<概略>
ショタエレ特殊設定パロ/リヴァエレ有利おっサンド+モブエレ/先天性両性具有のエレン(可哀想)/モブエレ微性描写有り/差別的と取られる可能性のある表現/イェーガー夫妻処刑死/宗教習慣に関する誤った表記有り/でもハッピーエンド/ある意味『調査』兵団/






   

 エレン・イェーガーは、外の世界を知らない。ここは、洞穴につくられた座敷牢だと云う。その名前すら、エレンは数年前まで知らなかった。この樹海のなかにある閉鎖的な村は、子供が生まれると6歳までは両親の元で過ごすが、6歳になった誕生日から10歳になるまで、共同体にて養育されていて、11歳から上の子供が1人に1人ずつ付き風呂や食事を世話する『世話役』をさせられる。だからエレンも6つになって初めて『世話役』と暮らすようになって、『穢れ』であると気付かれるまでは、言葉や文字などもふつうに教えて貰っていた。そうでなければ、今頃は会話をすることも出来ない状態だったろうと、親友だったアルミンは言っていた。アルミンは、ミカサと同様、この村落にて生を受けた幼馴染みだ。本来『穢れ』だと知れた者には、『世話役』の者以外は近付いてはならないとされているが、彼は優しく胡散臭い笑みを顔に張り付けては、エレンを『穢れ』であると日々侮蔑的な対応をした。この座敷牢に閉じ込められ、『穢れ』を生んだ上に6歳までそれを隠蔽し、何よりエレンが6歳になる前に家族で逃亡しようと幾度も画策したとして、エレンの両親は、まだ幼いエレンの目の前で、十字に貼り付けられ『火炙り』の刑にて『公開処刑』された。そんなエレンに同情し、アルミンとミカサは交代で、村落の人間には内緒で時々、会いに来てくれていた。村落では、エレンは忌むべき『穢れ』であり、はやく『神降ろし』の儀式をして祓わなければならない存在だ。しかし親友2人にとってはエレンはふつうの子供で、哀れな子供でもあったのかも知れない。大人たちや『世話役』の目を盗み、綺麗な花や、文字の書いてある『本』を土産に持ってきては、普段独りきりのエレンを、楽しませてくれた。エレンが喜ぶものを探しては、彼らはこっそり持ち込んでくれた──それらが嬉しくて、エレンは彼らにきちんと警告しなかった。それに、エレン自身そこまでのことが起こるとも思っていなかったのだ。
 幼馴染みたちがエレンの元へと来ていることが発覚し、彼らの姿はもう見えなくなった。その状態を、『世話役』の者は「『穢れ』が伝染っていないか再検査したのち、家族共々『永久追放』された」と言った。エレンを置いて追放されてしまったあの優しい幼馴染みたちが、消えるように居なくなり最早一生会えないという現状が、エレンには切なくてならなかった。
 『世話役』の者に与えられる、日に2回、朝晩のシンプルと呼べば聞こえが良いがひたすら質素な食事を分けてみれば、気紛れにここに居ついたしなやかで美しい生き物が居る。それを『仔猫』だと教えてくれたのも、アルミンとミカサだった。

「……また、俺たちだけになっちまったなァ。なあ、クロ……」

 アルミンは、誰も居なくても、話すことをやめぬようにエレンに言った。そうしないと『声帯』が機能しなくなって、声が出なくなるかも知れないのだと──また、話すことは『救い』になるとも言っていた。『救い』の意味はエレンには難しくていまいちピンとこなかったが、エレンは仔猫──ならぬ、育った猫に話し続けた。猫の名はクロと言う。その真っ黒い闇色の姿から、安直に名付けた名だ。黒々とした上質な毛並みが良いのは、毎日、エレンがブラッシングでの世話を怠らなかったからだった。

「あいつら、どこに追放されちまったんだろうな……。俺が死ぬ前にまた、会えると嬉しんだけどな」

 しかし、エレンはもう知っていたのだ。エレンとクロを、彼らが黙って置いていったりしないということを。にゃあおにゃあおと鳴いて、黒猫は格子越しにエレンの手を舐めてくれた。
 『穢れ』としてここに閉じ込められてからエレンに最初に触れたのはこの猫がまだ小さかった頃で、幼馴染みたちが『追放』された現時点では、最後もこの猫になってしまった。それを喜ぶことが出来ないのは、きっとエレンが『寂しい』からなのだろう。
 ──両親や幼馴染みたちは、エレンにたくさんの言葉を与えてくれて、同時に幾つかの感情も教えてくれた。おかげでエレンは『寂しい』を知ってしまったから、ここに居ることがつらいと思うようになってしまったのだ。アルミンが、いつか外へとエレンを連れて行ってくれると言ったとき、エレンはほんとうはここから出るつもりはなかったのだと自身でも思う。ここは生温くて、暗くて、淀んだ場所だ。村自体があまり長い時間は陽にさらされず、息をするとじめじめした大気が肺に入る。
 だから、外の急流を、泳ぎきれる自信がエレンにはなかった──ひきこもって目を閉じて、次のことが起こるのをただ待っていた。

 そんなある日、エレンの居る場所におひさまが訪れた。おひさまを見るのは、幼い頃以来だ。この座敷牢にも一応は光は差し込むのだが、直接見ることは出来ないのだ。
 アルミンの髪よりずっときらきらする金糸の短髪は、おひさまの光としか思えない。宝石のような色をした、瞳は、天体に浮かぶ星の輝きだとしか思えない。その宝石のような瞳を覆うのがきらきらするものなのは、きっとおひさまを『穢れ』である自分がはっきりと見たら目が潰れてしまうから。そうならないようにするために違いない。

「私の名は、エルヴィン・スミスというんだ。きみの名は?」

 俺は、誰だろう──? 今まで誰も、こんな難しいことをエレンに尋ねた者はいなかった。おひさまがエレンを見詰めるから、焼けてしまいそうな気がする。

 『穢れ』が俺なのだろうか?

 『世話役』の青年は、エレンの名など吐き捨てるように『穢れ』と呼ぶ。クロは当然エレンのことを言葉では呼ばないし、もう居ない両親や、幼馴染みたちはどうしていただろう──大きな花弁の青い綺麗な花を、持ってきては、エレンはこれによく似ているね、とアルミンは言っていたっけ。

「エレン、です。……エレン・イェーガー」

 この村にはもう、イェーガー姓を名乗る者はエレン以外居なくなった。エルヴィンは棘を全部抜いた青いソウビを1輪、エレンに手渡してくれた。そして、彼の生まれた国には、もっとたくさんの種類の花があると言う。いつか村の外の世界へエレンを連れて行ってくれると、野原一面の青い花を見せてくれると、いつだったかアルミンも言ってくれた気がする。

「へえ、エレンか。可愛い名だね。……どうしてこんなところに居るんだい? 独りぼっちで」

 言ったのに、アルミンももう居ない。エレンはおひさまの前で、黙ったまま俯いた。おひさまの名前は、エレンにとってはとても難しくて、上手く発音出来なかった。代わりにエルヴィンは、『えるびん』と呼んで良いと教えてくれた。

「えるびん、さん、」
「……エレンは、笑うと可愛いんだね」

 エルヴィンは、にこにこと笑いながら話しかけてくれる。アルミンとミカサは、エレンがここに居ることにいつも憤っていた。そのことが心苦しく、でも嬉しかった。

 ──えるびんさんには、怒りは似合わないな。

 おひさまには、笑顔こそが、相応しい。
 寒々しいこの場所が、何だか暖かくなる気がした。

「ねえ、……どうしてこんなところにいるんだい? エレン」

 大きな手で、エルヴィンは座敷牢の格子をがくがくと揺らす。丈夫な木で出来たそれは、彼の手だったら取れるんじゃないかと思う程に揺れた。しかし矢張り頑丈に作られた格子は、揺れるだけで、外れはしなかった。

