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<概略>
パロ/リヴァエレのちエルエレ/テセウスの船/ひたすらリヴァイが報われない/
という、長サンドの筈が何かこんなことになっちゃry




   

 いま思えば実にわかりやすい会話だったとリヴァイは今更、自身へと悔恨を感じてしまう。エレンが何れだけ必死に隠し通そうとしたところでそもそもエレンは実直に過ぎて、嘘も演技もヘタクソである。少し疑えばわかった筈なのだ。なぜならばあれ程に、いっそ露骨なまでに、ヒントは散りばめられていたのだから。

「リヴァイさんリヴァイさんリヴァイさん、あの、」
「人の名前を連呼するなうるせえ。1度でわかる」
「って叩くことないでしょう!?」
「叩いてねえよ。軽く撫でただけだ」
「横暴…!」
「で、何だ。何か俺に言いてえことがあるのか?」
「あ、はい。あります。リヴァイさん。リヴァイさんて俺のこと好きですか?」
「もう1発撫でるか」
「『撫でる』の数え方が1発2発っておかしくないですかっ?」
「おまえがくだらねえことを口にするからだ。人間嫌いの俺が、赤の他人と粘膜を擦り合わせるような気色悪ィ行為をするにあたってそこにどんな好意的感情もないと本気で思うのか、エレン」
「…ええと、とりあえずその生々しい表現よりふつうに『好き』って言葉を口にするほうが恥ずかしくない気がします」
「うるせえな。わかった、好きだと言えば満足なんだな?」
「そんな…心底仕方ねえな、みたいな顔で面倒臭い子供を相手にするように言われても、ちっとも、ときめきません」
「好きだ。エレン」
「…っ、とき、めきました」
「無自覚あざとい女か、おまえは。赤面するくらいなら言わせるんじゃねえよ。まァだが俺はそんなおまえだから好きなわけだが」

 たったそれだけの言葉で耳と首まで真っ赤な茹で蛸のようになってしまったエレンにリヴァイはそう言い放った。

「っじゃ、じゃあ…! 例えば俺が事故にでもあって、ぐっちゃぐちゃの顔になっても変わらず好きだと思ってくれますか?」
「はァ? 何だエレン、今日はいつにも増してうぜえな」
「俺っていつもうざいんですか!?」
「ああ。うざいというか、鬱陶しいな。なぜそんなくだらん例え話を俺に振ってきやがるのかわかんねえ程度に好きだが鬱陶しい」
「喜んでいいのか悲しめばいいのか…!」
「そこは喜べ」
「リヴァイさんのイケメン! もう! …でも、そうですね、くだらなくて構わないんで考えてみてください。ぐっちゃぐちゃの顔になった上に記憶喪失な俺でも好きですか?」
「記憶喪失だと? おまえ頭悪ィのも大概にしろ。そんなもん大抵は一時的な現象で、脳に障害があるでも無ければ大部分の記憶は何れ戻るものだと知っての愚問か?」
「そうなんですか…。ええと、とにかく、単なる例え話なので騙されたとでも思って答えてみてくださいよ。顔がぐっちゃぐちゃになって、それを俺だと誰もわからなくなって、で、更に俺が、自分自身のことは勿論ながらに、絶対に忘れたくないですが貴方のことを含めすべて何もかもほんとうに忘れてしまったとしたらどうです?」
「――おまえは、」
「はい」
「驚愕したくなる程に馬鹿だな。…騙されたと思って、の使い方もおかしい」
「それは言葉の綾です。そんなことはどうでもいいので回答お願いします」
「おい、エレン」
「はい?」
「ひとつ確認したいんだがこのあまりに馬鹿げた愚問的な例え話は、個人としての人間の本質とは何であるのだろうか、みてえな哲学をしたいわけじゃあねえんだよな」
「はい、勿論。ついでに言えば、別に何れだけプラスしていけばリヴァイさんが俺にうんざりして好きじゃあ無くなっちゃうんだろう的な、そういう実験でもないです。だって俺ほんとうは、リヴァイさんがこの程度で俺を見放すなんて有り得ないことくらい知っていますし」
「その根拠のない自信はどうにかしてやりたいとは思うが」
「あは、安心しました」
「あ?」
「いえ、流石にこれくらいうざい言葉を繰り返しても、リヴァイさんがポーカーフェイスのままだったりしたなら、俺はちょっとリヴァイさんを疑わずにはいられないところでしたよ」
「……エレン」

 表情筋が殆ど動かないと言われるリヴァイの顔を見て、無表情があからさまに仏頂面になっている、とそんな些細な変化も見分けることが出来、見逃さないで謝れるあたりはエレンは真性の馬鹿ではない。

「ごめんなさい。変なこと言って。決して俺は、リヴァイさんを信用していないだとかではないんですけど」
「そのわりにゃあ結構、不愉快にさせられたんだが?」
「ですがリヴァイさんには、とりあえず自分のほうが俺よりも分が悪いと云わんばかりの、そういう前提で俺を見るのはやめて欲しいな、と思います」

 そんなことを言われても、と、眉間を寄せる、リヴァイは意識こそしていないものの、エレンに関してはつくづく反射的に引け目を感じてしまうのだ。だがそれは仕方の無いことである。決して揺るがぬ現実として、ひとまわり以上の歳の差、そして思春期における性の初めての行為が同性であった場合の刷り込み。誰の言葉だったか、『恋とは、酔いと同じである』らしい。

「…おい、エレンよ。おまえこそもう少し考えて喋れ」
「すっげえ考えてますよ。ところでリヴァイさんは俺がどのあたりから貴方からの言葉という回答を、馬鹿にしていたと思います?」
「……てめえ如きが俺を馬鹿にしただと? 蹴るぞクソガキ」
「暴力反対ですよ」
「うぜえ。馬鹿なクソガキの考えなんざ知るかよ」
「ひどい言い様ですねえ…因みに俺は最初から貴方の回答を馬鹿にしていました」
「何が望みだ。喧嘩売ってんなら言い値で買おう」
「ですから暴力反対ですってば。だけどリヴァイさんは俺なんか実際たいして好きでもないでしょうに。馬鹿な俺が鬱陶しくもやたらと質問ばかりするので仕方なく答えてくださったんでしょう」
「……エレン、愛している」
「見事な片言です」
「何だおまえは。俺にどうして欲しいんだ」
「ええと」
「構って欲しかっただけか」
「だって…リヴァイさん怒るでしょう? そりゃあ俺だって必死になりますよ」
「何にだ」
「……怒りませんか?」
「怒らねえよ」
「蹴りませんか?」
「それは保証できねえな」
「うう…」
「蹴らねえでやるから早く言え。寧ろ苛ついて蹴りたくなる」
「…あの、……好きなんです」
「あ?」
「リヴァイさんの、その、顔が」
「何が言いてえ」
「だから、その、リヴァイさんが俺のために眉を顰めたり、呆れたり、…――シルバーグレーの瞳が、途方に暮れながら俺を見るような、ときの」
「……」
「あの、」
「前言を撤回して蹴って良いか?」
「だだだだめです…」
「要するに俺はおまえを信じているのにおまえは俺を信じられねえ、てことだよな。それは」
「だって俺は必死ですもん」
「そう言われると俺は途方に暮れる以外に道がなくなるわけだが」
「ごめんなさい」
「謝罪より解決策を考えろ」
「何があっても貴方だけは絶対に、俺を裏切らないという確信を得たくて考えた結果なんですが」
「おまえはアレか、馬鹿の考え休むに似たりを実証したわけだな。まったくガキはろくなこと考えねえな」
「……それでも、リヴァイさんは俺の言うことを絶対に何でも聞いて叶えてくれるんですから」
「何でも叶えてやる気なんぞねえよ。そんな救いようのない馬鹿なおまえを嫌いになれと望まれたら蹴る」
「俺が貴方を嫌いになるのは構わないんですか、リヴァイさん」
「構わねえな、一向に」
「えぇえー…? それは俺的に執着して頂きたいところなんですけど」
「というかエレンよ。それならおまえは、俺の顔がぐっちゃぐちゃに潰れて且つおまえの言う記憶喪失とやらになっても俺を好きでいられるのか」

