<概略>
ピロウトークに母の話をするエレン、と、約束をするリヴァイ/





   

 俺はいつだって自由を夢見ています。馬鹿のひとつ覚えですか。そうですね。否定しません。ほんとうのことですから。だから、自由、という言葉は好きです。だけど、翼のエンブレムはあまり好きになれません。

(なぜだ? 調査兵団の象徴――それこそ、おまえの言う、自由、とやらの象徴だろう?)

 だって翼はいつか飛ぶことをやめてしまうでしょう。鳥は、自由を求めて飛んでいるんじゃあ無い。餌を狩らないと死んでしまうから、だから飛んでいるんだ。

(おまえには似合わんシビアな意見だな、エレン)

 そうですか? 

(ああ)

 自由に飛ぶ姿に、鳥になりたい、なんて思ったことが無い、と言えばそれは嘘になりますが。

(ということはつまり、翼に自由たる想いを馳せたこともあったということか)

 勿論。それこそ、自由の象徴、ですから。――そうですね。もう随分と昔のことになりますが、俺はその自由の象徴である鳥を、飼おうとしたことがありました。鳥。そう、鳥です。犬でも無く猫でも無くて、とても小さな鳥でした。ミカサと出逢うよりずっとずっと昔の話ですからそのときの俺はまだまだ幼く、今より更に無知で、背だってずっと低くって、当たり前ながら、巨人に成れたりなどしない、ただの子供で、けれど巣から1匹だけ落ちてしまったらしいその雛鳥を、棄て置くことも思い付かずに、そっと、手のひらに乗せて家まで持ち帰りました。ええ。無知な子供に突拍子なんてものはありませんから……母は驚き、そしてすぐにその表情を曇らせてしまいました。俺は、俺が雛鳥を勝手に拾い持ち帰ってきたことについて母は困ってしまったのだろうか、と、思ったのですがそうではありませんでした。大人の母には一目ですべて理解っていたんです。ああ、さすが兵長。そうです。その雛鳥は既にもう、息をしていませんでした。
 俺の父は医者で、だから職業柄、生死にふれる機会も人より多かったのだろうと思いますが、貴方の仰る通り俺はまだ子供でしたから、生や死の現場に立ち会ったことが無く、なので死という概念ともそれまで向き合ったことがありませんでした。村で親しくしている人たちが亡くなったことも、それまで経験したことが無かったし、もしかしたらあったのかもしれませんが心に残る程の近い距離には、死が無かったんです。だから、俺はその雛鳥がおそらく巣から落ちた段階で死んでしまっていたんだろうことにも、気付くことなど出来ませんでした。死んだ生き物が冷たくなるということすら知らなかった、けれど、それ以前に俺は、雛鳥のやわらかな羽のあたたかみと自らの手の体温しか感じていませんでした。それまで鳥に触れたことが無かったので。
 母はゆっくりと地に膝をつき、目線をまっすぐに俺の目線の高さに合わせ、言いました。

「エレン。この鳥さんはね、かわいそうかもしれないけれど、残念なことに、もう生きてはいないわ」

 たぶんそれが初めて、少なくとも覚えている限りでは、俺が死というものに触れた瞬間でした。生きる、という単語の意味自体はさすがに知っていたので、生きていない、とはつまりその逆をいうのだと、それだけしか理解出来ませんでしたけどね。ご存知でしょうが、俺はあまり頭の良い子供ではありませんでしたから。

「いきて、いない、って、ゆうこと、」
「そうよ。死んでしまったということ」
「しんでしまった、って、ゆうこと」

 鸚鵡返し? そりゃあそうでしょう。だって知らなかったわけですから。初めて知ったことでしたから。違います、馬鹿じゃありません。無知ではありましたけど。…ひどい言い方をしますね、もう。

「もう、おそらを、とべないの?」
「ええ。この鳥さんはもう2度と飛べないのよ」

 幼い俺の問いかけに、母は優しく答えてくれました。ちょっと、あァだから、馬鹿にしないでくださいってば、もう。

「もう、なかないの?」
「ええ。この鳥さんはもう2度と鳴かないのよ」

 幼い俺の問いかけに、やはり母は優しく答えてくれました。そしてこう言ったんです。

「いい? エレン。よく聞きなさい。大切なことだから。これがね、死ぬということなのよ。この鳥さんはもう2度とお空を飛べないし、もう2度と鳴けもしないの。この世界のなかで、うつくしく、歌を、うたうことも無い」