「俺がここに居ないと、良くないことが起こるらしいから」

 『穢れ』が村落にいると、村落自体が穢れてしまう。けれども『穢れ』を祓う儀式によって、村落は栄えるらしい。祓うための儀式を行えるようになるまで、エレンはずっとここに居なくてはならない。『神降ろし』は幼いと出来ないらしいので、エレンが大きくなるまで──エレンとしては6歳からこの座敷牢に入れられてから、もうかなり大きくなったと思うのだが、『神降ろし』の儀はまだなのだろうか。考え込んでいるエレンの手を、エルヴィンは格子越しに握った。

「では、私が助けてあげようか。こんなところにずっと居たら、黴で肺病になるかも知れない。し、何より、つまらないだろう。きみはもっと、外の世界を知るべきだ」

 両親も幼馴染みたちも居なくなって、クロ以外でエレンに触れたのはエルヴィンが初めてだった。『世話役』の男は食べ物を格子のなかに入れてくれたり、数日に1度は早朝の、誰もが眠っている時間に井戸で水浴びをさせてくれるが、そういう『お役目』以外では、エレンに絶対に近寄らない。エレンと言葉を交わすのも、ほんとうは恐ろしいらしくいつも無言だ。幼馴染みたちが『永久追放』になったと聞いてエレンが食い下がったときも、顔を背けながらエレンに返事をした。否、返事ではない。おまえなんかと関わっていたばかりに奴らは不幸になったんだ、全部おまえの、『穢れ』のせいだ──と、そう言い放っただけだった。

 ──もしかしたら、俺はほんとうは、すごく醜いのかも知れない。

 優しい言葉をかけてくれた幼馴染みたちや、エルヴィンがそれを言わないだけで、見るのも嫌なくらいに醜いのかも知れない。エレンは、そうっと、エルヴィンの大きな手から自分の手を抜いた。

「ん? どうしたんだい、エレン」

 触れられるのが、怖い。

 それを言葉にすることが出来ず、エレンは黙って首を振った。そんなエレンをエルヴィンはじっと見て、頷く。

「私は、ここの近くの集落に泊めて貰っているんだ。地質調査に来たのに、いやはや迷ってしまってね。だから……集落の人たちには内緒で、毎日来るよ。この格子を壊して、エレン、きみを、外に連れ出してあげたいと思っている」

 まぶしいおひさまは、そう言って笑いながら帰っていった。

 エレンは、夜が怖い。真っ暗な闇は、何を隠しているのかわからない。6歳になった頃、エレンがここに閉じこめられたのも、夜の出来事だった。村落では、6歳の誕生日から子供は全員同じ家に暮らす。大きな子供が、幼い子供の面倒をみるのだ。自ずと担当のようなものが出来て、エレンの担当だった大きな子供が、悲鳴を上げて、村落の大人たちを呼んできたのだ。そのまま大人たちは真っ青な顔をして、直ぐにイェーガー夫妻を処刑してからエレンをここに閉じ込めた。あの夜から、エレンはここから出ていない。エレンは『穢れ』で、『穢れ』と接していた過去がある者も、また『穢れ』とみなされるらしい。そのため、エレンの『世話役』の係は、子供の頃の担当だった男だ。毎日2回、彼がエレンから顔を背けながら質素な食事を渡しに来る。歳若いわりに屈強な肉体は農作業などでも重宝するだろうに、『穢れ』と接した過去があるから、このような作業をさせられているのだ。それを、エレンは、申し訳なく思う。自分と接することがなければ、この男も皆と同じく、ふつうに暮らしていたのだろう。両親や幼馴染みたちに申し訳なく思うのとはまた別の形で、エレンは毎日罪悪感を覚えるのだった。

「やあ、エレン! 今日は、これを持ってきたんだ」

 エルヴィンは、あの日から毎日エレンのところに訪れる。楽しそうな顔をして、幼馴染みたちと同じように土産を持って。幼馴染みたちは花や本を持ってきてくれることが多かったが、エルヴィンはいろんな物を持って来てくれるので予測出来ない。夜空の星のような瞳を輝かせて、時には虫を、時には土塊を持って来たりもする。それに付随して彼が話す逸話が面白いので、エレンにもその土産は輝いて見えた。

「これ、は……、なんですか?」
「ほら、口を開けてごらん」

 エレンはエルヴィンの言う通りに、口を開けた。彼の手にあった小さな塊は、エレンの口のなかに落ちる。

「──え、あ、……?」
「砂糖菓子だよ。美味しいかい?」

 嬉しそうな、彼の顔。エレンの口のなかいっぱいに広がる、甘い味。小さなつぶつぶは、すべて甘味の塊らしい。エルヴィンはエレンの様子を見ながら、持ってきたものを入れてくれる。

「あ、まいです……」

 必要最低限の食事しか摂ることがないエレンには、甘味は珍しいものだった。思わず、笑みを零してしまう。

「──矢張り、女の子は笑顔で居るのが可愛いね」

 エルヴィンが笑顔で言ったから、エレンは慌てて訂正した。

「お、俺は、男です! えるびんさん!」
「エレンはジョークが下手くそだなあ」
「ち、ち、違います! ほんとうに男なんですっ!」

 エレンが叫ぶと、エルヴィンはきょとんとしてから頭をかいた。

「すまない。ほんとうに女の子だと思っていたんだ、私の失礼を許してくれるかい?」

 そんな優しい言葉に、許さないなんて言えるわけもない。

「お…怒ってはないです。わかってくださればいいんです。頭を上げてください、えるびんさん」

 しゅんとしているエルヴィンの顔が切なくて、エレンは彼の手から菓子を奪った。瞳を瞬いている彼に、口を開けるように示す。エレンが考えていることがわかったのか、彼は笑いながら唇を開いた。格子越しに、エレンはそこへと菓子を落とし込む。

「こんなにも美味しい物を持ってきてくださった方に、怒ってなんていられません」

 宝石の瞳と見詰め合い、暫くふたりは笑い合った。
 そうして、エルヴィンは持ち込んだ道具で、少しずつ格子を切り始めた。アルミンがいつか外へと連れて行ってくれると言ったとき、エレンはほんとうはここから出るつもりはなかったのだと思う。ここは生温くて、淀んだ場所だ。外の急流を、泳ぎきれる自信はなかった。ひきこもって目を閉じて、次の試練が課されるのをただ愚鈍に待っていた。
 だが、今は違う。外にある筈のおひさまをもう1度、見てみたい。エルヴィンの金色と同じくらい、矢張り綺麗なのか。もう1度だけで良い、見てみたい。エルヴィンの髪色や瞳の色と同じくらい、きらきらと輝いているのか。

「エレン、準備はいいか?」

 エレンは頷いて、ついに折れた格子をくぐった。萎えきったエレンの脚は覚束ないが、エルヴィンが確りと支えてくれる。

「集落は危険だから、このまま樹海の外へ出よう」

 エルヴィンの言葉に、頷く。暗闇はこの洞穴まで入り込んでいて、その闇がエレンを怯えさせた。クロがエレンに近付き、問いかけるようにこちらを見ている。

「おまえも、いっしょに、行ってくれるのか? クロ」

 にゃあお、と鳴いて付いてきたことが、きっと答えだ。エレンは嬉しくて、脚に痛みを感じながらも咲ってしまっていた。地質調査で山には慣れていても、エルヴィンはこの村のことはよく知らない。エレンは樹海どころか、この村落の知識すらろくにない。どこまでも暗い夜だった。エレンたちはそんな山へと飛び出した。勢いで座敷牢を飛び出したエレンを救ってくれたのは、クロだった。食事をエレンと分け合う以外の姿を知らなかったが、この小さなナイトは地面の臭いを嗅ぎながらどんどん進んでいく。エルヴィンによれば、クロが目指しているのは村落とは別の方向だそうだから、エレンたちの意図がわかっているのだろう。