 同じ愚問を投げてみた、ら

「うーん……そのときにならなきゃわかんないです。すみません」

 その場凌ぎの嘘をつかないところは好ましいが根本的にこいつは駄目だ、駄目なほうのガキだ、とリヴァイは頭を抱えたくなる。

「クソガキてめえ…、自分が答えられもしねえくだらん問いを俺に吹っ掛けてんじゃねえよ」
「ごめんなさい」
「謝罪は受け付けてやらねえ。が、おまえ俺の回答は散々悩んだ末のものだとでも思ってんのか?」
「違うんですか」
「違うな。うんざりした末の回答だ」
「え、ええ? あれ…?」
「よく聞けよ馬鹿。俺はな、おまえの外見がどうだろうと俺を忘れてしまおうと、ついでに五感の総てを失おうとその四肢が失われようと白痴化しようと植物状態になろうとおまえなら死ぬまで――いや、死んだって愛してやる」
「……えー…と、さっきの通り俺は哲学とかに興味なんかありませんが、だけど、でも、今のそれが漏れなく全部俺の身にふりかかっちゃったらその人間はもう俺とは違う人間じゃないですか。少なくとも、リヴァイさんが俺を好きになってくれた理由なんか全部失われるように思います」
「『テセウスの船』について議論する気はねえ。俺は、てめえがどういう状態になろうが、」
「はい」
「おまえと出逢えば必ずおまえを好きになる。理由なんぞそれだけで充分だ」
「……っっ」
「…おい、何を絶句してやがる」
「しっ…しますよ絶句くらい…!」
「あァ? 何でだよ」
「もう駄目です恥ずかし死にしちゃいます頭撫でてキスしてくださいリヴァイさん愛してます砂場に穴掘って埋まってきても良いですか」
「は、おまえは実に馬鹿だなエレン。良いわけねえだろ。おまえはずっと俺と居ろ」
「俺リヴァイさんに殺される!」

 リヴァイさんのほうこそ大概にしてくれないと俺の心臓がもちません!

 ――なんて他愛無い日常、じゃれあうような、そんなくだらない会話さえリヴァイは一言一句逃さず覚えているというのに。
 なのにいつの頃からか互いの家の行き来が目に見えて少なくなった。朝、駅まで共に向かうこともまた同様に。無論、顔を合わせれば挨拶はするし用もなく他愛ないメールや電話なら続けていたが、リヴァイが仕事の多忙にかまけているうちにエレンはいつの間にか中学を卒業してしまっていて、生活時間が擦れ違うことが多くなっていた。けれど2人きりになれば変わらずリヴァイはエレンを徹底的に構ったし、構われればエレンはふにゃりと嬉しそうに笑む。手を握れば握り返され、くちづければ舌を緊張気味に絡ませてきた。いつまでも生娘のように視線が合っただけでエレンは頬を染め慌ててリヴァイを追うかの如く走り寄る。だから気づけなかったのだ。元よりリヴァイには事を急ぐ気は更々ないので今はそれだけで充分だろうと思ってもいた。特に何かを誓い合った試しなど無かったが宣誓も約束も無くとも、リヴァイが中学生の頃に隣の部屋に越してきたイェーガー家に生まれたエレンとの曖昧で心地好いぬるま湯に似た関係は、何れエレンが成長すればあるべきところへあるべき形でぴたりと収まり、そうして一生続くものだと思っていた。思い込んで――いた。

 それが大きな誤りだった。
 年々健やかに成長していくエレンを見ていたのに、この世に不変なものなど有りはしないと識っていたのに、どうして頑なにそんな何ら保証もないことを不変であるように誤認してしまっていたのか――今でも、リヴァイにはわからない。

 まずマンションの隣同士、というところから、つまりは出逢いからして偶然以外の何ものでも無かったのだ。互いの家を頻繁に行き来していたのは、出来ていたのは、エレンの両親が忙しく、仕方なく雇うシッターにまったくエレンが懐かなかったこと、その代わりただの『お隣さん』であるリヴァイになぜだか実の兄弟以上によく懐き、リヴァイもそれが嫌では無かったこと、実際にカルラがエレンにシッターをつけざるを得なくなったのは彼女の産休が終わってしまった頃なのだが園児のエレンは彼女の教育の賜かまるで手が掛からなかったし、外ではやんちゃな面もあったようでよく幼稚園から泥だらけで――酷いときにはケンカでもしたのか擦り傷だらけで帰宅したけれども、だがリヴァイに対してはいつだって素直だった。エレンは幾つになろうとリヴァイの年齢からすれば幼いながらも、同年代の子供とのケンカには必ず確固たる理由がありエレン自身は多少生意気ではあったが、普段は行儀も良く目上の人間への態度も確りしておりその不器用な優しさから、年代問わず好かれていた。屈託なく咲う笑顔はいつも周りを幸せな気分にさせるようなものだった。成長していくにつれ愛らしい生き物がきれいなものへと育っていく。別に自分は構わない。だがどうしたって目立つ互いが、ただ仲の良い隣人同士にしては異常であるという捉え方をする心無い人間も世間には存在することに気づき更なる垣根を越えてしまったら、きっとエレンは傷つくだろう。そう思えば自然と顔を合わすこともぎこちなくなってしまう。それでもリヴァイは今更にして、もっとエレンの傍らに寄り添うべきで一挙一動を見逃さずにいるべきだったと後悔している。だってそうしていればきっと誰よりも先に気づけたのだ。嘘をつくことも誤魔化すことも苦手なエレンが何れ程巧妙に周囲の人間を遠避けようと必死になろうとも、自分だけは、と。けれど最早、幾らリヴァイが問い掛けてやりたくとも問うことすら出来ない。時間が擦れ違おうともほんとうには離れることなどないだろうと、離れていてもずっと隣にいるのだろうと、リヴァイ自身滑稽なまでに信じきっていたエレンが居なくなった。何れ程深く後悔していても、何が違っていたのかを何れ程つよく思考していても、回答を識る者が近くに存在していなければそれ以上リヴァイにはどうすることも出来ない。どんなことでも構わない、誤りがあったのならやり直す機会が欲しかった。だがエレンは別れの言葉さえリヴァイに与えてくれなかったのである。リヴァイに、だけでない。幼馴染みにも同じだったようで、今にも殺してやるとでも言わんばかりの形相で

「エレンをどこに隠したの!? どうして! なぜおまえはいつも私たちからエレンを取り上げる!」

 リヴァイの部屋に乗り込んできて叫んだミカサと、そんな失礼な言い方をしちゃあ駄目だよと、いつもならば彼女のストッパー且つフォローにまわるアルミンでさえ

「お願いします。エレンを返してください」

 と泣きすぎて腫れた瞼を赤く染め、詰め寄ってきたくらいである。おまえらは俺をどういう人間だと思ってんだ、エレンを束縛し拉致監禁でもしているとでも思ってんのか、と、リヴァイが口にすることはなく、エレンは、そう、らしくなく、ひどく上手に他人を遠避け、そうしてすっかり消えてしまった。
 ミカサとアルミンには、

「親父の仕事の都合で引っ越すことになっちゃってさ。だけどすぐ逢えるよ。落ち着いたら手紙書くし、つうか電話もメールもあるし、海外に行くとかじゃあ無いから。長期休みは遊ぼうな」