 確かに小鳥の囀りは、うつくしい歌に似ていたな、そう思いながら俺は、母がよく子守唄代わりに夜にベッドで読み聞かせてくれていた絵本で、これと似たようなことがあったような気もしたし、無かったような気もして、幼いなりにうんうん唸りました。それでも俺は目の前の雛鳥の死骸という現物よりも、つくり話の綴られた絵本のなかのことよりも、ただ母の声音とその表情から、これがとても、かなしいことなのだと思いました。その途端、胸が締めつけられるような痛みに襲われて、俺は母の胸に抱かれわあわあ泣いてしまっていました。

「そうね、エレン。この鳥さんが死んでいるということは、あなたにとって悲しいことね。母さんも、とても悲しいわ。だからこの鳥さんが、ゆっくりと眠れるように、ねえ、エレン、母さんといっしょに弔ってあげましょう?」
「とむ、ら、う…? なにを、するの?」
「お見送りをするの。この子が無事に、天国まで昇ってゆけますように、って、願いを込めて」

 当然、俺なんかが悪さをしたりして、叱られるときはそりゃあ怖い思いをしましたけれど、いつだって優しい母は、最早涙で洪水を起こしている俺の顔を優しく拭って、俺の手のひらの上から雛鳥を自分の手のひらの上へと移し、裏庭へ出ましょう、と促しました。俺は鼻をすすりながら、当時裏庭にあった、幼い俺には広い花壇に足取りを惑うこと無く向かっていく母の後ろを、いったいどうするのかもわからないままで、ついていきました。実のところ、天国なんて話も聞いたことが無かったのだけれど、母がそこへ昇ってゆけますようにと言うのだから、きっとそこは痛みも苦しみも無い、うつくしくて平和で穏やかで幸せなばかりの場所なんだろう、と信じこみ、そのとき俺は疑問を感じながらもそれについて母へ言及する気持ちにはまったくなりませんでした。

「さあ、エレン。この花壇にしましょうか。ここなら季節ごとにいつだってきれいなお花が咲くでしょう? 賑やかできれいなお花にいつも囲まれていれば、きっとこの鳥さんも、寂しくは無いんじゃないかしら」

 そう言って母はいつも手入れを欠かすことの無い花壇の真ん中あたりを、その雛鳥の死骸に明け渡してくれて、だから俺はやわらかな土に小さな手を差し込み、母の言うままに一生懸命、穴を掘りました。そうして底に白い花びらを敷き詰め、もう2度として飛べない、鳴けない、歌えない、その雛鳥をそっと寝かせた母を見ながら、知らない筈なのに続きを知っているかのように、靜かに密やかに言葉を紡ぎました。

(靜かに?)

 だって、眠っている雛鳥を、起こしちゃいけないと、なぜだかよくわかりませんが、思ってしまったから。

「かあさん、これから、どうすればいいの」
「上から土をかけてあげましょうね」
「そんなことしちゃったら、いきが、できないよ。ねえ、かあさん」
「そうね。だけどエレン、この鳥さんはもう今も息をしていないのよ」
「だけど、うめちゃったら、とりさん、ここから、でてこられなくなっちゃう」

 幼い俺は母の言うことを無条件に信じていた筈だったのに、このときばかりは信じられない、と思ってしまいました。花壇の土のなかに、そんな、うつくしく平和で穏やかな幸せばかりの、天国なんてものがあるとはどうしても信じられなかったんです。

「あのね、エレン。私たちは、あなたと母さんは、いつも息をしているわよね? そう、今も」
「うん。だって、いきをとめると、くるしくなるもん」
「母さんも父さんもみんなそうなの。息をすることって、とっても大切なことなのよ。私たちはね、エレン、当たり前に、息を吸ったり吐いたりしているから、生きていられるの。でもね、そうやって、当たり前にしていたこと、するべきことが、出来なくなってしまうときが、必ず誰にでも、やって来る。ヒトも、動物も、――この鳥さんもよ」