 村落の人間に見付かってしまったら、どうなるのかはわからない。

 ただ、あまり良い結果にならないであろうことは、何も知らぬエレンにだって予測出来た。エルヴィンは、どこまで理解しているのだろう。エレンの両親のように、『処刑』されてしまったらどうしよう。アルミンやミカサのように、2度と会えなくなったらどうしよう。エレンは震えながら、エルヴィンにしがみつく。自分のせいでエルヴィンを危険に晒してしまうのは、きっと悪いことだ。エレンは責任を持って、エルヴィンを護らなければならない。

「エレン、怖いのかい? 大丈夫だ。私がついている」

 そう、怖いんです。
 あなたを、護れないことが──。

 その言葉を口にはせず、エレンはどうにか微笑んだ。暗闇では殆ど見えないが、それでもエルヴィンが、エレンの笑顔を喜ぶことを知っている。エレンは努力して、笑うことを覚えた。

「……エレンは靴がないんだな。痛いだろう?」

 素足でよたよたと歩くエレンを見かねて、エルヴィンはエレンの躰を全部その背に背負ってくれた。申し訳なくてエレンが詫びると、きみは風みたいに軽い、もっとご飯を食べなきゃ駄目だと笑われる。暗闇を『穢れ』と下るなんて大変なことをしているのに、エルヴィンはどこまでもおおらかだ。その輝きがまぶしくて、この闇すら晴れるのではと思う程だった。

「無事に樹海を抜けられたら、私の国に行こう? きっと、エレンは驚くよ」

 エルヴィンの話す彼の国は、アルミンから貰った本に書かれていた世界とはまた違った、お伽噺の国のようだった。端の見えない夜を渡りながら、エレンはエルヴィンの国と、彼自身について知っていく。地質調査が何のためか知らなかったエレンは、彼が『金』を探しているのだと知った。『金』と、『夢』とを。

「出てくるのは、ほんとうは『金』ではなくてもいいんだ。私は、『遺跡発掘』だってしてみたいしね。でも、何をするのにも『金』は必要なんだ──それは、いやって程思い知らされたからね」

 最後の言葉は、殆ど聞き取れなかった。ただ、彼が『金』と『夢』を探しに旅をしていてくれたから、自分たちは出会えたのだ。そう思うと、エレンは『金』も『夢』も大好きになった。クロの先導で、エルヴィンは闇のなかを危なげなく歩く。確かなその足取りに、エレンの心は軽くなっていく。

 あの座敷牢を、俺はほんとうに出てもよかったのか。『穢れ』である俺が野に放たれることは、恐ろしいことを生んだりしないか──。

 そんな迷いもあった筈なのに、エルヴィンが大好きな食べ物について話しているのを聞いていると、それが馬鹿らしく感じられた。エレンの手は小さいけれど、エルヴィンの手と同じ手だ。エレンの躰は小さいけれど、エルヴィンの躰と同じ躰だ。特別な力がある訳でもない自分に、どんな恐ろしいことが出来るだろう。有り得ないと、外の広い世界に出ることを思う。『神降ろし』をしなければならないと言われていても、エレンは『神』を知らない。そんなこと、出来よう筈もない。

「エレン、エレン! やったよ、樹海から出られた!」

 松明の、光が見えた。
 ふたりは無事に村落から逃れられたと、喜び合った。出会った麓の村人の家に、好意で泊めて貰えた。助けてくれたクロを家に入れて貰えないのはつらかったが、クロはふりふりとしっぽを振って応えてくれた。興奮して眠れなさそうだったエレンとエルヴィンは、くたびれていたのだろう。貸して貰った布団で、ぐっすりと眠った。
 エレンが目覚めたのは、クロの威嚇の吠える声だったのか。或いは隣に寝ていた筈の、エルヴィンの気配だったのか。
 暗闇のなかで目を瞬けば、そこにはらんらんと光る幾つもの目玉があった。

「──ひ……っ」

 悲鳴を上げてエルヴィンのほうを見ると、彼は口と身体中を縛られていた。宝石のような瞳が、切羽詰った表情でエレンを見ている。エレンは慌てて駆け付けようとして、後ろから掴まれた。エルヴィン以外の人間に触れるのは、久し振りだった。

「ガイジンさん、『穢れ』を『穢れ』のまま外に出して、何をするつもりだったんだ? 『神降ろし』が済むまで、出したらまずいのに、困ったことをしてくれましたね」

 その声には、覚えがあった。振り返れば、声の主は矢張りエレンの幼い頃の担当で、現在の『世話役』だ。大きな青年に育ったその男は、エレンの両腕を痛い程に強く掴む。

「コレは『穢れ』であって、『人間』じゃあないんですよ。あそこに入れておかないと、祟るんです」

 男の言葉に、エルヴィンは怒った顔をして首を振る。エレンは人間だと、言ってくれているのだ。嬉しくて、悲しくて、エレンは視線を逸らした。周囲の瞳の持ち主は、殆どが村落の人々だった。なかには、この家の主もいる。おそらく、通じていたのだろう。うなだれるエレンを、男はますます強く掴む。

「──知らなかったんですね? コレは、ふつうの『人間』じゃあないんですよ。ガイジンさん」

 言うと男は、いきなりエレンの脚を抱えた。背後から両脚をふたつの手に抱えられて、奇妙な姿勢に、エレンは暴れる。だが力が強い男は、そんなふうに暴れるエレンの両脚を、なんとエルヴィンの目の前へと向けて開いた。

 不浄の場所が、顕になってしまう!

 強い腕に逆らって、エレンは暴れ続けた。纏っていた赤い襦袢が乱れて、エレンの薄い胸板も剥き出しになる。帯以外の部分を殆ど露出させられて、エレンは抗議の声を上げた。が、

「男と同じ、何もない胸と──」

 エレンの両脚を開いたその奥を、男はエルヴィンへと突きつける。汚い、恥ずかしい、と震えるエレンは、そのときやっと気が付いた。笑顔しか知らない、エルヴィンの顔が──明らかに凍りついている。

「わかったでしょう? 小さい竿と、尻の穴との間に……男にはない膣──穴ぼこがある」

 ざわざわと、周囲から声がする。『穢れ』だ、だから『穢れ』なんだと、声がする。エレンは、エルヴィンと同じ男で、同じ躰を持っている──同じ、男だ。彼らの言葉の意味がわからず、エレンは自分を抱える男を振り返る。普段は滅多に会話もしてくれないのに、今はその黒々しい瞳をぎらぎらと光らせながら、男は言った。

「おまえは、男じゃあない。男の竿と女の穴ぼこがある、『穢れ』だ。……『神降ろし』で男女のどっちかが決まらない限り、いつまでもずっと『穢れ』だ」

 ──俺が、男では、ない?

 そんな、想像もしていなかった話に、エレンは慌ててエルヴィンを見返した。開かれたままの脚をもう見ていないエルヴィンは、エレンの顔を見詰めて首を振る。

 大丈夫だ、心配しなくていい。

 その宝石の瞳はそう言っているようで、エレンは震えながら頷いた。

 ──俺が、男では、ない?