 などと――苦笑いで言い残して。どこへ引っ越すのかははぐらかされて教えて貰えていないと彼女らは言う。だがエレンから手紙が届けば住所は記してあるだろうし、そんな遠くじゃねえから、と明るく笑うエレンに違和感を感じなかったのだ、と。しかしエレンからの便りは1度も来ない。メールは宛先不明で戻ってきて、電話は解約されていた。リヴァイとて、イェーガー家がいつの間に引っ越してしまったのか実際のところ正確な日付はわからない。残業により会社の仮眠室に泊まり込む夜と出張続きで、満身創痍のまま帰宅したいつかの夜にはもう既に、隣の部屋は空き家となっており、どういうことかとかけた電話はエレンだけに限らず昔教わってから変わらぬままであった筈のカルラやグリシャとも音信不通となってしまっていたのである。1度、グリシャが勤めていた病院へも行ってみたのだが、つい先日お辞めになりましたよ、としか言われずにそれ以上は聞きだせなかった。リヴァイがエレンの身内ではないからである。
 エレンが居ない。あまりにも突然で、何をどう受け止めれば良いのかもわからずにそのまま無意味な時間が過ぎていく。エレンが居ない。どこにも。誰もあの子供の行方を知らぬ。
 限界だ。とリヴァイは思った。
 血眼になって捜索しなくともエレンのことだから必ず自分のところへ戻ってくる、そんな気がしていたけれど、ここまで徹底されていればそれはつまり、エレンはリヴァイすら信じていなかったということではあるまいか。
 しかしそんな日々のなか、目に見えて苛立ってゆくばかりのリヴァイについぞ見かねた数少ない自称理解者のひとりが漸く問題を齎した。

「リヴァイ。毎日毎日その凶悪面に磨きをかけるのはやめなさい。部下たちが皆怖がってしまって仕事が疎かになっている」
「うるせえ」
「だから、その顔だよ。殺人罪前科何犯のようなオーラを出すな。そんなにエレンが心配なら確り捜してあげれば良いだろう? まァ…おまえは別にエレンを心配しているわけでは無いのかもしれないが」
「あ?」

 珍しくリヴァイの働くフロアへ来ていたエルヴィンが、喫煙室にてコーヒーを片手に突っ立っているリヴァイへ声を掛けにきた。煙草を吸いがてら休憩したい社員たちから、喫煙室に入れません! という切実な苦情が爆発したからだ。そのまるで咎めるようでいて、優越を孕んだような声音にリヴァイは柳眉をぴくりと動かす。大学を卒業する前に起業に成功したエルヴィンに誘われ、同時に支えるように現在まで会社を大きくするに尽力したリヴァイである。だがリヴァイはエルヴィンを認めてはいるがその頭脳のなかに犇めいている策略の、何もかもすべてを信頼しているとは言い難かった。

「まァあれ程、エレンエレンと可愛がっていたのだから、心配などしていないのだろうとまでいうのは、流石に言い過ぎたかな。だが、ほんとうにエレンを捜し出して安否を確かめたいのならば、おまえは興信所なり何なり既にもう幾らでも利用して手を尽くしている筈だろう」
「エルヴィンおまえ…何が言いてえ」
「私が言ってしまって良いのか? リヴァイ。おまえは、」

 エレン本人が何も告げはしなかったのだ――。
 それがリヴァイにとっての答えでありすべてであった。

「……知ったふうな口をききやがって。狸が」

 リヴァイはぎろりと見上げつつ睨みあげる。エルヴィンはリヴァイにしかわからない程度に僅か口角を上げ、偶然は必然であると思うか? とやわらかに言った。リヴァイは眸を細める。
 エレンは幼い頃から元気な子供であったが、母であるカルラは元々少し体が弱く些細なことで熱を出しては仕事を休む女性であった。誰と何れ程ケンカして擦り傷だらけになろうとも気丈に明るく咲うエレンがカルラが床に伏せるその度に、彼女には決して見つからぬよう隠れてこっそりと泣いていた。りばいさん、どうしよう、かあさんがくるしそうなんです、りばいさん。呟く小さな声はひどくいじらしく、リヴァイはエレンを抱き上げながらよく、この子供は自分が守らねばならないという気がしていた。そんなことさえ忘れたことは無かった筈だというに。

「エレンの母親に何かあったのか? だとしてもなぜおまえがそれを知っている?」
「そう怖い顔をするな、リヴァイ。カルラさんは何ともない。偶然だったんだよ。ほんとうに」
「……知っていることを全部吐け」

 水のなかに垂らされたインクが靜かに広がっていくように、不安と焦燥が限りなくリヴァイの心臓の内側近くをつよく叩いた。エレンが居なくなってしまう前後はリヴァイだけで無く社内中が有り得ない程に忙しく、かなり無茶なことをしていたがそのときでさえ、エレンに会えないという腹立たしさはあっても、これ程目の前の旧友を殴りつけてしまいたい気持ちでは無かった。

「エレンに口止めされている、と言ってもか?」
「そんなことは百も承知だ」
「ではその前に尋ねよう。リヴァイ、おまえは事態がこうなるまでは、彼とどうなるつもりだった?」
「死んでも傍らに」

 リヴァイの短くも揺るぎなき返答に今度こそエルヴィンは声をたて笑った。拒絶されたのだと自覚していて尚、この男はあの子供の傍には自分が居ることを当たり前のように考えているのだ。エルヴィンはひとしきり笑い終えると、不機嫌さが増すばかりのリヴァイを見下ろす。

「いいだろう。今日は私も午後から予約している。おまえも連れて行ってやろう」
「どこへ」
「私が昨年転倒事故で足首を骨折しリハビリに未だ通っていることは既知だね? そこの総合病院だ」

 ――総合病院?

「…エレンが、入院しているのか……?」
「そうだな。だが詳しいことは本人から聞くべきだ。そうだろう? 私はいつものように見舞いに寄るだけだよ」
「グリシャは名医だと聞いているが」
「勿論。しかし彼は――『脳外科医』では無いだろう?」

 瞬時、リヴァイは視界が真っ白になる錯覚を覚えた。




 その日のリヴァイは散々であった。常ならば絶対に有り得ないようなケアレスミスを連発し、彼の直属の部下であるグンタたちは勿論のこと、普段の勤務時は昼食時くらいしか研究室からまったく出てこないハンジすらリヴァイの不調を懸念しフロアの違うリヴァイの元へと様子を伺いに来た程だ。頭脳や探究心は異常な程に定評があるがそれ以外はまるで女性らしくなく且つ同期であるにしてもリヴァイに対してさえ茶化した物言いをするキャラクターである彼女が、彼女の大好きな実験中でもなかなか見られぬような、大真面目な顔をして言った。

「ちょっと。ねえ? どうしたの? リヴァイ。ここ最近のきみは確かに酷い顔をしていて不眠気味でもあったようだけれど、今日は、一段と酷いよ。まさか働き過ぎて病気にでもなったんじゃあ無いよね? きみに倒れられたら今しているプロジェクトも動かなくなっちゃうよ。ねえ、ほんとうに、体調が悪いなら面倒がらずに病院に行ってくれよ。きみとは長い付き合いだけれどこんなに異様な姿は見たことが無いし、こんなにも心配せずにいられなかったことだって無いよ。世の終焉を感じちゃうよ」

 ハンジに悪意など微塵も無いことはわかっていた。それでも『病院に行ってくれ』という言葉がリヴァイを苛んでしまう。大丈夫だ、と答えながらそれでも、心のなか、俺は、と付け足してしまう卑屈さにリヴァイは己の思考ながら嫌気がさす。違う。例え何れ程ショックを受けようとやるべきことは変わらないのだ。そこに支障を来すなどまったく、らしくない。