 母は懇切丁寧に、俺にも理解出来るように、教えてくれようとしていました。それを察して俺は、ただ黙って母の話を聞きました。今や薄情な程に俺は、母との思い出を殆ど忘れてしまったけれど、その日は穏やかな風がゆるゆると髪を撫で、花壇の花をささやかに揺らし、天気の良い日だったことを未だに忘れられずに覚えています。きっと大切な日だったんだ。俺にとって。俺の生涯において。

「わかる? エレン。この鳥さんはね、死んでしまっているのよ。生え揃ったばかりの羽毛はあなたの手のひらの温度であたたかく感じたかもしれないけれど、それでも、もう、冷たくなってしまっているわ。息をすることが出来ないからよ。巡る筈の血が巡っていないからよ。だからね、やさしく土をかけてあげて、そのまま安らかに眠らせてあげることが、死を迎えてしまったこの子にとって幸福になるの。これから天国へ召されることが出来るなら、苦しく思うことも無いのだから」

 何がなんだか理解することも出来ずにそれでも再び、たくさんの涙が溢れてしまい止まりませんでした。俺は嗚咽を漏らしながら、理解なんてしていないのに、納得には程遠かったのに、しゃくりあげつつかろうじて、わかった、と言いました。そんな俺の稚拙さや心のうちなど母は見抜いていたんでしょうね、眉根を寄せながら俺の頬から目尻を拭って、どんなやわらかなものを撫でるより優しく、俺の頭を撫でてくれました。だから俺はそのまま、穴のなか横たえた雛鳥の上から、母の手のひらの優しさを真似てそうっと土をかけました。幼い小さな手で何度かそうやっていれば、そこには小さなお墓が出来ました。俺が持ち帰ってきた雛鳥はもう羽の1枚たりとも見えません。

「偉かったわね。悲しみに負けないあなたの優しさはきっと鳥さんにも伝わったことでしょう。エレン、鳥さんはもう天国から、喜んでいるわ。ありがとう、エレン、って、言ってくれているわ」

 ほんとうに? 俺の残念な頭のなかは、多くの疑問で埋め尽くされていました。けれどそれを口に出すことはどうしても出来なかった。なかなか難しかった、ではありません。出来なかったんです。母に尋ねてしまえばおそらくつらい思いを抱える羽目になるだろうことを、ずるく、護られて生きていた俺は、何となく感じ取っていたんです。だからこそ尚更、怖かった。確かめ無ければまたわあわあ泣いてしまいそうに、怖かった。

「ねえ、かあさん。おれは、ただしいことを、したんだよね?」

 ね、ずるいでしょう? 卑怯でしょう。俺はどうしても不安で仕方が無くって、母のエプロンの裾を引きながら、そんなふうに確かめていました。なのに母は、当たり前じゃない、あなたは正しいことをしたわ、エレン、と言って、俺の肩を抱き寄せてくれました。だけど、やっぱり俺はずるくて、とてもずるくて、卑怯なことこの上無いような言葉を紡ぎました。今でも俺は、当時の、そのときの、俺のことを、とてもじゃあありませんが赦せない。巨人を駆逐したら、当時の俺を駆逐してしまいたいくらいです。俺はまた尋ねました。ええ。自分自身のためだけに。

「……かあさんにもくるの?」
「どうしたの、エレン?」
「かあさんにも、いきが、できなくなるときが、くるの? ねえ、かあさんも、とりさんみたいにいつかしんじゃうの? てんごく、ってところに、いっちゃうの?」

 最低なガキでしょう? 俺はたった今つくったばかりの小さな墓の前で、身じろぎひとつとして出来ず、立ち尽くしていました。俺の肩にまわされた母の細い腕に、微かに力がこもったことにさえ、俺は気付いても、気付かないふりをした。

「ねえ。そしたら、おれが、かあさんに、つちをかけなくっちゃ、いけないの? とりさん、みたい、に、」

 知らず俺はさっきまで雛鳥の死骸を抱いていた手を、つよく握り締めていました。

「そんな、の、……っ」

 このへんは何をどう言ったかあまり覚えていません。ただ、いやだ、と。死んじゃあやだ、やだ、と。そう幾度も幾度も繰り返して咽び泣き、わけもわからず泣き喚いては母を困らせていた、それだけを覚えています。
 母はすぐに俺を抱き上げました。母の左手は俺の小さな肩へ、右手は確りと、まるで離さないと誓うかのように俺の尻を下から支え、母のすべては俺へと伸ばされていました。母は、俺を、ほんとうに愛してくれていて。優しくて、厳しくもあって、何の見返りも無く俺を無償で愛してくれる、唯一無二の人でした。
 母はきっぱりと言いました。