 『世話役』も、エルヴィンも、初めて顔をあわせたときに、エレンを女と間違えた。エレンは顔が母親に似ているから、仕方がないと思っていた。平べったい胸も、小用をする部分も、エレンはきちんと男だ。だからそんなことは、疑ってもいなかった。身体のそんな部位を、確かめたりなんかしない。しかし、そういえばエレンが座敷牢に閉じ込められたのは、幼い日にこの男にそこを見られた日の深夜だった。当時は閉じ込められることとの関係がわかっていなかったが、そこの部分が完全な男ではないから、自分は閉じこめられたのか。ぐるぐると、エレンの頭のなかで言葉が回る。何だか急に、吐きそうになった。

「『穢れ』の『神降ろし』は、ほんとうはもう少し先の──コレに初潮がきてからの筈だった。でも、あんたがこんなことを仕出かしたから、清めのためにさっさと『神降ろし』をしなきゃならなくなってしまいました」

 男は、エルヴィンに話し掛けながら、エレンを布団に下ろした。そのまま、いきなりエレンの腹を殴る。痛みと吐き気と同時に、意識が薄れていく。

「次に会うのは、『神降ろし』だ」

 エルヴィンが心配でそちらを見たかったのに、エレンの意識はそこまで持たなかった。






 目を覚ますと、エレンは、白い襦袢を着せられていた。そして幼い頃に見た村落の滝壺に、縛られたまま突き落とされた。もがいても、縛られたままでは沈んでいくばかりだ。冷たい水をいっぱい呑んで、エレンは苦しむ。暫くすると、『世話役』が縄を引いてエレンを持ち上げる。やっと息ができると咳き込んで水を吐くと、再度、滝壺に落とされる。
 もう、それを何回繰り返したのかわからない。
 涙も涎も、すべて滝壺の水で流される。凍えるように冷たかった水が、感覚が麻痺してわからなくなっていく。躰は芯まで冷えて、芯まで苦しみで満たされて、エレンは漸く、その水責めから解放された。縄を引かれて、滝壺の傍にある、小さな小屋へと連れて行かれる。エレンは見たことのないいろいろなものを置かれている場所で、手の縄を固定された。

「な、なに、を、……す、るん、で、すか……?」

 エルヴィンは、別の場所に閉じ込められていると聞いた。『神降ろし』をする期間、血の穢れを忌むからだという。意味が分からなくても、彼が無事なら良い。けれど自分は、これから何をされるのか。男が『神降ろし』と言う度に、寒気がする。きっと恐ろしいことだろうと、エレンでさえ理解出来るからだ。

「──孕むか孕ませるかするまで、おまえは『穢れ』だ。だから、さっさと孕め」
「……は、らむ?」
「腹ボテの女が、前も村落に居ただろう? ああなれば、おまえは女だ。『穢れ』に『触穢』した俺が男だから、まずは女になれるか試す」

 『世話役』の言葉が、難し過ぎてエレンには意味がわからない。
 自分は、男だ。
 女になど、なれる筈もない。

「月の障りが来てからだと何年も待たされていたのに! あのガイジンが!」

 怒鳴りながら、『世話役』であった男はエレンの濡れた襦袢を開く。その乱暴な手が皮膚に触れると、冷えている肌は痛んだ。剥き出しにされた身体が恥ずかしくとも、縛られた手ではどうにもならない。男が開こうとした脚を、エレンは、せめてもと閉じようとする。
 罵声を漏らし、て、男は自分の下肢をごそごそといじった。そこから男性の象徴であるペニスが現れて、エレンは呻いた。まだささやかなエレンの物とは、比べものにならない。幼い頃に同じ男のペニスを見たが、こんなふうではなかった筈だ。色まで違うそれに、ただでさえ震えている身体が強張る。

「──い、やだ、やめろッ……」

 エレンの奥歯が、条件反射の如く鳴る。がくがくと震えながら、縛られた手を基点に逃げようと後退りする。だが男はそんなエレンの両脚を、軽々と抱えた。大きく開かれたそれから、エレンは羞恥で顔を逸らす。これから何が行われるのか、具体的にはよく知らないが、怖いことだということだけはわかる。濡れた身体を厭いもせずに、男はのしかかってきた。エレンはあの恐ろしい部位に何をされるのかと、小さな悲鳴を上げる。逃げるために縛られた両手を必死で取り戻そうとしているとき、それは起こった。小屋の扉が、突然開いたのだ。

「『神降ろし』の儀の最中に、何をする!」

 エレンの上に乗る男が、厳しく誰何した。男の下でエレンは、その声の大きさに縮こまる。

「失礼。──上官を探しているのだが、知らないか?」

 聞こえたのは、聞いたこともない声だった。低く鋭く、怖いのに、それでいて何だか優しい声。エレンは男の下から、その声のほうを見た──そこには、見たことのない程美しい人がいた。エルヴィンとは似ても似つかぬ漆黒の髪と、幼い頃に見た大好きだった青い春空を反射するネイビーブルーの瞳。はっきりとした眉の下の切れ長の瞳は、エレンをじっと見ていた。濡れた襦袢を半ば剥がれて裸体で、しかも妙な格好に脚を開かれているエレンは、恥ずかしくて身を強張らせた。あんな美しい人に、こんなものを見せてはいけない──身を隠そうとしても、エレンの上にいる男の下に入るしかない。だが男が押し付けている部分が、エレンは怖い。どうしたらいいのかと迷っていると、そんなエレンの上にかぶさっている男が再び怒鳴った。

「し、知るか! とっととっ、出ていけ! 邪魔をするな! 俺はコレのせいで、好いた女が出来ても性行為を禁じられてきたんだ! コレが偶々『穢れ』だった、そのせいで! 『神降ろし』で子をさずけたら、即、殺してやる!」

 男の声を聞いて、ネイビーブルーの瞳の人は黙って出て行ってしまった。

「……何だったんだ、あいつッ!」

 気を取り直したように再開しようとする男と、行ってしまったネイビーブルーの瞳の人のことを考えていたエレンは、再び開いた扉にびくっとした。そこには、先程の人と、見たことのない人がたくさんと、この村落の長老がひとり。

「どうも、邪魔するしかなかったようだ。ゲス野郎」

 ネイビーブルーの瞳の人が笑ってそう言うと、たくさんの知らない人々が『世話役』の男とエレンを掴まえた。『神降ろし』の最中の『穢れ』に触れてはまずいのでは、と、警告したくても声が出ない。濡れた襦袢を形だけ羽織ったエレンは、見知らぬ人々の手によって、ネイビーブルーの瞳の美しい人の傍へと連れていかれる。彼は、エレンを覗き込んだ。

「そのままじゃあ、風邪を引く」

 手早く取り出したナイフでエレンにかけられていた縄を切り、その美しい男はエレンの濡れた着物を完全に剥ぎ取る。震えたエレンを、彼はあっという間に自分の上着でくるみ、抱えてくれた。

「直ぐに着る物を用意させるから、それまではこれで許してくれ」

 冷え切った身体に、温かい衣服と優しい腕。エレンは、申し訳ない気持ちで、何度も頷いた。その衣服からはあの青いソウビの花の香りがして、エレンはエルヴィンの笑顔を思い浮かべた。


 厳重に縛られていたエルヴィンが、見知らぬ人々に助けられる。それを見守るネイビーブルーの瞳の人は、美しい顔にうっすらと嫌味な微笑を浮かべていた。エルヴィンが、彼の探していた上官とやらだったのだろう。

「こんなに遠い東の国の端に、楽園はあったか? エルヴィン」

 彼の微笑みは、美しいけれど何だか怖い。エルヴィンは、彼の言葉を聞くやいなやエレンには聞き取れない言葉を笑顔で吐き捨てた。そのまま、聞いたことのない言葉をやり取りしている彼らを見ていて、エレンはそんな場合ではないと自覚しながら眠たくなってしまった。寒さにさらされたあとの温かさに、うとうととしてくる。