「心配するな。午後から病院へ行く予定だ」

 エルヴィンに便乗して、とは言わずに眉間をおさえた。脳外科。病院自体あまり馴染みのないリヴァイにとって、そこはまるで人の死を連想せざるを得ない程に、ただただ不安を募らせるものだった。
 リハビリテーションでの予約は14時40分からであるというエルヴィンに合わせ14時前に件の総合病院へ着くようリヴァイはエルヴィンの車に同乗し会社を出た。態々顔を見なくともわかる程、おおいに不機嫌そうな表情の下に不安を押し隠していることが手に取るように透けており、エルヴィンは苦笑を隠せなかった。何を笑ってやがる、とリヴァイが低く吐き出すと、最早その声音だけで殺意が犇々と突き刺さるようで、エルヴィンは車中にて口を開く。

「おまえも狼狽えたり不安感を顕にすることがあるんだな、リヴァイ」
「うるせえ。前見て運転しろ」
「散々動揺しっ放しだったようだね。だが、だからこそしっかりするべきだ。酷い顔をしているよ」
「自覚済みだ」
「そんな顔のままではエレンに会わせられないよリヴァイ。私が会うことを許さない」
「っ! てめえ、エルヴィン! てめえにそんな権利が…っ!」

 気づけば咄嗟、リヴァイは身を乗りだしエルヴィンの胸ぐらを掴んでいた。

「よせ。運転中だ」
「だいたいなぜ、おまえがエレンと、」
「会っているのかって? 言ったろう、ただの偶然だったと。先日リハビリ前に寄った院内の売店で偶々会ったんだ。ほら、離しなさい。私たちが事故でも起こしたと知れればエレンは悲しむよ」
「……、チッ」

 リヴァイはエルヴィンのシャツから手を離すと助手席に座り直し、シートベルトを調整した。正直、エルヴィンには言ってやりたいことがそれはもう、山のようにある。そもそもエレンとエルヴィンの接点などリヴァイを通してしか、無かった筈だ。休日にエレンと自宅で過ごしていたリヴァイの部屋へ、ある時、偶々、近くまで来たから呑まないか、とワインを持参したエルヴィンがやって来たのだ。リヴァイとしては貴重な会瀬の時間を誰にも邪魔などされたく無かったので、帰れ、と一蹴してしまいたかったのだが、そこは独りっ子のわりに我儘も言わず気を遣うエレンである。リヴァイが望まぬ来客に、『お客さんがいらっしゃったのなら俺お邪魔しないように帰りますね』と笑い、違う、あいつは客じゃねえよ、というリヴァイの台詞は笑い飛ばされ『だめですよ、リヴァイさん。友達は大切にしろっていつも俺に言ってるじゃあ無いですか。態々手土産まで持って訪れてくださったんですから、追い返すなんていけません』と子供から説教を受けた。狡いのは『それに、俺ならいつだって隣に住んでるんですから…リヴァイさんのお好きなときにいつでも会えるでしょう?』のとどめである。あのとき、エルヴィンとは会社で毎日会っている、とリヴァイが言う前に、帰宅しようと勝手にロックを開けたエレンと満面の笑みを浮かべたエルヴィンが顔を会わせてしまったことがいけなかった。リヴァイよりずっと人の扱いに長けているエルヴィンは初対面にも関わらず、すんなりと隙間風が入り込むようにエレンとも打ち解けた。流石に未成年であるエレンにワインをすすめるようなことは無かったが、無警戒な子供がにこにこと自分以外のおっさん相手に順応している様子は見ていて気分の良いものでは無かったし、話題は専らエレンの知らない、学生時代や社内でのリヴァイについてだったのだが、それでもリヴァイは面白く無かった。ずっと大切にしてきた子供を、エルヴィンに限らず他人に紹介などしたく無かったのである。

「まったく…感心する程きみたちは独占欲がつよい」
「あ?」

 苦笑を伴ったエルヴィンの呟きに訊き返してみれば、何でもないよ、と、はぐらかされた。

 脳外科専門の病棟で、『エレン・イェーガー』と書かれた札のある個室。院内はどこもかしこも、白やアイボリーを基調とし、差し色にベビーブルーが爽やかに馴染んでいる程度の、優しい色づかいだ。通い慣れているとでもいうふうにエルヴィンが、スライド式のドアを軽く、コン、コン、とノックすれば、寝ていたわけでは無いのだろう、すぐに嬉しそうなエレンの声で、

「エルヴィンさん?」

 と、極ふつうに返事があった。母でもなく、父でもなく、ましてや幼馴染みたちやリヴァイ自身ですらない、名。リヴァイは一瞬顔をしかめたが短く息を吐くことで落ち着きを取り戻す。この向こうにエレンが居るのだ。今は、それだけで良い。

「…? どうかしたんですか? いつも通り入ってきてくださっていいですよ」
「ああ、エレン。今日はね、見舞品があるんだよ。それをきみが喜ぶか否かはわからないけれどもね」
「見舞品、ですか? よくわかりませんけど、どうぞ。入院中って退屈なんですよ」

 無防備な声。リヴァイより大柄であるエルヴィンの手が靜か、ドアをスライドさせる。他の病棟と然して変わらぬ優しい色に囲まれた病室。病院独特の匂い。清潔に整えられたベッドでは伸ばした足を掛け布団に入れたままで、リクライニングした背凭れに身を預けて座っている、エレン。の姿が少しずつリヴァイの視界に入る。と同時に、エレンの元々大きな双眸もリヴァイを捉え、ゆっくりと、信じられない、とでも言いたげに、大きく、大きく、見開かれていく。

「リ、ヴァイ…さん……」
「エレン」
「どうして…!」

 疑問というより拒絶的な『どうして』だった。けれどまるでそうするのが当たり前のようにベッドから飛び出し、スリッパも履かずに駆け寄ってきたエレンを、リヴァイは思わず抱き締める。
 その様子を横目に、エルヴィンは行き掛けに寄った花屋で購入した花を取り替えるため入り口近くにある花瓶と新たな花を手に病室を出て行った。

「リヴァイさ…リヴァイさんっ……うぅ…っリヴァイさん…」
「…エレン」

 声が震えた。こうして泣きじゃくるエレンを抱き締めたのはたぶん、彼が今よりもっと子供の頃以来だ。リヴァイの腕のなか、もがくように、すがるように、泣き顔を押し付けてくるエレンをリヴァイは決して離さなかった。まだ数ヵ月も経っていないというのに、簡単に腕の中におさまってしまう細い躰が怖い。離してしまえば、それだけで白昼夢のように蜃気楼のように消え失せてしまいそうだと、リヴァイは思った。

「なん、で……どうして…? どうして、リヴァイさんがここに……居るんですか…」
「嫌か」
「いや…嫌だ、やだ……や、です…」
「会いたかった。エレン」
「っ…んなの! 俺だって…会いたかったです、よ……っだけど! 会えないからっ…だから我慢してたのに……っもう! 離して……帰って、ください…っ!」
「嫌だ」
「リヴァイさんっ……」
「俺に隠していることを話した上で、もう逃げないと約束するまでは離せねえ」
「……ひどい」

 そんなのはひどいです。あんまりだ。ひどい。涙声混じりにエレンはまた何度もリヴァイの名を呼んだ。あまりにも同じことばかり繰り返すので、壊れたレコーダーのようだった。