「母さんは、まだ死なないわ。エレン。泣かないのよ、男の子でしょう? 母さんはね、あなたが立派な大人になるまで、絶対に死なないと決めているの。だから、ほら、泣き止んで。もう泣かなくていいのよ。大丈夫。何の心配も要らないのよ」

 父は医者でしたが、だから内地やいろんなところへ仕事に出掛けてしまうので、家には殆ど俺と母のふたりきりだった。ずるい俺は訊きたくて、母にはいつも傍にいてほしいと言いたくて、けれど普段ならきっと言えないままのことでした。独りになるなんて想像もしたく無かったんです。貴方からすればそんな軟弱さでよく生き延びたな、という話かもしれません。でも俺は、怖くて、怖くて、怖くて堪らなかったんです。

「かあさん。でも、…でもね」
「ねえ、エレン。聞いて頂戴。お願いよ。母さんが、今まであなたに、嘘をついたことなんて、あったかしら?」

 泣き止まなければとは思うのに、思い通りにならない涙腺は、弛んだままで。すぐには泣き止めないでいる俺に、母は、にこり、と笑ってみせた。やさしく美しい母は、俺との約束を違えたことなどただの1度もありませんでした。俺は頷いた。

「ない、……かあさんは、やくそく、やぶんない」
「そうでしょう? だから、大丈夫よ。こんなに愛おしいあなたから手を離して、どこへ行くもんですか。そんなの、母さんのほうが寂しくて、悲しくて、泣いちゃうわ」

(それが、)

 何ですか。

(それが、エレンおまえの、母親、か)

 ええ。思えば、母が俺に嘘をつかざるを得なく、なり――、約束を、破ったのは、それが最初で、最後、です。
 だけど俺も、母に土をかけることさえ、していない。俺のほうが、随分と、嘘つきで、どうしようも無く、不出来な息子でした。

(そうか。ここは……聞き出して悪かった、と云うべきところか?)

 いいえ。こちらこそガキの姑息さをフル活用して、ピロウトークとしてはつまらない感傷的な話をしてしまい申し訳ありませんでした、と云うべきです。けれど俺はあなたから、訊いて頂いて良かったと、思います。そうでも無ければ、俺はたぶん、死ぬまでこの話を、誰にも言わずにいたでしょうから。雛鳥のときも父はいなかった。だから余計に、母は俺にとって、父であり母であり姉であり、とても大切な人だったのだと、気付いたんです。皮肉にも、あの日に。100年続いた安寧の日々が失われた、あの日。きっとあの日が無ければ俺はふてぶてしく、無礼にも、母に与えて貰っていた愛情に気付きもせずに、安穏と、口先ばかりが立派で母の気持ちを考えないままに、恥じ入ることも知らずに生きていたのでしょうね。

「…俺は、俺が、とても恥ずかしい」

 ――ひと言それだけを付け加えた俺に兵長は、何も恥じることは無い、と、やはりひと言、それだけ言った。


(エレン。俺はおまえより先には死なねえ。おまえの屍には俺が土をかけてやると約束しよう。だから、おまえは、安心して死ね)


 それが『生きる』と、いうこと。それが『愛する』と、いうこと。それが『信じる』と、いうこと。『尊い』、と、いう、こと。


 尊くうつくしい命を、これから先の俺が死を迎えるまで幾つ、護ることが出来るのでしょうか? 優しい貴方にはわかりますか。兵長。教えてください。尊くうつくしい貴方の言葉なら、例えばもしも、万が一どこかで嘘になろうとも、俺は信じ続けてゆこうと思えます。

(生憎、尊くも無くうつくしくも無く、正しくさえ、無いが、)
(俺は、嘘をつかない)


 それが。
 風のなか翼のエンブレムをはためかせ、空を舞い、狩るために飛びまわる、『自由の翼』と、いう、こと。
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