「おい、そのまま眠ると風邪を引く。着替えろ、ガキ」

 ネイビーブルーの瞳の人は、エレンを覗き込んで村落の家のほうへと向かおうとする。だがエレンは未だ『穢れ』で、そこに立ち入ってはならないのだ。外から来た人にそれを、上手に伝えることが出来ない。また、エレン自身もそれについて、きちんと理解してはいないのだ。どうしたらいいのかと震えていると、村落の長老が遠くから、そちらではなく洞穴へと連れて行くようにと言った。『穢れ』に触れるのが恐ろしいのだろう、決して風下に立たないように長老は気を付けていた。縄を解かれて、手当てをされているエルヴィンを遠目に見ながら、エレンはふたりで脱出した座敷牢へと戻された。
 いや──戻されそうになった。
 ネイビーブルーの瞳の人はそこを見て、座敷牢の格子を物凄い力で蹴り飛ばした。美しい容姿からは想像も出来ない怒鳴り声を上げて、彼は長老に詰め寄る。抱えられたままのエレンはグラグラとして、エレンから逃げようとした長老は彼の迫力に腰を抜かした。聞き取れない言葉で彼が怒鳴っているのが、エレンはなぜか怖くはなかった。長老以外は誰ひとり知る者の居ないそこで、エレンは護られているようにすやすやと眠りこけてしまった。

 目覚めたとき、エレンの枕元にはネイビーブルーの瞳の男が居た。恐ろしいことが起ころうとしていた滝壺の傍の小屋だと、見渡せばわかる。いろいろと置かれていた不思議な飾りは、すべて取り払われていた。褥が敷かれて、エレンが横になっていて、彼はその枕元にいる。それだけのことなのに、なぜだろう、エレンは安心していた。

「俺は、リヴァイ。エルヴィンの間抜け野郎の右腕だ」

 彼は美しい顔をエレンに近付けて、そっと囁く。

「リヴァイ、だ。……呼べるか?」
「──りばい、さん?」
「ああ、まァ良い。今はそれで充分だ。……おまえには名はないと、ここの連中は言うが、そうなのか?」
「……俺は、『穢れ』です」

 どうしてだろうか。エルヴィンにはふつうに名を告げたエレンが、リヴァイにはそれを言えなかった──既に、他の人間たちによって自分が『穢れ』だと、彼は聞いているからか。それとも、美しい瞳の力か。『穢れ』が良い意味ではないことくらい、エレン自身にもわかっていた。
 こんなに近くに居てくれて、ずぶ濡れのエレンに洋服を貸してくれた彼に、でも危険を教えねばならない。
 どんなことも飛び越えてしまいそうなエルヴィンといるとき、エレンはそんなふうに感じなかった。この美しくてどこか怖い人と居ると、あんなに恐ろしかった筈の闇が孤独ではなくなって不思議な気分になる。

「それは、名前じゃあねえだろ。……エルヴィンは、おまえを『エレン』と呼んでいた」
「6歳の頃に、捨てさせられた名前です」

 もう居ない、父と母。『処刑』されてしまった、優しかった両親。そして一家全員『永久追放』されてしまった、友達のこと。エレンは、なぜか双眸に涙があふれるのを感じた。

「花、や、本を……持ってきて、くれた、友人たち……、もう、居ない、ひとたち……」

 ちょっと怖い顔が、笑うと可愛くなる。
 笑い方を忘れていたエレンに、それを教えてくれたのはもう会えない人々だけだった。目からこぼれる塩っ辛い水に、エレンは呻いた。

「──泣くな。……エレンよ」

 触れてはならぬエレンに、リヴァイは何の躊躇もせず触れた。ぎゅうっと抱っこして、彼は繰り返す。

「おまえが泣くと、……どうも、具合が悪ィ」

 矢張りリヴァイからは、青いソウビの花の匂いがした。

 リヴァイがぎゅっとエレンを抱き締めていると、訪れる人間がいた。村落の者ではなく、見たことのない人達のひとりであった。彼らは同じような暗い緑色のマントを着ていて、区別がつかない。エレンは、無意識にリヴァイにしがみついた。

「手続きは済んだか?」
「はい。……エルヴィン団長の問題と、この子の行方不明の友人一家の問題と、両親の火炙り処刑の問題で揺さぶりましたところ、どうにか」
「そうか。……直ぐに発ちたい。可能か?」
「ええ、逆に早いほうが、村落の混乱が薄い内に出られるかと。……土着信仰に関係した問題は、もめると金では解決がつきませんから」
「何が信仰だ、胸糞悪ィ。──ただの差別じゃねえか。クソ共が」
「……それでも、この辺りではずっと信じられてきたことですので。『穢れ』を外に出すと祟ると、今も年寄り共が騒いでおります」

 難しい言葉が行き交い、エレンはリヴァイの腕のなかで小さくなっていた。
 わかったことは、ひとつだけ。
 彼は──もう帰るのだ。
 おそらく、エルヴィンといっしょに。

「おい、エレン……おまえは、ここにいては駄目だ」

 しおれていたエレンに、リヴァイが言葉をかけてくれた。その内容を聞いて、エレンは首を振る。エルヴィンと逃げ出そうとしてしまったが、エレンはまだ『穢れ』のままだ。『神降ろし』をして貰うまで、座敷牢にいなければならない。

「どうしてだ。……あんな男がいいのか?」

 厳しい口調で責められて、思わずエレンはびくりと震えてしまう。そろそろと見上げると、リヴァイのネイビーブルーの瞳が、やけに暗い色になっていた。エレンは『あんな男』の意味がわからず、首を傾げる。

「おまえを無理矢理犯そうとしていた、あんな男がいいのか?」

 リヴァイの言葉に、凍える寒さと同時に起こった恐ろしいことが、思い出させられる。『犯そう』というのは、『世話役』の男がエレンにのっかっていたことを言うのだろう。エレンは慌てて、大きく首を横にぶんぶん振った。こうしてリヴァイの腕のなかに居るのは怖くないが、男がのっかってきたときはとても嫌な感じがした。男のエレンに、訳がわからないことを言ったのも、嫌だった。

「お、れは、……おとこ、で、す」

 そうではないと、だから『穢れ』なのだと『世話役』の男は言った。見上げたリヴァイの瞳は、ゆっくりと細められた。──そして、エレンは答えを知った。

「──男では、ないんですか…?」

 リヴァイは、エレンをぎゅっと抱き締める。さっきよりずっと強いそれに、エレンはリヴァイの胸に顔をうずめた。

「……そうだな。男とは、言い切れねえ」

 それから、エレンはリヴァイに教わった。エレンの躰が、どう男ではないのかということを。樹海を抜けた民家で『世話役』の男が言っていたよりは、ずっと優しい言葉で、リヴァイはそれを教えてくれた。エレンの躰には男の部分と女の部分が両方あって、どちらとは言い切れない、ということ。この村落ではそうした存在が生まれると、男女のどちらなのかがわかるまで、『穢れ』として隔離するのだという。『神降ろし』とは、成長した『穢れ』が男女どちらの身になるかを、神さまによって決めて貰う儀式らしい。『穢れ』に最も強く『触穢』していた者から順番に、『穢れ』に赤子が出来るかを試す。出来た時点で、『穢れ』は『神降ろし』が成功して、『祓われた』とされる──出来なければ、生涯座敷牢暮らしとなる。それが、村落の風習なのだと言う。
 エレンに最も強く『触穢』していたのは『世話役』の男だったから、男がエレンを滝壺で清めてから『神降ろし』をするところだったと、リヴァイは教えてくれた。

「エレン、……この村落では『穢れ』などと呼んでいるが、そんなものはない。『穢れ』なんざ存在しねえんだ。単にそういう躰で生まれてくる『人間』ならば、少なからず存在する。俺はおまえ以外で会ったことがないが、文献でも読んだことがある。ここではない場所でなら、そんな目には合わなくて済むんだ」