「れんらく…しようと、したんです……何度も…。でも、俺…出来なく、て……」

 ごめんなさい、と呟くエレンに何も言えなくて、リヴァイはエレンを再びベッドへ座らせその痩せた手を握り締めた。そうするとそっと握り返してくる、いじらしい姿は行方がわからなくなる前とまったく変わっていない。それでもこの場所はエレンの部屋でも無くリヴァイの部屋でも無く、脳外科病棟の一室である。予めエルヴィンから聞いていたことだというに、ただそれだけで絡めた指先は少し震えた。それは確実にエレンへと伝わってしまっただろう。ひくり、と喉を鳴らし俯きながらエレンが小さくも頼りない声で、ぽつりぽつり、話し始めたことによると、現在エレンの脳には腫瘍があるのだという、事実。リヴァイには、エレンの口から直接聞きたいことがたくさんあった。無論、謝りたいことも。だが何も適当な言葉にはならなかった。逃げるように身を隠していたエレンが何を考えていたのかをまず聞きたいと思っていたのに。

「……そう難しい手術というわけでも無いので…手術さえすれば、死ぬ、可能性は低いと言われました。でも、実際にどうなるかは手術してみないことには…わからない、ので……」

 そうして黙り込んだ、隣に座るエレンの手をもう1度ぎゅ、と、握る。いつだって冷たいリヴァイの手とは違い、エレンの手は子供らしくも常にあたたかかった。だから手を繋ぐその度に、リヴァイさんの手は冷たいです、とエレンははにかむように笑い、そのうちに混ざり合う体温のおかげでリヴァイの指先がエレンと同程度の温度になる頃には、握り続けている手を嬉しそうに眺めながらいつも咲ってくれていた。けれど今、リヴァイの手も指先も、いつまでも冷たいままで、エレンは若干笑みを溢しながらもひどく苦しそうな笑顔で、込み上げてくる何かに胸が詰まるような思いがした。リヴァイは無言でただ考えていた。自分には何が出来るのだろうかと。そしてどうにもならない無力さにどうしようもなく目眩を覚える。

 貴方にだけは知られたく無かった、とエレンは言った。会いたくなかった、とも。でも、会いたかった、と続けた。貴方に会えなくて寂しかった、とそう言った。

「だけど、会ってしまえばきっと、もっと寂しくなるんだって…わかっていました」
「…話してえことだけで構わん。俺に出来ることなら何でもしよう、エレン。何もかもおまえの望む通りにする。何もかもだ」

 そう告げれば、エレンの両腕がリヴァイの背中にまわり、まだ未発達な躰は堪えきれないようにすぐに震えだした。エレンはしゃくり上げ泣いている。エレンの脳に出来た腫瘍は記憶を司る部分を拠点に、徐々に広がっているらしい。脳にはそれぞれはっきりとした境界線があるわけでも無いために、手術しなければ確実に死は免れないのだと。だが人間にとって生きるということがどういうことなのか、という果てなき論争など置いておいても、エレンにとってのそれはどういうことであるのか。エレンは必死に訴える。

「確かに、手術をすれば俺は…俺の命は、助かるでしょう…たぶん高確率で。だけど記憶を失うかもしれない…し、言語機能にも後遺症が残れば喋れなくなるかもしれない。人格自体にも、影響が出るかもしれないと…そんなの、命だけ助かったって…俺じゃありません。自分のことや家族のことさえ覚えていられる保証も無いんですよ…?」
「それで俺にひと言も告げず、ミカサたちからも逃げたのか」
「……そうです…そんなの、あいつら絶対悲しむじゃないですか…。だけど、俺、は、それ以上に…っ! 俺は、リヴァイさんと…わか、別れたくっ…無かっ……!」
「エレン、俺は別れたつもりは一切ねえぞ。…こんなふうに、居場所もわからなくなったって」
「だって俺っ…リヴァイさんのこと、忘れちゃうかも、…しれないんですよ…!?」

 そんなものはもう恋仲とは呼べない。エレンは別れの言葉を語るだけの勇気が無かった。

「エレンよ。おまえが俺を忘れても、俺は別に構わねえ。俺が覚えているからな」

 それに忘れられたとしても生きていてくれさえすればまた、そこから出逢い、1から始められるのでは無いのか、と、リヴァイはそう思った。しかしそれはエレンの考えとはまるで違った。

「…俺は! そんなの嫌です!」

 泣き続けながら叫ぶ悲痛さに、胸が引き裂かれるように痛んだ。

「嫌ですよ…! 嫌に決まってるじゃ無いですか! もしかしたら、リヴァイさんは違ったかもしれない、けどっ……俺はずっと、貴方の傍らで、貴方といっしょに、生きていくんだと勝手に思ってましたっ…死ぬまで、ずっと、傍にいられるんだって!」

 エレンはリヴァイがずっとそう思ってきたことと同じことを言った。こんなときでこんな状況だというのに、同じ考えを抱いていた事実が嬉しく、リヴァイはそんな自身の不謹慎さに舌打ちをしたくなった。

「っ…だって、感情も無くなることもあるって言われたんですよ…!? 俺はもう2度と誰かを好きになることも愛しく思うことも、なくなるかもしれなくて…貴方の優しさに触れても、笑うことも泣くことも出来なくなるのかもしれないんです――それは、そんな『エレン・イェーガー』は…違う俺だ……ッ『別人』でしょう!?」
「それでも良いと俺が言ってもか?」
「リヴァイさんが良くても俺は嫌です…っそんな俺は俺じゃありません! リヴァイさんを好きで時々苦しくなるくらい愛してる俺じゃ無いなら、それは、そんな奴はもう! 俺じゃねえよッ!!」
「落ち着け、エレン。躰に障ったらどうする」

 すがりつく細い躰をきつく抱き締めながら癇癪を起こした子供をあやすように、リヴァイはその背をゆるゆると何度も撫でる。その都度ぼろぼろと零れ落ちるばかりの涙がまるで、エレンの蜂蜜色の瞳を溶かしてしまっているかのようでリヴァイは恐ろしくて仕方がなかった。

「腫瘍や手術の説明を受けて、もう死んでしまいたいと思った…! 貴方を忘れてのうのうと生きる人生なんか御免だと思った…! 事実、今の俺は死ぬんです…! 貴方を忘れて、真新しい別人になって! なのにそれでも生きろと父さんが言う! それでも息子には代わり無いと母さんが言う! …お願いです、リヴァイさん……せめて貴方だけは…俺のことなんか、もう…っ忘れてくださいよ…死んだと思ってくださいよ……っ!」
「無理なことを言うんじゃねえ。俺に出来ることなら何でもしてやるとは言ったが、俺は所詮、俺に出来ることしか出来ねえんだからな」
「そんな優しい言葉しか言わないならもう何も聞きたくありません! 俺は貴方との思い出もアルバムも処分しました…っ新しく生きる、今の俺じゃあ無い『エレン・イェーガー』なんかに、貴方を、リヴァイさんをっ…渡したくない!!」

 ひっく、ひっく、と止まらない嗚咽をあげながら耳を塞ごうとするエレンの肩をぐい、と引き、向かい寄せ、リヴァイは無理矢理に視線を合わせる。

「落ち着けと言ってんだろうが…馬鹿野郎。……いいか、聞けよ、俺は、いや、俺のほうがずっとおまえを好きだった。おまえの成長に合わせるように少しずつ時間を刻んで待ちわびて、ずっと、だ。俺は最後までおまえの傍にいる。おまえが幾ら逃げようとも。だから…手術後のおまえがおまえじゃあ無いだのと言うんなら、それまでは傍にいる。手術を無事に終えておまえの命が助かるまで、それまでは、俺のすべてはおまえのものだ。エレン」

 例えすべてを忘れたとしてもエレンの人生は病魔に脅かされはしない。神の存在の有無をリヴァイは考えたことも無かったが、つまり最悪の事態などでは無いのだ。リヴァイはエレンの左手を取り薬指のつけ根にそうっとキスを落とした。揃いのリングも何も用意していなかったがそれは確かに、永遠を誓う約束を込め、求めもする、くちづけであった。

