<概略>
巨人殲滅後/壊れたエレンを世話する甲斐甲斐しい兵長/
誰も報われない陰鬱な話です。





   

 終わらぬ嘘はきっとほんとうになる。掛け替えの無い、ほんとうに、なる。だからはやく終われば良い。そう思う。手を、きつく握り離さないまま矛盾した嘘とほんとうが交差する部屋で。する。贖罪。まるで咎人のようだとリヴァイは思うが、その愚かさに時々自嘲さえ零れて落ちる。


「エレン。メシの時間だ。食え」

 何でも無いことのように、いつもの調子で語りかける。が、矢張りエレンからの返答は無い。どころか、一切の反応も無い。何も返さない。
 ソファの上、おおきなブランケットに埋もれるようにして座っているエレンは、ただ伏目がちに、床へと視線をやっていた。その蜂蜜色の瞳の焦点すら、今はどこにも合っていなかった。

「今日は柔らかい良い肉が入ったんでな、チーズリゾットと絡めてみた。どうだ、美味そうだろう。おまえの好きそうな味付けだ」

 リヴァイは言いながらエレンの傍まで行くと、屈み込み、下から覗き込むようにしてその双眸を見詰め、あくまでも優しく手を取る。そうするとぴくり、とエレンの双肩が微かに震え、ゆるゆると視線がリヴァイへと向けられた。リヴァイはエレンのたったそれだけの動作に、心から安堵する。

「テーブルまで行くぞ」
「……?」
「テーブル、だ。あそこまで。…理解るか? メシだ」
「…──」

 言葉に加え、身振り手振りでも、夕飯だから移動しよう、と云う旨を伝える。しかしエレンの瞳はリヴァイへと向けられはしたが、意味を読み取っているかどうかは、判らない。リヴァイの言葉は届いているのか、エレンはここがどこなのか理解しているのか。傍にいる人間が、いったい誰であるのか、ちゃんと認識しているのか。たかがそんなことさえも──リヴァイには判らない。

「よし、立て。…足許には気をつけろよ」
 
 それでも何かを感じ取ったのか、それとも単純に習慣からの惰性であるのか、エレンの膝に力がこもる。その立ち上がろうとする意志に、リヴァイは軽く腕を掴んでやった。ぎし。と、ソファのスプリングが音を立てる。エレンは無事に立ち上がる。ソファからテーブルまでの距離は短い。こうしてエレンとふたりきり、暮らすようになってから、態々移動させたのだ。脚を悪くしているわけでは決して無いので歩けると云えども、エレンの覚束ぬ足取りが、ひどく危なっかしいのは事実だ。
 早えもんだな、とリヴァイは思う。あれ程永かった闘いの幕切れは呆気なく、同時エレンの巨人化が不可能となり大団円、とはいかず、復讐心においてぎらついていたエレンの双眸から鋭さが消え、そしてきらきらと夢を語っていた双眸から輝く光をも消えた。消えてしまった。今日で1年5ヵ月と23日になる。こんなことを覚えているのはあんまりだと思う。し、リヴァイとて我ながら女々しくて情けなくて時には泣きたくすらなってくるのだが、エレンが壊れたのは昨日なのだ、一昨日なのだと思っているうちに、こんなところまで来てしまった。何もかもが突然過ぎたのだ。化け物と蔑まれながら闘い抜いた少年兵はある日突然巨人化能力を失った。それは闘いの日々の終わりには喜ばしいことの筈であったのに、しかし代わりに、一切の言葉を口にしなくなっていた。無表情、無動作、無感動、無関心。反応もとても緩慢で少なく、今現在エレンの世界がどうなっているのか、誰にもわからなかった。心傷が治りかけているのか。新たな障害を負ったのか。それとも何かしらの精神的な攻撃を何者かにより受けているのか。すべて出来ることはやり尽くし、それでもどうにもならない。誰にも助けすら求められない状態になったエレン・イェーガーを見て、リヴァイのみならず兵団員が皆、事の深刻さを知り、戦慄したことを思い出す。
 最後の巨人として処刑されるくらいなら独りで壁を越えてでも外の世界で生きていきます、そう言ってほんとうに独りでも生きてゆこうとしていた子供が、介助無くしては生きていけなくなった。ひとりでは生きていけなくなった。リヴァイは、自分ならどうにか出来るだなどと傲慢な考えを持っていたわけでは無い。だが、エレンとておそらくは、こんな姿を幼馴染みや仲間たちに晒して、生かされるのは決して本意ではないだろう。エレンはそういう少年だったからだ。そしてリヴァイは、無力になったエレンだからこそこうして接してみたいとも、思った。今は誰に抗うことすら出来ぬエレン・イェーガーを。闘いの日々の終わりには誰より自由な心でほんとうの自由を手にするのであろうと、調査兵団が役目を終えればもう交差することも無いのだろうと考えていた、リヴァイとは遠い世界のエレンを、こうして。
 そうして湧き上がったのは、同情心でも無く、煩わしさでも無く、どうしようも無い、仄暗いばかりの愉悦だった。くだらない加虐心と保護欲と自己満足のかたまり。それが、エレンにふれる度に、リヴァイの腹の底にて深く重く、溜まってゆく。けれど、それはだからこそ、抗い難い魅力でもあった。なぜならリヴァイは今エレンに、何でも出来てしまうのだ。リヴァイの気紛れひとつで、生かすことも、殺すことも。何より今のエレンは、何もひとりでは出来ない今のエレンは──リヴァイを置いてどこにもゆけない。散々聞かされた『潮騒の海』にも『炎の水』にも『氷の大地』にも『砂の雪原』にも──。そんな己の酷薄さに驚き、とてつもない罪悪感を覚え、リヴァイはずっと苦しんでもいた。人形のようになってしまったエレンを見る度につらくなり、懺悔したくなり、消えたくもなる。しかし、いざ接してみると呑み込まれてしまうのだ。この下卑た仄暗い喜びの魅力に。
 だがエレンにだって非は有るのだ。リヴァイが責任を転嫁出来る程度には。1年5ヵ月と23日前、よりほんの数日後、エレンがリヴァイにのみ少しずつ反応を見せるようになった。誰が何を呼び掛けようともまるきり反応を示さなかったり、動こうとすらしなかったエレンは、リヴァイの声にだけは視線を動かした。それはたまらなく嬉しく、また同時につよい快感でもあった。