 ここではない、場所──。

 そんな場所が、あるのだろうか。エレンは『穢れ』として扱われることに慣れていて、そんな未来を想像することが出来なかった。

「ここの長老と、話をつけた。早い内なら、騒がれずに出て行ける。……俺は、エルヴィンを連れて国に帰るつもりだった。エレン、おまえも……いっしょに、来い」

 自信あり気に語っていたリヴァイが、『いっしょに、来い』と言う瞬間だけ、少し小さな声になった。そのことが、エレンには妙にくすぐったかった。

「り、ばいさん……?」
「──約束しよう。こんなクソッタレのブタ野郎しか居ねえ村よりも、絶対に良い環境で暮らさせてやる。自分を恥ずかしがったり、周囲を恐れたりしない生活を、俺なら与えてやれる。だから……いっしょに、来い」

 ふとアルミンのことを、思い出す。エレンはきっと、あの手を取れなかった。外に憧れていても、怖くて堪らなかったのだ。エルヴィンに導かれて飛び出したときも、エレンはどこまでなら未来を信じていただろう。
 村落に戻されたとき、どこか安堵していたような気もする。エルヴィンのおひさまの髪の真逆の、春のネイビーブルーの瞳をしたこの人を、なぜかエレンは信じたかった。座敷牢ではないどこかへ、リヴァイと行ってみたいとエレンは思った。
 美しい顔を見上げて頷くと、リヴァイは、嬉しそうに笑った。全然似ていないと思っていたのに、その笑顔はやけにエルヴィンに似ていた。
 村落を出て行く日、エレンは萎えた脚のせいで自分では歩けなかった。リヴァイに確りと抱かれて、エレンは村落を後にした。締め切られた村落の家々は、出て行くエレンによって穢されまいとしてのことだろう。
 ひとりの人間も、そこにはいなかった。
 居たのは、1匹の黒猫だけだった。

「……ありがとうクロ。名前、もっとちゃんと考えてつけてやれば良かったな…」

 エレンは、リヴァイに抱かれたまま隣を歩くエルヴィンを見詰めた。既に、エレンは気付いていた。何かを頼むのは、この人にするべきだと。再会したエルヴィンは無口で、空のような瞳も曇っている。反対にリヴァイは、初めて会ったときと一切変わらない。

「──エレンが望むのなら、構わないだろう? リヴァイ」
「そうだな。エレンが望むなら」
「ありがとうございます」

 嬉しくて笑顔になると、急に目の前が見えなくなる。

「……エルヴィン、見苦しいぞ。やめろ」
「エレンは、私の友人だ。 私が、おまえより先に、見付けたんだ」

 『友人』は、エレンでも知っている言葉だ。幼い頃、そんな言葉が行き交っていた。リヴァイの腕のなかで、エレンの胸はほっこりとする。

「……俺は、別にエレンと、友人になろうなんざ思ってねえよ」
「だったら、妙にでしゃばらないでくれないか? いつもおまえはそうだ。私がこの国に来たのに、態々ついてきたりして!」
「──成程、そうか。あのまま囚われの身のほうが、良かったか? エルヴィン」

 エレンを抱えたままのリヴァイに、エルヴィンはよく聞き取れない言葉を口にした。

「団長たるおまえが下品な言葉を使うんじゃねえよ。エレンが覚えちまっても困る。……おまえが幾ら囚われの身で居たかったとしても、エレンがその間にどうなっていたかくらいは、わかっているだろう? ──たまには俺にも、感謝することを覚えたらいい」
「口の悪さでは私はおまえには負けるよ、リヴァイ」
「あ゙ァ? 何言ってやがんだ、クソ団長」
「ほら、それだよそれ。エレンの教育にはおまえが最も相応しくないな」

 彼らがエレンにわからない言葉で会話を始めたので、エレンはエルヴィンの腕のなかに収まっているクロを見詰めていた。
 空からはおひさまが燦々と光を降らせてくれて、リヴァイの胸からはソウビの香りと共に、そんなおひさまの匂いがした。薄暗く居心地の悪かった村落をあとにして、エレンは寂しいような嬉しいような複雑な気持ちだった。それでもリヴァイの言った『友人になろうとは思っていない』という言葉のほうが、エレンをもっと寂しくさせた。だからふたりの会話を聞きながら、エレンはその寂しさから目を逸らした。だが、エレンは彼らを信じた。ちっぽけな子供であるエレンを、『穢れ』として忌まれていたエレンを、彼ら──自らを皆『調査兵団』と名乗った。が、『わからないものを調査する兵団』と詳しく聞いてもエレンにはまだよくわからない──は、誰ひとりとして恐れずに話し掛け、躊躇なく触れてくれた。そして今、こうして母国へと連れて行ってくれている。彼らの拠点は中央の国にある、島国だが歴史のある古都だと教わっていた。中央は、永世中立国であるが、自由貿易連合に加盟しているほか、ヴァチカンの衛兵は彼ら調査兵団の傭兵が務めている。エルヴィンはエレンの目の前で地図を広げ、中央は北とも東とも南とも西とも海路が繋がっているのだと言う。つまり中央の国は世界中の大陸と繋がっているのだ。陸路もある。エレンの大切な幼馴染みたちの話を聞いて、東の樹海の村落を追放されたなら、まずは移民を積極的に受け入れている中央に逃げた可能性が色濃いらしい。彼らの母国だ。そのためエレンは、中央でひとまず入国管理や出国管理で人々の流れを正確に記入してある、人口帳簿を調べてみることにした。






 エレンたちは、『船』に乗った。
 それについてエレンは、語るだけでも1年以上かかってしまうかも知れない。村落の座敷牢しか知らなかったエレンは、生まれて初めて見るものばかりで、ずっと興奮し続けていた。日程の半分以上、熱を出していたような気もする。

 本物の海を見たのも、船を見たのも、それに乗ったのも、エレンは初めてだった。

 夢のような、不思議な時間だ。そしてエレンの具合が悪い間は、看病してくれる彼らの存在をずっと感じていた。リヴァイ曰く『調査兵団の団長』なのに、大袈裟におろおろとするエルヴィンに、丁寧に看病してくれるリヴァイと、部下の団員たち。何もかもエレンには初めてのことで、幸せな気持ちでいっぱいになった。なぜなら動揺する程エレンを気遣ってくれる人はいなかったし、壊れ物に触れるような程も大事に扱ってくれる人もいなかった。熱を出すと、クロの存在を感じていることが多かった。今もクロは傍に居てくれるが、それより傍に彼らが居てくれる。
 知らない場所、知らない世界への恐れは、無論あった。

「おい、エレンよ。顔を隠すのは癖なのか?」
「いいえ──で、でも、……見て、りばいさんのご気分が、悪くなったら……」

 有り得ない。はっ、と鼻で嗤うリヴァイに、エレンは眦をつり上げる。

「っおれ、俺はいつも、そういう目で見られてきたんです」

 ほんとうに──果たして、そうだろうか? 儀式とはいえ、人間は心底嫌悪する者に対し、あれ程欲情出来るのか? リヴァイが見付けたとき、エレンを犯そうとしていた男のペニスは絶好調に見えた。リヴァイに邪魔をされて怒鳴っていたとき、男は『神降ろし』の儀を考えていたのか、自分が得ようとしている快楽を考えていたのか? リヴァイは同じ男として、後者のようにしか思えなかった。

「御託はいい──怖がるな、エレンよ。俺を、信じろ」

 今更この俺が、おまえを放り出すと思うのか? ──リヴァイはエレンにそう伝えたくて口にしたのに、目の前の薄紅色の唇は、恐ろしい言葉を吐き出した。

「あ、あなただから……嫌悪されたくないんです、よ。りばいさん……」

 もたもたと動く細い指先を舐めるように見ていたリヴァイは、黙ってその手を外した。

「あ、……あの?」

 引き裂くと、怖がるだろう。リヴァイを引き止めたのは、その程度の理性だった。怖がらせては、いけないのだ。手早く釦を外して、そのまま下着を下ろす。

「え、まっ、待ってください!」

 上がる声は、今更だった。リヴァイは船室のベッドにエレンを押し倒して、その脚からも下着を抜く。一気にすべての下着を取り去られて、エレンは慌てたように上掛けに手を伸ばした。

