し付けがましくも飽和するそれらからエレンはずっとずっとずっと今までもこれからもずっとずっとずっと独りで憎悪の焔に焼かれていたかったので、ならばもういっそ人間の子供の姿に化けている化け物のままで良かったが化け物であるエレンをリヴァイだけがそのまま化け物として選んだからである。だから存外にリヴァイの手が、唇が、優しく触れるのだと知ったとき、裏切られていたのだ、とエレンは思った。折角化け物として化け物らしく孤独さと憎悪だけで満ち足りていた筈だった、のに、こうして拘束具も使用されない信頼などというものでもってリヴァイからすら。あァ、曝し縛られるためだけに存在する両腕を必死に捧げ晒して生きることを選んだ。決めた。決めた、そのあとに。狡い。と、エレンは密やかに思った。

「エレン」
「…はい」

 慣れて、しまった。
 あのときの互いの双眸が、あのときの互いの双眸で互いを見ることはもう無い。あのときのようにリヴァイがエレンを思い切り蹴り飛ばすことももう無い。それらの代わりに、毎朝リヴァイがエレンを抱き締める。その度に、まるで、棄てないでくれと主人に媚びる犬のようだとリヴァイはエレンを嗤う。ほんとうに、その通りだ。エレンはおそらくは死ぬまで不幸であり続ける。それはもう随分と以前から決まっている事柄である。あの厭な目がエレンを映し、リヴァイを映し出したときから──否、エレンがこの世に生まれたときからたぶん、エレンは運命に忠実な薄汚い犬であり愚かな化け物であり暗闇から這い摺り出た挙句の不幸のどん底で、息をし続けるのだろう。
 それで、エレンは気恥かしいうちからも何とか何らかの言葉を捻り出そうと足掻いたわけだが、抱き締められた体勢のまま、不意に、きつくリヴァイの胸に押さえ付けられた口元ではどうにも言葉が続けられなくなってしまった。

「……おまえだけが」

 エレンの耳元で囁かれたリヴァイの声は、思いの外つよい断言口調だった。

「エレン、おまえだけが。俺の目ン玉のなかで色付いていりゃあそれで、良い」

 ならばやはりリヴァイが先程のエレンの言葉に怒らなかったのも、今朝が突然だとは思っていなかったからなのだ。エレンはぼんやりと考える。昨夜の夢のなかでリヴァイの見た、或いは、消えた、色を告げられて、エレンはひどく驚いていた。驚愕した、と呼んでも構わぬ程にだ。だったら今後、まだ幾らかか は色の残るリヴァイの夢のなかはどうなるのだろう?

「聞こえたか? エレン」

 暗に、愛していると言われたのに、エレンは、何も言葉を返せなかった。



 リヴァイは毎日、今日もおまえの色と青は消えなかった、とエレンに報告をする。リヴァイは、エレンが『リヴァイ・アッカーマンの色覚を狂わせたのは自分だ』と云うことをいつまでも気に病んでいるのだと知っている。その日毎夜毎にエレンが苦しくなってゆくことをも知っている上で。

「餌の時間だ。何だって良い、今日こそ食え」

 食わなきゃ死ぬだろう、と、眉のひとつとして顰めもせずに地下室へと持ち込まれたトレンチ。食べやすそうなものばかりでそれすら優しさならば最早エレンは死にたかった。首を振る。ゆるゆると横に。しかし、要らないと口に出し意思表示するでも無く、つい、と視線を緩く逸らすだけでそれに興味も無く欲しくも無いのだということを、無言で示すエレンにリヴァイは舌を打つ。それは根付いてしまったエレンのリヴァイに対する甘えのひとつというわけでは無くただ単純な驕りなのである。それを見過ごすことをリヴァイはしない。

「聞き分けのねえガキだな」
「巨人を殺す以外に何もしたくありません」
「だったら余計食え。そんな痩せた躰のまま壁外調査なんざ行ってみろ、真っ先に食われるのはエレン、てめえだろうよ」

 固くなに食事を拒絶する子供に苛立ちを隠さないリヴァイはそれでも無意識的に最もやわらかく食べやすそうなホットミルクに小さくちぎられた白パンを浸したパン粥を最早スプーンで掬うことも無く直接右手で掴みエレンの口許へと押し付けるのだ。うんざりしながらエレンは心底可笑しい光景だと思う。

「おら、口あけろ。エレン」
「……ふ、っふふ、」

 ついつい嗤ったその拍子に僅かながら口のなかへぬるいパン粥を押し入れることを赦してしまった。仕方が無い。だってこんなに可笑しい光景は外に無いだろう。調査兵団で最も腕のたつ兵士長が、民間人の幼児にさえ名前が知れ渡っている人類最強のその人が、流石に火傷を負う程の高い温度では無かったが、こうして摂食障害かハンストか、結果は同じだが拒食状態に陥っている役立たずの化け物相手に手すがら食事を与えようと奮闘しているのだ。それも自他共に認める潔癖でありながらその兵士らしい指先から手をどろどろに汚し化け物の唇のなかへ放り込むためだけに使われているのだ。調査兵団で1番巨人を削ぐのが上手い、その尊い手で。