「エレン」
「……、ぅ、」

 このままうまくいけば、やがてエレンは以前と同様に世界を取り戻すかも知れない。それが1番良いのだとは理解ってはいるし、リヴァイ自身、も、心底それを望んでは、いる。それでもこうした仄暗い快感を覚える都度、ずっとこのままでいればリヴァイは置き去りにされぬだろうことも、紛れ無き現実なのだ。

「あァ、銀より木のスプーンなら、上手く食えるようになってきたみてえだな」
「…」
「美味いか?」
「………」

 返答は無い。反応も無い。けれど、何かを食べる、という行為を自然に己から行えるようになってきたエレンに、安堵する。1年5ヵ月と23日前からの当初は、無理矢理にでも口に入れなければ、水すら嚥下しなかったのだ。それが今は自分でスプーンを使用し、自らの口に運んで、咀嚼するようにまで成った。
 
「食事が終わったら、風呂に入れてやる。躰を洗ったらひとりにしてやるから、ゆっくりつかれ」

 今のエレンは、エレン・イェーガーという人格を全部削ぎ落としたせいか、とても素直に出来ている。食欲、睡眠欲、性欲。それらの3大欲求には、決して逆らわない。腹が減ればきちんと食事を摂る。眠くなれば自分でベッドへ行きたがる素振りを見せるようにさえなった。
 
「それで、もう寝ちまおう。…いっしょに」

 そして快感には、最もつよく反応を示すようになった。何かを伝えようとしているのか、時折薄く開くだけの口も、行為の最中はだらしなく開く。普段は到底出ない声音も、喉奥から喘ぎとしてかすかに紡ぎだされる。力のこもらない腕も、セックスの時ばかりは歯痒そうに意思を持ち動く。若々しい肌に手を滑らせながら、1年5ヵ月と23日前のエレンに戻ればきっと噛み付かれるに違いない。そんなことばかりが日常だ。

「……まァ、そのときはそのときだな。なァ、エレンよ」

 そう言うと、リヴァイは諦めたように、楽しそうに、少し笑った。
 毎日毎日、相反する願いが頭を駆け巡る。罪悪感と高揚感にまみれながら、今日も壊れた世界に浸る。エレンがはやく元に戻り、あの蜂蜜色の目できらきらと語る夢を追う、広い世界を取り戻せるよう。或いはエレンがずっとこのままで、狭く何も存在しない世界のなか、閉じ込められ続けるよう。壊れるなら共に。どこまでだって。
 選ばれなかった心の果てまで。
 選べなかった心の果てまで。
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