「それがあったら、見えねえじゃねえか」

 エレンの両手首を、リヴァイは己の両手で優しく絡めとる。一瞬でも、暴力を感じさせてはいけない。どんなレディを相手にするときより丁寧に──と云うか、リヴァイは女を丁寧に扱ったことがなかった。なので可能な限り丁寧に、そのままエレンの顔を覗き込む。あの『世話役』の男を醜いと思い、憎いと思うその同じ感情が、過去の自分に向いていた。抵抗する相手と関係を持ったことなどないが、男のした薄汚れた振る舞いから自分の過去だって褒められたものではないと糾弾されている気分になる。

「俺は──おまえだからこそ、見たい。……見せてくれ」

 俯く真っ赤な顔は、既にさらしている胸がなだらかですべすべとした肌をしているのを、知っているのだろうか。ほんのりと桜色に染まっている頂点が、どうやったら色付くのかをリヴァイが考えていることを、知っているのだろうか。怖がるように横に小さく振られた頭は、否定を表してはいない。潤んだ大きな金色の瞳は、哀しみや恐れではなく羞恥をのせている。

「なあ、エレン──脚を開いてくれ」

 閉じられたエレンの脚の間に、ささやかな性器が見える。胸の頂点と同じような桜色のそこは、機能しているのか心配になるくらいの幼いものだ。男性器と呼ぶよりも、女性器の一部が肥大化したものにも思える。リヴァイはつとめて息を荒くしないために、何度も深呼吸をした。

「エレン、……見せてくれ」

 ぴくぴくと震えながら、エレンはゆっくりと脚を開いた。リヴァイと握り合う両手には、すごく力がこもっている。
 小さな手に、たくさんの不安を詰め込んでいるのだろう──早く安心させてやりたくて、リヴァイは開ききらないそこを覗き込んだ。

「だ、駄目、です……っ」

 リヴァイの想像は当たっていて、エレンの脚の間に陰毛に該当するものは見当たらなかった。胸の頂点、ささやかな陰茎と同じ色をした部位が、そこにはある。幼い顔に相応しく固く閉じたそれに、リヴァイの顔には意図せぬ笑みが浮かんでいた。
 抑えきれずにそこに唇を押し当てると、甲高い悲鳴が上がる。両手を塞がれているリヴァイにはその声を止めることが出来ず、断念してそこから顔を離した。広げられた両脚を震わせて、ベッドに横たわったエレンはリヴァイを見上げている。

 ──食べてしまいたい。

 率直に、そんな言葉が浮かんだ。エレンがレディになる道を選ぶのなら、リヴァイとしてはきちんと挙式をして、正式な伴侶として迎えたい。例え男になる道を選ぶにしても、初めての場所が船室の無骨なベッドというのはまずいだろう。薔薇色の未来を思い描いていたリヴァイは、エレンが自分をうかがっていることに気付いた──まずい、何もコメントをしていなかった。

「おまえのここは、──すごく綺麗だ」

 引き寄せられるように、リヴァイはエレンの陰茎と外陰部にくちづけた。

「やめ、き……汚いです!」

 閉じようとする太腿は震えていて、その肌触りも心地好かった。リヴァイはエレンの言葉に顔を上げて、笑いかけた。

「いや、……綺麗だ」

 強張った幼い顔は、泣きそうに歪んだ。リヴァイは、何度でも繰り返す。

「おまえのここは──いや、おまえは、どこもかしこも、とても綺麗だ」

 遠い東の国の樹海にあった山村で見つけた、微塵も闇を思わせない金色の瞳は、リヴァイの言葉に再び泣き出した。

 ──おまえ自身が、自分をかけがえのない存在だと信じられるようになるまで、俺は幾度でもおまえを綺麗だと讃えよう。

 そう伝えたら、小さな身体はリヴァイをぎゅっと抱き締めた。少年は、兵団のしきたりに縛られて身動き出来ないこともあるリヴァイとは、違う生き方を選んできた。
 簡単に外に出ると良い、実際にそれをやれば良い。
 リヴァイは戦争と、今回のエルヴィンの追跡を除けば、自国を出たことが殆どなかった。外国はあくまで外で、自分の生きる場所だと思ったこともない。

「……俺は、おまえを……」

 愛していると言って、どうなる。それは、この状態を悪化させるだけだろう。
 エレンへの感情を友愛から先の物だと気付いているエルヴィンを相手に、自分はどうしようとしているのか。

「俺は、エレン、おまえを……」

 愛しているとは、まだ言えない。殆ど一目惚れだ。
 大切だなんて、おこがましい。

「エレン、おまえに……」

 与えられるすべてを、与えたかった──だが、それがすべてエレンには不要な物だったら?
 幼馴染みを探すために、エルヴィンと旅に出ることは一旦保留にし、中央の古都からあたりを付けるというエレンを前に、自分は何を押し付けようとしているのか? 何度も、頭を振る。
 リヴァイは自分の義務を重く感じたことはあるが、こんなふうに呪わしく思えたのは初めてだった。もし自分が今より自由だったなら、エルヴィンのようにエレンが望むことすべてを叶えられるだろうか。
 だが中央の領地の領民を、リヴァイに課せられた平和の象徴であることを、棄てることの出来ない自分には、そんな資格はない。そう──資格はないのだ。リヴァイの声が掠れてひび割れていても、エレンは黙って頷いた。
 何をどうしてやれば良いのかわからぬリヴァイは、それ以上エレンに声をかけられなかった。ベッドの上のエレンは、下着姿で座り込んでいる。その薄ものが恥ずかしいのだろう、シーツを引き寄せて身を隠そうとしていた。
 俯いたままの顔は、表情を映していない。
 初めて見たときからずっと、何よりも魅力的な大きな蜂蜜色の瞳が、ぽっかりと開いた穴のような虚ろさだ。エレンはリヴァイに抱き込まれると酷く震えた。乱れていてもつややかな猫っ毛の髪に、唇を押し当てる。かたかたと震える身体から、少しでも強張りを取ってやりたかったのだ。

「──すまない」

 ぽつりと零した言葉は、それだけでは意味がないだろう言葉だった。だがリヴァイには、それ以外の言葉が浮かばなかったのだ。エレンは、同じ歳頃の一般的な少女よりも小さな訳ではない。それでも肉付きの悪い骨の細い身体は、腕に閉じ込めるとやけに小さく感じられた。

「おまえの傍に、居たい」
「だったら……もし、俺に飽きて、邪魔になったとしたら──俺に直接そう言ってください。恨んだりしません。俺は、えるびんさんとりばいさんに救われたんですから……」

 身体と同時に、声も震えている。

「俺がおまえに飽きるだとか、邪魔にするだとか──」
「言ってください!」

 思わぬ力で腕を掴まれて、リヴァイは、ある訳がないだろう、という言葉を止めた。エレンの大きな金色の瞳が、見上げてくる。必死の表情とその瞳に浮かんだ光を、食い入るように見た。
 元々、整った顔だと思っていた。
 だが少しやつれているそれは、今までにない艶を帯びていた。