「俺から逃げるなんざ諦めろ、エレン。おまえが、俺のよく知る、エレン・イェーガーであるうちは何があろうと添い遂げる。だから安心して手術に挑め。そのあとはおまえの望み通り、俺を愛さないおまえの前から消えてやる。手術後のエレン・イェーガーには接触しない。約束だ」

 優しい色づかいの病室でした誓いのキスは、いつかふたりで行った碧い碧い海のように、エレンの涙の味がした。




 気を利かせたつもりかリハビリテーションでの予約のぎりぎりまで戻らなかったエルヴィンは、目を泣き腫らしてもリヴァイの手を握り続けているエレンに、にこり、と微笑み、私の見舞品はきみの役に立ったかな、とどこかの二枚舌のように告げた。それだけで真っ赤になり布団に潜り込んだしまったエレンを無理に引っ張り出すことは流石に出来ずに、リヴァイは、早く行っちまえ、とエルヴィンを軽く蹴る。明らかに邪魔をされ不機嫌そうであったがそれでもリヴァイは面会時間の赦す限りいっぱいまでエレンの傍に居座り続け、時間が来ると心底忌々しげに今度こそ大きく舌を打った。

「エレン、明日も来る」
「……はい」

 観念した小動物の如きか細い声で返事をされる。病室を出る前にもう1度くちづけて、もう2度としてどんな瞬間さえ、どんなに些細なヒントさえ見逃さぬよう、網膜に焼きつけるようにリヴァイはエレンの顔を見詰めながらその頬を撫でた。胸が痛い。たったひとりきり、幼い頃のようにエレンがこの無味乾燥な部屋で何を想い何について泣いていたのかと、それを思えば、なぜもっと早く、あの頃――熱を出すカルラを想い不安に駆られひっそりと泣いていた、まだリヴァイよりもずっと背の低かった小さなエレンを抱き締めていた頃のように、気づいてやれなかったのだと、リヴァイは己を責めた。怖かったろう。不安だろう。そして何より寂しかっただろう。

「時間が足りない、といったところか」

 会社へ戻るべく走らされる車中で飄々とエルヴィンがそう言う。ふざけるな、とリヴァイは思わずにいられない。

「なぜ黙っていた?」

 問い掛けても、変わらずに

「言っただろう。エレンに口止めされていたんだよ。『自分が病気で、ここに入院していることを、リヴァイさんにだけは絶対に何も教えないでください』とね」
「それでも教えるべきだったとは思わねえのか、エルヴィン」
「思わないな。今でも、幾らおまえの様子を見るに見かねたからといって、会わせるべきでは無かったと思っているくらいだ」
「なぜ」
「おまえがいるからあの子は苦しむ」
「あいつを、独りで泣かせるわけにゃあいかねえだろうが」
「エレンはおまえの前でなら躊躇わず泣くようだ。そこまで好かれては、それはもう随分と可愛いのだろうね」
「……手ェ出してねえだろうな」
「人聞きの悪い。リヴァイなんかをあれ程つよく一途に愛しているような子に手を出す程、外道では無いよ。私は」
「よく言うぜ…おまえ、エレンを好きだろう」
「おや。よくわかったね。あの子は我慢強過ぎる。もっと大切にされるべきだ」
「おまえが何を企んでやがるのか知らねえが、あいつを泣かせたら殺す。必ずだ」
「怖いことを言う。しかし私の知る限り、彼を最も泣かせているのはおまえなんだがな。リヴァイ。それに――偶然は必然だと思うのか、と言っただろう」
「はっきり言え」
「いいのか? では、何度も言うが何もかも『偶々』なんだよ。私があの病院でエレンを見付けたのが偶々であったように、偶々おまえの部屋に寄った日に偶々彼が居て、私は彼に出逢った。フェアじゃ無いなどと思うなよ。私とおまえに起きた偶然の、いったい何がどう違うというんだ? リヴァイ、おまえは偶々イェーガー家の隣人で、だから偶々私より先にエレンと出逢うことが出来た。そうだろう? 偶々エレンに懐かれ、いつの間にかそうなった。必然だとか、或いはもしかしたら運命だとか錯覚しているかもしれないがそんなものは偶然に過ぎない。偶々カルラさんの躰が弱く、それで偶々独りっ子のエレンが、偶々隣に住んでいる歳上のおまえにまるで何でも出来る強い兄を慕うような憧れを抱くのは自然な流れだっただろう。その先は言わずもがな、だ。偶々つよく憧れた子供の気持ちを憧れ以上のものに昇華させることなど、大声をあげ全身全霊で泣いている赤子をあやしつけるより随分単純で簡単なのだからね。それでもおまえは、それを必然的な愛だとか、運命だとか、呼ぶのかい?」

 安い挑発だとは互いに理解している。だが薄闇の如く沈黙が落ちて、カーステレオから流れる流行りのラヴソングが、音量は頗る小さく設定されている筈なのにやけに耳障りで、煩くも鬱陶しく感じる。流れるように対抗斜線を走りゆく車の列によるヘッドライトと光が、元々健康的なとは言い難いリヴァイの横顔を、青白く照らし出していた。喉を落ちていく唾液さえまるで固形物のようで上手く飲み込めずに血の気が引いていくのが気持ちの悪い程わかりやすい。しっかりしろと自らを叱咤しながらも足に力が入らないことについてリヴァイは眉間の皺を深くした。

「例えおまえの言うように『偶々』だろうが何だろうが構わねえよ。何があっても、俺は、最後までエレンの傍らで共に居る」
「その『最後』とはいつなんだ?」
「……答える義理はねえな」
「友達甲斐の無い奴だな、おまえという男は。折角あの子の居場所まで案内してやったというのにそれは無いだろう」
「黙れ。狸め」

 それきり一声も発さなくなったリヴァイに、エルヴィンはやはり何食わぬ顔をして、はは、酷い言われようだ、と独り言のように苦笑してみせた。それについてもリヴァイは返事をする気も無い。





 そして。
 リヴァイはあれから毎日、時間が赦す限りエレンの見舞いに通うようになった。昼食時が最も多かったが、時には日付が変わるまで残業することにして夕方にも顔を出した。だが特にこれと言って重要な何らかの話をするわけでも無く、制限時間つきの恋人らしく甘い愛を囁き合うわけでも無い。ただ傍に居たい、というそれだけでそうした。それだけで充分な幸福でもあった。出来得る限り病室を訪れるリヴァイに、彼の仕事がほんとうはとても忙しいことを知っているエレンは手離しで歓喜することは無く、いつも少しだけ困ったような顔をして、けれどそうして変わらぬ笑みで咲うのだ。リヴァイが唇にくちづければ瞳を閉じ、手を握れば握り返しながらエレンはやや俯いた。いつも何かを言いたげに、でも結局何も言わずにただリヴァイの名を呼び震える唇は、いつまで経っても泣きそうになる1歩手前のそれであった。だから抱き締めるとリヴァイのシャツはその肩口が生ぬるく湿ってしまう。何れ程会っていようとも、何れ程傍らに添おうとも、エレンはリヴァイが傍にいる苦しみと喜びを抱えたまま、例え堪えきれずに靜かに涙を流しながらであったとしても決してそれを、リヴァイへ打ち明けることなどしなかった。代わりに息を詰めたような小声で言うのだ。

「リヴァイさん。リヴァイさん、リヴァイさん。好きです。リヴァイさん」

 確かめるように、失うかもしれない記憶に刻み込もうとするかのように。何度も、何度も。

 ドアを隔てた間近に他人の気配があることに気づきながら、リヴァイはエレンを抱き締めた。細い肢体が切なく、リヴァイの胸を締め付ける。外側からドアが開かれ、は、とエレンが振り返るがリヴァイはエレンを離さない。

