<概略>
味覚障害/罪悪感/エレンが悲しい話/






   

 確かあれは訓練生の駆け出しの、真冬の頃だった。何日も微熱が続いた日があった。高熱などで寝込む程ではないものの、粗末な食事と過酷な訓練の日々では治るものも直ぐには治らず、完治するまでにおよそ10日以上もかかった。喉は痛いし躰は怠いし寒くて悪寒はするのに熱くて、なかなかにつらかった。食欲は落ち、鼻が詰まって味も判らない。それでもアルミンやミカサたち、仲間たちが気遣ってくれたからだろうか、ゆっくりと快方に向かい、復調したときには健康ってこんなに素晴らしいのか! と風邪を患う以前よりも元気になったような気さえした。エレンはその日、晴れ渡る空に生きていることを感謝したくらいだった。しかし喉の痛みが取れて鼻水も出なくなり、躰は羽が生えたように軽くなったと云うのに、食事の味がいつまで経ってもわからないままだった。或いはこれが、視覚や聴覚であれば、兵士として致命的な障害であり、どうにか治そうと躍起になっただろうが──味覚は巨人を駆逐することにまったくと断言出来る程に必要ない感覚であったので、エレンは、特に何の策も講じなかった。まァいつか治るだろ、程度に放っていた。ら、巨人になって調査兵団に配属されリヴァイ班預かりとなった今でも治っていない。
 そして今日もいつも通り、何の味もしない。正直なところ、味のしない食事にもエレンは慣れていた。もうずっとエレンは一切の味を感じていない。今日の夕食は堅いパンと野菜のくずが浮いたスープにふかしたじゃがいもと豆を和えたもの。それから茹でたキャベツ。たとえ味覚が正常でも、美味しいとは感じないだろうメニューではあるが。スプーンに角の丸まったじゃがいもをのせて口に運ぶ。が、無味。ほどけるような食感だけが舌に馴染む。食に対する喜びなどない。生きるために食べている。サシャは食べるために生きていると言っていたことがあったが、エレンには到底わかり得ない感情であった。


「今日はお肉がありますよー!」

 リヴァイ班としての生活にも慣れ始めた頃、初めて食卓に肉が出た。班員たちはおお、と声を上げる。今日の料理当番であるペトラもどこか嬉しそうだ。

「エレンは育ち盛りなんだから、いっぱい食べなさいね」

 鶏肉とじゃがいも、たまねぎの入ったスープ。いつもより具が大きい。湯気の立つそれは久々に美味しそうという感情を生んだ。他の者たちより若干多く盛られたスープに思わずエレンも顔が綻ぶ。それを見た班の皆が少しおかしそうに笑ったので、おそらく子供っぽいと思われたのだろう。でも良いのだ。いただきますと手を合わせてスプーンを持つ。いつもより慎重に上澄みをすくって口に含む。あったかい。美味しそうな匂い。こくりと喉を通る。けれど、矢張り味はしなかった。