「何も食いたくありません」
「そんなもん俺の知ったこっちゃねえな」
「だって、とても、飲み込めない」

 エレンは口許を拭うこともせずリヴァイが無理矢理にその口内に押し入れたパン粥をベッドのすぐそばの床上へ噛むことも無く吐き棄てていた。いったい何が突然エレンをそうさせるようになったのか、まったく理解する気にもならぬリヴァイはそれでいて叱りも怒りも殴りも蹴りもしない。エレンに対し何もしない。エレンが食堂で食事をとらぬようになったのはいつだったか、エレンが自室である地下室のベッドの上で食事をとらぬようになったのはいつだったか。さっぱりわからない、と謂う顔をするリヴァイは今や誰かと食卓を囲むことも無くなった。時々はふたりしていったい何をしているのだろうかとつくづく馬鹿らしくは思うのだが、いつだってそれらの最中には何ひとつとして何もかもが引っ掛かるようなことも無いためやはり可笑しい。エレンは以前のように露骨さを隠すこと無くリヴァイに従順であるべきで、けれど痩せ細った頼り無い子供は簡単に躰をひらかせて欲しがる。

「ねえ、兵長。セックスしましょうよ」

 ついぞ馬鹿を通り越したかとしかリヴァイには思えない。

「鶏ガラを抱く趣味はねえよ。メシを食うなら幾らでもしてやろう」
「ははっ。別に抱いて頂かなくてもフェラチオくらい出来ますよ。俺。それとも、もう別にどなたかがいらっしゃるんですか? もしほんとうにそうであれば良いんですが」
「……良いのか。俺に『別の奴』が居ても」
「全然。存分にその人へ優しくしてあげてください」

 エレンからすれば、リヴァイは何ひとつとして理解していないのだ。顔を歪められても困る話だ。10年程昔の自分を思い出す。エレンは目が悪かった。視力としては、寧ろ良いほうだったろう。だが幼いエレンには、世界の有り様がまったくと言って良い程見えなかった。エレンの視界はいつだって、古びた絵画より酷いものだった。褪せた白黒、混じるノイズ、乱れた映像、砂嵐の視界。そのなかでも見づらいものが、ヒトだった。表情を映せば映像は乱れ、声を聞けばノイズがかかる。だからエレンは、本来表情や声で判別する人の感情の機微というものに疎かったし、ヒトの顔を認識できなかった。あれ程愛した家族でさえ確固として認識出来ずにいたので、世界にエレンが心を寄せるものもヒトも無いままにエレンは成長し、孤立し、心を育むこと無く、誰も知らない、知る由も無い孤独のなかで、安穏と、退屈に──怠惰に、安寧を貪っていた。その外には何も無い。色の無いすべてには感情さえ寄り添わない。自分は世界に独りぼっちなのだと、そう思ったことは無い。最初からヒトはひとりだと思っていたのだ。それが当たり前で、最初から最後までひとりだと疑いもしなかった。そのことに恐怖したことも、そのことを嘆いたことも、1度だって無い。エレン・イェーガーは、孤独を愛しはしていなかったが、孤独に愛された子供だった。若しくはその孤独を、生きるための才能と呼ぶ。エレンはその圧倒的な才能を代償に、世界或いは真っ当な心を取り上げられていたのだ。エレンの世界には、常にエレンしかいなかった。世界には誰もいなかった。だがある日、極めて不明瞭な視界に、ちいさな光が差し込んだ。唯一エレンに愛想を尽かさなかった変わり者の友人が、自由、と謂う名の夢を運んで来たのだ。エレンはそこで初めて己が不自由であることを識り、無知であることを恥じ、モノクロームの世界が色付く瞬間を体験し、て、嘗ての自身を赦せないと思った。誤魔化すことは悪だ。それが如何に優しくあろうとする虚言であろうとも。リヴァイを疑っているわけでは無い。ただもうモノクロームの世界はたくさんで、それが自分のせいであるとしても、例えばもしも、リヴァイの夢からも現実からも、エレンの色彩が消え去ってしまったとして、それでもリヴァイから正直に告げられなければ、エレンには一生わからないことを、エレンは確りと理解している。リヴァイの目に夢にエレンの色が失われても、その色彩と引き換えに、リヴァイはもっと多くの色を取り戻すべきなのだ。萎えた脚で自ら立ち上がり走ることも出来なくなったエレンを抱いていたリヴァイがよろめく痩身を支える。リヴァイが何も言わないので、エレンも何も訊かなかった。何も無いモノクロームの世界で、人類がどうだとか巨人がどうだとか、そういったくだらぬことを敢えて今このときに口にする程、野暮では無い。

「兵長には、俺の瞳の色──金色に見えていますか? 翡翠に見えていますか?」
「どうだろうな。どっちでも良いだろ。どちらもおまえになら似合うだろうよ」
「俺には貴方の瞳の色が、まだ見たことも無い海に見えます。兵長」
「そうか」

 それについてはリヴァイも丁度エレンと同じようなことを考えていたところであったのだが、そこには目前に広がるがらんどうのようなモノクローム同様何色足りとも見えていないのだから言葉にする意味は無い。
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