「ちょ、リヴァイさん、離し…っ」
「あらあら。エレンくんのお兄さんですか? 仲が良いのねえ」

 素敵ねえ、と、採血に来たらしい看護師の女性が朗らかに笑ったが、エレンはわたわたと焦るばかりであった。

「兄弟ではありません」
「そうね、あまり似てないものねえ……ふふ、恋人かしら? いいわねえ」
「いえ、ただの婚約者です」
「なっなな何言ってるんですかリヴァイさん!」
「ほんとうのことだろうが」

 エレンの手術まで、という期間限定ではあるが。

「でも病室では慎んでくださいね。さて、エレンくん、血液採らせてね」

 ふふ、とまた笑う、この女性はどうやらエレンを抱き締め婚約者と名乗るリヴァイを嫌悪していないらしい。もしかすると、ただの冗談だとでも思い聞き流しているだけなのかもしれないけれど。それでもエレンは平常心でなどいられない。
 採血と検温を済ませた女性看護師が病室を出ていくと――エレンが平常心で無いばかりにいつもより手間取らせてしまった――やわらかな猫っ毛の仔犬がリヴァイを睨み、恨めしげに唸る。リヴァイは微笑んだ。

「何だ、エレン。俺が婚約者じゃ不服か?」
「そんな話じゃありません! もうっ…馬鹿! リヴァイさんの馬鹿!」

 変な噂とかたっちゃったらどうするんですか、と言いながらもぞもぞとベッドのなかへ籠城しようとするエレンの赤い耳許に、低く、しかし何の険もなく優しく囁く、

「悪かったな。兄だと思われるのは癪だった」
「っ……!」
「おまえと添い遂げることを誇示したかった」
「……ずるい…です…っ」
「赦せ、エレン」
「…う、うぅ……」

 そんなふうに囁かれてしまえば怒ることなどエレンには出来ない。

「だ、抱っこしてください…頭も撫でて」
「仰せのままに」

 リヴァイはエレンを抱き上げると、自らベッドに腰がけてエレンと体面するような形で膝の上に乗せる

「…重かったら退かしてくださっていいんですからね」
「重いわけがあるか。幾ら殆ど動いていなくてもおまえはもっとメシを食え」

 体力がもたなければ手術にも差し障るかもしれないというのにと抱き上げたエレンの髪に鼻をうずめた。ただでさえ未発達な躰が今はただひたすらに軽い。リヴァイはこの軽さが怖かった。

「動いてないのにいっぱい食べてたら、肥っちゃいますよ…俺」
「馬鹿か。病院食は栄養もカロリーもすべて計算されている。寧ろおまえはもう少し肥れ」
「もしもデブになっても愛してくれます?」
「当たり前だろうが。豚になろうと愛してる」
「……豚はひどいです」
「今は鶏ガラじゃねえか」

 互いに顔を見合せればエレンがくすくすと咲う。せめて散歩くらい出来れば良いのに、と思う。一時帰宅は勿論のこと外出許可さえ下りないのだ。現在のエレンにとっての外の世界は毎日、カーテンを開け放した窓越しに見える、中庭の景色だけであった。制限されているからこそ健康な頃は見もしなかった野花さえ美しい。窓際に移動させた切り花に誘われ蝶がひらり、とまる。シルバーグレーに輝く羽根。名はわからずともエレンはその色に惹かれるようで、リヴァイさんの目の色と同じです、と喜んだ。金糸を編んだような模様がエレンの瞳の色のようでもあった。限りがあるからこそ、会瀬の時間は穏やかに過ぎていく。互いに余計な事を話す必要などまったく無くて、些細な口喧嘩やら説教やらで無駄に過ごしても良い時間なんか1秒たりとも無い。ただ何れ程この穏やかさに、ぬくもりに、幸せに、身も心も委ねようと、常に意識している、必然的な終わりのとき。リヴァイは薄々わかっていた。なぜなら今日はいつもより随分エレンが甘える。

「リヴァイさん。俺…――手術の日程が、決まりました」

 ゆえに、そう告げられようともリヴァイの心は凪のようにそれを受け止めた。エレンもまた、靜かに微笑む。

「そうか。何事も無く終わると良いな」
「ありがとうございます」

 エレンのほうからリヴァイの手をつよく握りゼロ距離近くまで擦り寄る。こんなふうに素直に甘えてくるエレンが、リヴァイは愛しくて堪らなかった。

「手術が無事に成功し、おまえが生きて目を覚ますまでは、俺はおまえの婚約者だ」
「…リヴァイさん、」
「約束通り、おまえが目を覚ますまでに俺は消える。だが、だからそれまではおまえを独りにはしねえ」
「ごめんなさい…」
「謝罪すべきは俺のほうだ、エレン。ずっと、おまえを独りで泣かせちまった」

 エレンが気に病む必要など無いと、寄せたあたたかさを己だけは決して、何があろうとも何年経とうとも決して忘れてしまわぬようリヴァイはエレンにくちづける。何度でも誓おう、おまえを最後まで愛すると。それこそ、自身が死ぬまでエレンだけをただ愛すると。後悔は無いといえば嘘になる。なぜもっと早く気づいてやれなかったのか。自身の間抜けさと臆病さに、リヴァイは内心、自嘲する。だがほんとうにエレンに拒絶されてしまうよりはずっと良かった。偶々でも何でも、出逢えて良かった。見つけられて良かった。永久不変なものだと無意識に当然のように信じていたものは砕け散ってしまうのだろうけれど、でも永久不変の愛しさはリヴァイの内側に残り続ける。それで良いと心から思える。エレンが生きて、時にははにかむように、時には向日葵が咲くような顔で笑うように、幸せであってくれさえいれば。

 まるで『テセウスの船』である。

『テセウスの船』――別名『テセウスのパラドックス』とも呼ばれるそれは、プルタルコスによるギリシャの伝説を挙げたものだ。テセウスがアテネの若者と共に、クレタ島より帰還した船には30本の櫂がありアテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。そのため劣化し朽ちていく木材は徐々に、新たな木材に置き換えられてゆき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となったのである。ある者はその船は最早テセウスの船と同じ船だとは言えないとし、また別の者は否まだ同じ船であると主張した。プルタルコスはテセウスの船の部品がすべて修繕により置き換えられたとき、その船はほんとうにテセウスの船であるのかという疑問を投げかけ、且つここから派生する問題として、置き換えられた古い部品を集め何とか別の船を組み立てた場合、ふたつのうちどちらがテセウスの船なのか、という疑問さえ生じる。つまりある物体のすべての構成要素(部品)が置き換えられた場合、基本的に同じであると言えるのかという思考である。
 貴方を忘れて生きる自分はもう今の『エレン・イェーガー』では無いのだと、別人だと、喚き泣きながらリヴァイにすがった病室で、リヴァイは、いつだったかエレンが執拗に聞きたがった、『例えば顔がぐっちゃぐちゃになって、それを俺だと誰もわからなくなって、で、更に俺が、自分自身のことは勿論ながらに、絶対に忘れたくないですが貴方のことを含めすべて何もかもほんとうに忘れてしまったとしたら』――愚問と一蹴したあの台詞の、否応無い切実さに謝罪したくもあったのだ。だがしなかったのは、想定していなかったことについての謝罪の気持ちはあろうとも、答えは変わらない、と断言出来たからであった。

「エレン、俺はおまえがどんな姿になろうがどんな人間になろうが、愛さずにいられない」

 だから、エレンは、リヴァイを忘れてしまっても、良いのだ。





 手術後に、グリシャから1度だけ連絡があり最早リヴァイは近寄ることも無いのだろうと思っていた病院の敷地内、散歩道のベンチに呼び出され腰を下ろしていた。彼はリヴァイが何れ程エレンのために心を砕き慈しんだかを知っている。