「どう? エレン」

 美味しい? とペトラに優しく声を掛けられて、エレンは言葉に詰まる。わからないのだ。美味しいのかどうか、エレンには判らなかった。不自然な間が開かないように、何とか、はい、と頷き目を細めるエレンに、ペトラはとても嬉しそうに笑い返してくれる。嘘吐き、と心のなかで思わず自分を罵った、エレンの、反応を見届けるように、リヴァイを含めた他の5人も食事を始める。おかわりもあるからね、とエレンに目線を合わせ告げられたペトラの言葉に、つい俯く。自分なんかが、味のまったく判らない自分なんかが、この如何にも美味しそうな香りの漂うスープを飲んでも良いのだろうか。多めに盛られた深めの皿に、エレンの胸の奥が鋭く痛んだ。確かめるようにもう1度、スープを口に運ぶ。2口目も、エレンの舌は脳に何も伝えない。ひどくつまらなかった。とても投げやりな気分になった。このときエレンは味覚障害を患ってから初めて、味が判れば良かったのに、と思ったのだった。
 その日から、リヴァイ班は同じ食卓を囲むようになった。今までは大体の時間が決まっているだけで、基本的には個々に食堂にやって来て、当番がつくっておいた食事を自分で盛って食べる。そこに先客がいれば多少は会話もするが、共に食事をしているという感覚ではなかった。それがあの日から変わった。食堂に向かう道すがら声を掛け合い、互いの皿に食事を盛り、同じタイミングで手を合わせる。いつの日も美味しいねと微笑み合ったり、嫌いな食材を押しつけ合ったり、リヴァイに食い方が汚ねえと怒られたりしながら、あっという間に時間が過ぎた。誰が当番であっても、たくさん食べろとエレンのために、いつも多めに盛られる皿。しかしながらどんなに美味しそうでも、どんなにたくさん食べても、食事はエレンにとって、どこまでも無味であった。味覚障害のなかには、味がしないだけではなく、まるでザリザリと砂を食べているように感じてしまう症状もあると聞くので、それよりはまだましか、と思いながらも、口いっぱいに頬ばる度に罪悪感が募っていった。自分なんかより皆が食べるべきなのに。ちゃんと美味しそうに出来ているか、笑えているか、エレンの胸宇に不安と申し訳なさが風船のように膨れていく。ごちそうさまでしたと手を合わせながら、エレンは心のなかでいつも、ごめんなさい、と謝った。謝るしか出来なかったのだ。
 そんなある日、エレンはリヴァイの執務室に呼ばれた。今日は昼過ぎから土砂降りで訓練も掃除も殆ど出来ず、夕方には業務終了となっていた。そこでずっと手を付けていなかった書類を整理し、先程リヴァイに提出し終えたばかりだった。それなのにもう呼び出しなど、自分の報告書はそんなにひどかっただろうか、とエレンは緊張していた。

「ひどくはねえが溜め過ぎだ」

 もっとこまめに出せと注意される。そして1カ所だけ訂正を命じられ、て、エレンはそのまま、リヴァイの執務室でペンを借りて直す。

「すみませんでした」
「ああ」
「他に何かありますか?」
「いや、今日はもう下がって良い」

 そう言われてほっとする。ではお言葉に甘えて失礼します、エレンが踵を返そうとしたそのときだ。

「待て、エレン」
「はい」
「やる」

 緩い放物線を描いて投げられたそれをエレンは反射的にキャッチした。もとい、ナイスキャッチだったろう。ゆっくりと宙を舞ってきたと云えども、リヴァイはまるきりモーションなく投げてきたのだ。我ながらよく取れたとエレン自身思う。これは何だろうか──砂糖菓子? 桃色で花の形をしている小さな粒が数個入っている。

「っと、どうしたんですか? これ」
「貰った。要らんからおまえにやる」
「え、いいんですか」

 思わず声がワントーン上がる、エレンの姿に、リヴァイは珍しくも目を丸くして、だが直ぐに口端をク、と歪めて笑った。

「ガキ」

 エレンはこの手のなかの小さな花が、己よりも相応しい誰かが居るのはわかっていた。わかっていたが、とても嬉しかった。なので素直に頂戴する。人類最強のリヴァイ兵長からお菓子を貰う、なんて、エレンは自分が味覚障害になったとき、巨人になれると知ったとき、憧れの人と初めて会ったとき、まさかこんな未来が来るなんて想像もしなかった──否、ふつうは想像しないだろうが。

