<概略>
愛ある殺伐/理解し合えない弟兄/
裕周のつもりで書きましたが別に周裕でも通りそう。





   

 約束を、覚えている? 否、約束と呼ぶより天からの啓示みたいな。膿んで、いつまでもかさぶたにもなれない心のアウトゾーン。神さまなんか、信じたことさえ無いけれど。

【──11月1日までに、貴方の最も愛している人を、ひとり、決めておいてください──】

 観衆の目は、コートに平等に注がれていた。おざなりの柔らかな拍手に包まれて、そこで漸く僕は、僕を思い出した。視覚が、聴覚が、それから肺が──我に返って動き出す。皆に倣い慌てて拍手をしようとしたけれど、膝の横に置いたまま固まっていた手を動かすのが怖くてやめた。目下のコートは僕が知るどのコートよりも広くて、ほんとうに広くて、ラケットもボールも審判台もそれから裕太も、この景色にある何もかもが小さ過ぎた。小さな裕太は小さなボールを追いかけて、只管に走っていた。ボールはいつだって裕太から1番遠いところへ向かった。小さな裕太は走って走って小さなボールを追いかけ、小さ過ぎる腕を伸ばして、小さ過ぎるラケットで返した。
 それは多分すごく平凡で、ありきたりな試合だった。驚くようなサーブも、鮮やかなスマッシュも無かった。思いがけないパッシングさえ無い。延々と続くラリーは、いつも予想通りの軌道だった。ただコートが広過ぎてボールもプレイヤーも偽物のように小さ過ぎた。走って走って、滑り込むように転んで、転びながら裕太は走り続けた。アウトボールを目で追いもせずに頬の筋肉だけで笑う裕太が、僕はずっと好きだった。だけれど小さな裕太は、どこまでもボールを追いかけて、コートのずっと外でアウトコールよりも先に必ず打ち返した。こんなのもう、テニスなんかじゃあ無い。観ているこっちが息苦しい。呼吸が上手く出来ない。打ち返したボールをそのまま追って小さなその体躯は相手コートまで走っていってしまいそうだった。僕は怖かった。どういうわけだろう? 地面に、ラケットに、ボールが当たるその音が聞こえない。審判のコールが聞こえない。ポイントが入る度聞こえる筈である叫び声が聞こえない。僕の耳に聞こえるのはどくどくと絶え間無い脈拍の音だけだった。それは裕太のものでは無い。それは──紛れもなく僕の心臓の音だった。
 広いコートの端に立つ裕太は相変わらず小さかった。つよく引き結んだ唇を少し持ち上げて、キュッと笑ってみせたその目は、次の試合を待つばかりの観客席を飛び越えて高い高い空に向かっていた。見上げた空はもう秋だった。おおきく上下する肩や肋骨を抑え込むようにじっと黙って、裕太は真っ直ぐに立っていた。破裂しそうな躰は何かに耐えるかのように、そこに立っていた。膜がかかったみたいに遠くで響く、鼓動や肺の軋む音が僕のものなのか、裕太のものなのか──僕には判らなくて、何度も大きく息をした。耐えられなくなって立ち上がって、そのまま出口に向かうことだって出来た筈だった。だけど僕は階段を下った。出口に向かって上る人の波を押し分けて、ゆっくりとでも確実に地面へ向かった。ほんとうは走りたかった。早くしないと、裕太はコートを出て遠くへ行って、僕らはもう2度と会えない気がした。その前に僕は何かを言わなきゃいけない。生まれて初めて立ったかのような僕の足は頼りなくて、コンクリートの階段が固くて、人波は僕を無視した。ぶつかるように辿り着いたフェンスに指をかけて、必死に覗いたコートのなかに裕太はまだ立っていた。高い所を見つめたまま破裂しそうな躰が、まだそこに立っていた。
 僕は扉に手をかけ、少しだけ躊躇して、そっと留め金を開けた。思ったよりずっと手応えなく簡単に開いた扉から、押し出されるように僕はコートへ入った。足許の芝が僕を拒絶していたけれど、深呼吸してぐっと耐えて、僕は真っ直ぐ立とうとした。芝が剥げて露出した土が目の前に広がっていた。何もかも小さ過ぎると思っていた。だけどそうじゃあ無い、何もかも遠過ぎたのだ。
 僕を見て裕太が唇を結んだ。僕よりも、太い脚が、厚い体が、汗でずぶぬれの顔がそこにあった。迷いながら僕は近づく。タオルを持ってくれば良かった、と思う。差し出すものが何も無くて、言いたいことも見つからなくて、取り敢えずそっと抱きしめたら、熱い胸は力強く呼吸をしていた。数万の観衆はきっと僕らを見ていない。腕のなかの裕太は高い空の向こうを見上げて、僕の耳だけに聞こえる息で言った。

「まだなんだ。俺はまだ、」

 僕は頷くことさえ出来なかった。近くを走っているのだろう電車が、2本通り過ぎても、まだ動かない僕を、無言で置いていく筈の裕太が、ついさっきまでのことは全部無かったかのように、やけに嬉しそうに言った。

【──11月1日までに、貴方の最も愛している人を、ひとり、決めておいてください──】

「当ててやろうか。兄貴」
「……いいよ。絶対当たらないだろうから」

 だって僕にも解らないのだ。愛が誰かのなかにあって、僕がそれを見つけると云う話であるなら、簡単だ。テニスプレイヤーは動体視力が基本だから、絶対に見逃したりしない。まだ逢っていないだけだ。これから出逢うことを待っているのだ、ずっとずっと。ついでに謂えば、僕は裕太より頭が良いので、11月1日までにきっと出逢うだろう、その誰かに。だけど違う。僕はもう知っている。愛は僕のなかにあって、それを託す誰かや何かを僕が決めなければいけない。もう逢っている誰かのなかから、何かのなかから、ひとつを僕が選んで決めなければならない。大差なんて何も無いのだ。決め手だってひとつも無い。 ただ僕が──僕の責任で、どれかひとつを決めなければならない。それでは無くてはいけない理由を、他ではいけない理由を、探すのはその後だ。なんて馬鹿らしい自由の責務。

「絶対当たる」
「そんなこと言い出したら、僕だって、裕太の答え、当てられるよ? 絶対」

 ひどく不細工な表情で、あァそうかよ、と返した裕太に僕は言う。

「じゃあいいよ、裕太。答え合わせしよう? 11月1日に」

 ふたりは2週間とプラス3日後に逢う口実を手に入れた。それから、もう2度と逢わない口実を手に入れた。答えが合ったらその瞬間、僕たちがふたりきりで逢う理由は、きれいさっぱり消え失せる。兄弟なのにね。

「すごく楽しみだね」

 心から楽しいので、心から楽しそうに告げた、そんな僕を見て、裕太の選択肢はまたひとつ、減った。



もう10年以上昔から、私の書くBLを追いかけてくださっている有り難きちはやさんが裕周すきだったと明かしてくださったので、テニスは宍跡と忍跡と塚跡しか手をつけたことのない私ですが、何とか恩返しをしたくてちょっと真面目に勉強してみました。こんなの裕周じゃあ無い!って思わせてしまったらごめんなさい。少しでも、楽しんで頂けたなら幸いです。ちはやさんいつもメールありがとうです!ラブ!
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