「リヴァイくん、きみは誰よりエレンを大切にしてくれていた。だから私には結果を告げる義務があると考える。手術後は一切の接触を断つとあの子の我儘を最後まできいてくれたきみだからこそ」
「グリシャ、俺はエレンの望みならば何だってすると誓った」
「ああ。先に結果を言おう。手術自体は複雑なものでは無かったからね、無事に成功したよ。腫瘍の大きさだけが問題だった。あの大きさの腫瘍を切除して、後遺症が記憶障害しか見られないというのは奇跡に近い。退院しふつうに暮らせるようになるには、まだまだ時間がかかってしまうが、だが私とカルラの息子は生きている。記憶を無くし、私たち家族の顔は勿論、手術前までの記憶を一切失って、自分の名前さえも忘れてしまったが。それでも日常生活で必要な知識は少しだけ残っている。例えばスプーンという名称を覚えていなくとも、それを食事につかうものだと知っているように。ミカサやアルミンにも詳細を話した上で、来て貰っている。幼い頃からの、3人で写っている写真も、彼女たちはエレンに見せながらとても根気強く説明してくれて。……ただ、きみとの写真だけがどこにも無い」
「エレンが自分ですべて処分したと言っていた。新たなエレンの未来に、俺の居座る場所はねえ。エレンがそう望んだんだ。グリシャ。俺は手術後のエレンには会ってはならない――今ここに居ることも黙っていてくれ」
「ほんとうに…もう2度として会わないつもりなのか。エレンはそんな約束をしたことさえ覚えていないのに?」
「会えば俺は誓いを破ったことになる」
「……きみは、それで良いのか?」
「良い。エレンが生きていて、笑っていてくれるなら」

 そうして話しているうちに、あのときの女性看護師に付き添われながらゆっくりと院内から出ようとしているエレンの姿が大窓越しに見えた。傍には、既にリヴァイにはわかりきっていた、エルヴィンの姿があった。中庭に出ることは赦されたのだろうか、エレンの乗る車椅子をエルヴィンが押している。
 ああ、声が。

「え! てことは俺、もう少し回復したら歩いても良いんですか?」
「勿論よ。激しい運動は出来ないけれど躰は動かした方が回復が早いし、何より脚の筋肉が衰えてしまうといけないから。リハビリは長くつらいものになるでしょうけど、きっとエレンくんなら大丈夫よ」
「良かったね、エレン」
「はい! ベッドに寝ているだけじゃあ退屈ですし」

 エレンは咲っていた。向日葵のように太陽の似合うその笑顔も快活な口調も、何も変わってしまってなどいない。人格自体に影響が出るような事態にはならなかったらしい。リヴァイは安堵する。ほんとうに、良かった、と。
 ただ現在の、あのエレンにとってリヴァイは知らない他人である。あ、父さん! とこちらに気づきグリシャへ軽く手を振りはしたが、隣に居るリヴァイのことはグリシャの知人か何かなのだろうとそれ以上寄ってこようとはせずに、その視線がリヴァイと合うことも無い。

「あれ、エルヴィンさん。蝶々です! 飛んでます!」

 あそこ! 見てください! と真逆にある花壇のほうへ顔をやり、ベンチに背を向けながら好奇心に抗わぬエレンに、看護師が、ふふ、と笑う。
 エルヴィンさん、あれは何ていう蝶ですか?
 さて、私もよくわからないな、次までに調べておくよ。
 はい! お願いします!
 そんなに気に入ったのかい? エレン。
 だって羽根がシルバーグレーでしたよ! 凄くきれいな色です!
 遠去かっていく声に、未練が無いと言えば嘘になる、けれど。それでもエレンは生きていて、あんなにも楽しそうに笑っているのだ。呼ぶ名は最早リヴァイのそれとは程遠いが、しかしこれは最悪な結末では断じて無い。寧ろグリシャが奇跡だと言ったように、最善の結末に近いのだろう。

「今日のようにね、あの看護師に付き添われて車椅子で院内を散策していたエレンが、売店前で出逢ったらしい。エルヴィン・スミスといったかな。彼もエレンの手術より以前からの知人だそうだ。前にも偶々ここで会ったと、そう言っていた。とてもエレンに良くしてくれてエレンも懐くものだから、リヴァイくんの友人かと私は思ったのだが」
「…友人じゃねえ、上司だ。俺の家でエルヴィンとエレンが鉢合わせしたこともある。エルヴィンは偶々昨年事故で骨折しちまって、ここのリハビリテーションに通っていた」
「そうか、『偶々』か」
「そうだ。『偶々』だ」

 ――何もかもが。

 リヴァイはあの日の帰路での会話を思い浮かべる。

 ――リヴァイ、おまえは偶々イェーガー家の隣人で、だから偶々私より先にエレンと出逢うことが出来た。

 態々言葉にして言われずともリヴァイは理解していた。知っていた。偶然は、必然でも無ければ運命でも無いのだと。それゆえただ真っ直ぐに願うのである。エレン・イェーガーの、これからの人生に幸多からんことを。最早リヴァイには願い、祈るだけしか叶わぬことだけれど。誓ったのだ。『最後まで』添い遂げるのだ、と。だから、エレンは、リヴァイを忘れてしまっても、良いのだ。
 西日が眩しく、目を細めるリヴァイへグリシャは言った。

「リヴァイくん。エレンが時々寝起きに泣きながら言うんだよ。『何があっても忘れたくないと叫びだしたくなる誰かがいつも傍らに居てくれたような気がする』とね」
「……そうか。『偶々』おかしな夢を見るだけだ、気にするな、とでも言っておいてくれ」

 結局未だに、エレンを1番泣かせてしまっている人間は自分なのかとリヴァイはその皮肉さに自嘲して、エレンの幸いを願う気持ちは本心なのに、それなのに浅ましくも、手術前のエレンが『リヴァイを渡したくない』と子供の独占欲丸出しで泣き喚いていた事実に、ほの冥い悦びすら感じた。もう会わない、もうあの笑顔を見ることも無い、もう煩い程の声で、名を連呼されることも無いのだ。少なくともリヴァイはずっと幸せだった。エレンを愛し愛されたことだけでこれから先を生きていける程に。『テセウスの船』のように。リヴァイにとってエレンという存在は、幾ら新たな木材に置き換えられ、誰が何れ程、或いはエレン自身もが『その船は最早テセウスの船と同じ船だとは言えない』とつよく主張しようとも、否、変わらず愛しくも、帆を風にはためかせ真っ直ぐに進んでゆくべき同じ船である『テセウスの船』だった。

   



長サンド同盟』参加記念に『よもぎ餅』のあすみさんへ捧げたくておっサンド書いていたのですがもう1作のほうが行き詰まってしまったので同時進行でこちらを書いていたら先に仕上がっちゃった件(スミマセン)。あすみさんのみ返品・書き直し依頼OKです。奇跡では無く人間の脳は未だ解明されていない不可思議な現象を起こすので(例えば脳の半分を失っても残りの半分が全部引き受けて健常に動くとか、ばらばらなパズルのピースのようになった脳を掻き集め頭蓋のなかにぶっこんだら全部繋がったとか)リヴァエレ的に考えるなら今後エレンが記憶を取り戻すこともあるかもしれませんがこの話のリヴァイさんは多分この後、連絡先も住居も変更する気がします。もしかしたら海外部署を希望して単身、ずっと遠くへ赴任しちゃうかもしれない。『手術前のエレンとの約束を護るためだけに』きっと死ぬまで過去のエレンと添い遂げるんじゃないかなあ…と。
ところでコレ、おっサンドというよりモドキな感じですね…!わああすみません!でもおっサンド愛は詰まってますので宜しければ受け取って頂ければ幸いです。
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