「ありがとうございます、兵長!」

 訓練をつけて貰ったときよりも大きな声で笑顔で欣然を述べたエレンに、リヴァイは矢張り呆れたようだった。
 失礼しましたと執務室の扉を閉めて、早速エレンは貰った菓子の包み紙を開ける。少しざらついた感触が乾いた指先に期待を持たせる。行儀が悪いとは思ったが、砂糖の甘い香りに我慢が出来なかった。ひとつ摘んで口に放り込めば、幼い頃以来の甘い味に胸が躍る、などと都合の好いことは起こり得なかった。無味だ。如何にも甘くて美味しそうなそれは、エレンにはもう慣れ親しんだ無味であった。エレンは絶望した。信じ難いことに、口に含むこの瞬間までエレンは己の味覚障害を忘れていたのだ。こんなに何年もこうだった筈なのに。舌でそっと転がしてみても、ほろほろと崩れるだけで、ただ雪のように溶けてなくなっても、甘い味をエレンに齎すことはなかった。なぜ。なぜだ。なぜこんなものを貰ったのだろう。急激な脱力感に襲われて壁に背を預け、その拍子に指先から菓子が零れそうになった。誰か他の人間に譲ったほうが絶対に良かった。それなのに自分が貰ってしまったのだ。ごめんなさい。思わず謝罪の言葉が口をついて出た。何かを食べるということが、こんなにも悲しくつらいものなのか。幸福を感じたいとまではエレンとて言わぬが、無味ならせめて何も感じないでいたかった。
 食事の時間はヒトを近付けると言うが、それは果たしてほんとうだった。同じ食卓を囲むようになってリヴァイ班は班として真実に纏まってきたのだ。ペトラが皆の世話を焼き、オルオがちょっかいを出す。グンタとエルドはそれに便乗することもあれば戒めることもある。エレンは子供扱いだ。ヒートアップしておふざけが過ぎると、リヴァイが怒る。とてもあたたかく優しい時間だった。だが、それはエレンを心底苦しめる時間でもあった。最近は率先して配膳を行い自分の皿にはあまり盛らなくなった。そして会話をして水をがぶがぶ飲むことでたくさん食べているように見せかけた。夕食時にはエレンとペトラ以外はワインを嗜むこともあったからか、班の誰も──リヴァイも、エレンの行動に疑問を持つような様子はなかった。そうすることでエレンは何とか、この終わらぬ罪悪感を飼い慣らしていた。

「エレン」

 今日の夕食も平和に終わり、片付けも済んだ頃、エレンはリヴァイに呼ばれた。

「こんな時間に悪いが、あとで俺の部屋に寄れ」

 Jawohl! と兵士らしく返事をしたが、エレンの気分は非常に重かった。呼ばれたことに対してではない。リヴァイの雰囲気からもお叱りを受けるようなことではなさそうだ。し、何か雑用的な仕事があるのだろう。元々じっとしているよりも何かして過ごすほうが性に合っているので、雑用は嫌いではない。己が1番下っ端だという自覚は充分にあるし、だから当然のことでもある。ただこの頃、リヴァイに頼まれた仕事をこなすと、

「ほら、駄賃だ」

 子供扱いには慣れた。最近は犬扱いに近いかもしれないが。だがそれもリヴァイや班の皆の愛情表現だと解っているので嫌な気はしない。けれど──。
 手渡されたそれはとても美味しそうな焼き菓子だった。確かフィナンシェ、という名前だったか。

「こんなにたくさん…?」

 両手で何とか抱えられるくらいの大きな箱にいっぱいの焼き菓子だ。花の形をした砂糖菓子を受け取ったあの日から、何かの用事でエレンを部屋に呼ぶと必ずリヴァイが何かをくれる。最早、習慣のようになっていた。エレンは催促したわけでも物欲しそうにしていたわけでもない、筈だ。子供であってもエレンはそこまで図々しくはない。リヴァイは甘いものが得意ではないようで、要らねえものだ、どうせ棄てようと思っていた、などと言うのだが、こんなに頻繁に頂くのは、エレンでなくとも気が引けるのではあるまいか。

「そういうの好きだろう、おまえは」

 リヴァイにそう言われればエレンはただ頷くしかない。こくんと首を縦に振ったエレンにリヴァイはよしと呟いた。明日は本部の兵士との合同訓練だ。ミカサやアルミン、仲の良い104期生たちと分け合え、と言われてから、今日はとっとと寝ろと労いの言葉まで頂戴し部屋を下がる。味のわからぬエレンだけになら、こんな高そうな焼き菓子を大量に頂いては耐えられそうにないが、皆で食えということならば膨れ上がる罪悪感もまだおとなしくしていてくれそうだった。