「他の誰かではなく、俺に言ってください! ……えるびんさんでも、兵団の方でもなく、……勿論、俺の見知らぬ国の方でもなく。お願いです、約束してください!」

 甘い声が、切なげに言い募る。しがみつかれ懇願されて、リヴァイは頷いた。

「──約束する。万が一、俺がおまえに不満を持つときがあったら、おまえに直接言おう」

 その言葉に安堵して、エレンは微笑んだ。寄せられた眉と見開かれていた瞳が、柔らかく微笑へと変わっていった。出逢った瞬間から、リヴァイは異文化で育まれたエレンを美しいと思っていた。髪も瞳も肌も骨格も違うエレンに、綺麗だと伝えていた。
 ──だがエレンの姿には、いつも危うい、拙さと幼さがあった。それを愛しいとは思ったが、稚いとも思っていた。
 今、リヴァイの腕のなかで微笑むエレンは、その幼さを落としてきたように見える。触れたくなる度に犯罪を行っている気分にさせられたあどけない様子が、欠片もなかった。
 髪ではなく唇に唇を重ねたとき、エレンの手はそっとリヴァイの背に回された。薄く開いた唇に舌を忍ばせても、腕のなかの身体は逃げない。
 怖がらせないようにゆっくりと、性感を刺激するというよりも優しく撫でるように舌を動かす。
 腕に体重をのせて力を失ったような身体は、その動きを真似て舌を寄せてきた。
 絡まる舌に、エレンの身体が震える。
 その震えはリヴァイに歓びをもたらし、更に深く抱き込んだ。シーツごと抱えた身体からその無粋な物を剥ぎ取ろうとしても、エレンは最早抵抗しなかった。濡れた音を立てながら、唇と唇が何度も互いを貪る。柔らかな子供の肌とその匂いを感じながら、リヴァイはエレンの身体に手をすべらせた。しがみつく手は、それを押しのけようとはしない。
 乱れたベッドに倒れ込み、繰り返しくちづける。
 リヴァイの手はエレンのなめらかな肌をなぞり、冷たい髪をすき、その身を抱き締めた。恐れを抱かせないために、胸にも下肢にも触れない。それでもエレンの躰が昂ってきているのは、熱を帯びていく肌でわかった。幾度めかもわからないくちづけを解いて、リヴァイは顔を上げた。
 熱で潤んだ大きな金色の瞳を覗き込んで、囁く。

「おまえが今より大きくなったら、どうか俺と、結婚して欲しい」

 初めて言葉にした告白に、エレンの瞳からゆっくりと涙が零れた。最初の夜まで奪うつもりはないと、リヴァイは承諾を貰ってすぐにエレンの船室を出た。その足で、エルヴィンの部屋へと向かう。
 予想通り次の旅の支度を終えようとしているエルヴィンを見付けて、リヴァイは言った。

「エレンに、結婚を申し込んだ」
「──へえ、そうか」

 最後の確認をしているエルヴィンは、リヴァイの顔を見ないまま言った。

「今度は、西に行こうと思う」
「……返事を貰ったか、聞かねえのか?」

 振り返ったエルヴィンは、唇を歪めて笑った。

「そんなの、jaに決まっているじゃないか。……エレンは、おまえを好きなのだから」

 自分でも自信のないことにはっきりと答えを与えられて、リヴァイは困惑した。その顔がおかしいと、エルヴィンは声を出して笑った。

「エレンを泣かせたら、世界の果てからでも帰ってきて、おまえに決闘を申し込むよ」

 おまえは、エレンを好きだったのか。自覚していたのか知りたくて口にした問いは、最後まで言うことが出来なかった。それでもエルヴィンの複雑な笑顔は、自覚して、それでも諦めたのだろうと思えた。
 リヴァイが返事に迷っている間に、エルヴィンはぽんぽんと言い募る。

「もしもエレンが中央の国に居るのがつらいと言ったら、いつでも私が連れ出すよ。……エレンが、リヴァイと居たいと言ったから、まずは中央の国で頑張りたいと言ったから、置いていくんだ」

 喜んでいいのか不安に思っていいのかと動揺で表情が変わるリヴァイの肩を、エルヴィンは強すぎる力で叩いた。エレンはエルヴィンについての知らせに、黙って頷いたのだった。エルヴィンが自覚したように、エレンもその気持ちに気付いていたのか。リヴァイはそれが気にかかったが、どうにも問いかけ難かった。

「えるびんさんは、とても大切な人です。……俺にとって、初めての優しい大人の友人ですから」

 ──気付いていても、気付いていなくても。
 エルヴィンのことを、エレンは大切に思っている。それだけで、リヴァイの右腕としての部分は癒された。更に自分では持たない絆を繋いで見えるふたりに、嫉妬を感じてしまう。だからリヴァイはこっそり用意していたプラチナにダイヤモンドを嵌め込んだ指輪を取り出して、エレンの指にはめた。女性用の指輪と言えど、幼い上に痩せ細ったエレンの薬指にはサイズが合わず、ぶかぶかだった。それでもエレンは嬉しかった。『嬉しい』と素直に感じる『感情』は両親から教わり、幼馴染みのふたり、エルヴィンと、リヴァイ、連綿と紡ぎ続けられたものであった。エレンはそれが、何より『嬉し』かった。
 新しい国と、新しい自分──『穢れ』を脱ぎ棄てて、自分はどうなっていくのだろう。
 足許の黒猫だけは、先に何があってもエレンと共にいるだろうけれど。

「だったら俺は、……エレンの、最初で最後の夫になろう」

 恥ずかしそうに頷くエレンに、リヴァイはそうっと唇を落とした。

 彼らが船を降りる日に用意してくれた物を見ても、エレンは何も言わずに受け入れた。見たことのない衣装は、彼らの国の女性が身につけるものだった。そもそも、最初に出逢ったのはエルヴィンとエレンだった。エレンを救いたいと最初に動いたのは、エルヴィンだったのだ。

「エレン、とても綺麗だよ。可愛い子だとは思っていたけれど、こんなに綺麗だったなんて」

 などと褒めてくるエルヴィンに、エレンはくすぐったいような嬉しさを感じていた。気持ち悪いとか、似合わないと言われなくて良かった、と思う。ほっと息をついて、荷物を取りに行く彼を見送る。背後で無言のリヴァイが気にかかっても、何だか怖くて振り返られない。去っていくエルヴィンを、じっと見詰め続けた。

「──エレン、」

 初めて会った日にも聞いた、低く鋭くて怖い声。エレンは、振り返られない。背後からふわりと香るソウビの花の匂いが、エレンの身体を縛り付けている。
 すっ、と、左手が奪われた。

「……は、い」

 辛うじて口にした返事に、リヴァイは何も言わない。握られた左手が熱くて、思わず引く。しかし強い力で拘束されているそれは動かなくて、エレンは慌てて振り返った。

「ここには、おまえを縛るものは何もない。まァ、俺の我儘と言うか、本音を言うならば……レディになってくれたら嬉しいが、戻りたければ男に戻っても構わない。俺にとっては、どちらでも同じことだ」

 エレンの左手の甲に、リヴァイは乾いた唇を押し当てた。春のネイビーブルーの瞳が、エレンを切なく貫く。それから、膝から震えていくエレンを、背後から抱きとめる力強い腕。

「リヴァイ、エレンは、私が見付けたんだよ?」
「そりゃおまえの『友人』だろう、俺は別にそれでも構わん」
「エレンは、エレンは! 私の1番なんだが!」

 リヴァイの手は、どこか怖いよう。エルヴィンの腕は、どこまでも安心出来る。女性の衣装に身を包んだ、エレン・イェーガーは、男なのか、女なのか。女性物の日常着を馴染んで装うにエレンは、リヴァイの逡巡に気付いたのだろう、靜かに笑った。
 エレンが心惹かれるのは、春のネイビーブルーの瞳をした、流れるような闇色の、真っ直ぐなその髪の美しさであった。しかし何だか怖い手と安心出来る腕を感じながら、下船のために両手を彼らに取られて、エレンは背筋を伸ばして──間もなく、新しい国に降り立つ。彼ら調査兵団の団長とその右腕が導く、新しい明日へ。『穢れ』としてではなく──新しく、生まれるために。漸く待ち望んだ、この日こそが、エレンの新しく生まれた日で、誰にも間違いようがない。
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