「エレン?」

 お疲れさま、と声を掛けられ、エレンはハッと顔を上げる。石畳の廊下の前方からペトラが片手を挙げて近寄ってきた。

「こんばんは、ペトラさん」
「どうしたの? 今夜はまたいつにも増してすごい量のお菓子ね」

 また兵長に貰ったのね、とエレンの両腕に抱えられた大きな箱を見て笑う、ペトラに、あ、そうだ、とエレンは思う。

「明日、同期といっしょに食べろって兵長が。もし良ければ、ペトラさんも食べませんか?」

 今日はほんとうにとりわけたくさん貰った。仲間と皆で食べても多いくらいだ。サシャさえ自重すれば。しかし、ペトラは、お誘いありがとう、でもそれはエレンが貰ったものなんだから兵長の言う通りお友達と食べなさい、と言った。

「ペトラさんは甘いもの苦手なんですか?」

 この世に菓子が見るのも嫌な程きらいな人間がいると、エレンはリヴァイに会って初めて知った。甘い匂いもバターの少し焦げたような匂いも、誰もが大好きで取り合いになるものだとばかり思っていたからだ。ゆえにエレンはペトラもリヴァイと同じなのかなと思ったのだが、どうやらそれも違うらしい。好きか嫌いかで言ったら好きよ、と言われた。

「じゃあいっしょに食べましょうよ、ペトラさんも」
「やめておくわ。お菓子は好きだけど、エレンたち子供にって兵長が望んでいるのに私までご相伴にあずかっちゃったら、大人げないし、あとで兵長にバレたら気まずいし」
「え?」
「だってそれ、って言うかいつも、兵長がエレンのために買ってきてくださったものでしょう?」
「…………は?」

 ペトラが何を言っているのか、エレンは瞬時、解らなかった。継いで心のうちに湧き上がったものは、そんなわけないでしょう? 兵長が、俺に菓子なんてわざわざ買うわけないじゃないですか? と言う怒濤の疑問だった。大体こんな菓子、いったい幾らするのか、エレンとて知らぬことではない。

「あれ? エレン、知らなかったの?」

 反論は山のようにエレンのなかに生まれたが、ペトラがあまりにあっけらかんと言うので、かえってそれが真実だと悟らせた。もしかして内緒だったのかしら? 兵長には黙っててね、とも軽く言われ、エレンは何も言い返せなくなる。ちょっと待て、頭のなかが混乱している。両手に抱えた箱に大量に入っている菓子に視線を落とす。とても美味しそうだし、きっと美味しいのだろう。

「兵長が……俺の、ために…?」

 今まで幾度貰っただろう。思い返せばこの時勢、そうそう菓子屋などないのに、リヴァイがエレンにくれる菓子はいつも種類が違ったし、店名が違ったりした。最初こそほんとうに貰ったものをくれたのかもしれないが、それ以降はペトラの言う通りなのかも知れない。初めてリヴァイから菓子を受け取ったとき、エレンは子供のように喜んだのだ。そしてエレンは、あれだけたくさん貰ってきたのに、その味を1つも知らぬ。覚えていないのではない。知ることすらないのだ。漸くエレンは、視覚よりも聴覚よりも、味覚というのは最も人間的な感覚であるのだと知った。それとも自分が巨人だから、そう思うだけなのだろうか。

「エレンは甘いものが好きなんだ、って言ってたわよ」

 その言葉に耐え切れず、エレンは目をそっと瞑った。リヴァイの優しさを思うと胸が苦しい。でもこれは、皆で食べるものなのだ。皆が美味しい、と笑い合いながら食べるなか、エレンは何の味も感じぬのにおそらく美味しそうなふりをする。笑顔で、兵長から貰ったのだと嬉しそうにするだろう。こんなに酷い嘘はないと思った。ひとすじの涙がエレンの頬を伝う。それさえ誰にもバレないよう顔を俯けて。その涙は、ほんの少しだけ、しょっぱいような味がする気がした。エレンは思い知る。己は巨人云々以前に、ただの『ひとでなし』なのだ。
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