男の子がこけてしまったその一瞬、このチャンスを見逃すまいと疲れた身体に鞭を打った。男の子が立ち上がろうとしたその時には、私と男の子の距離はもうそれほど離れていなかった。男の子も追いかけっこに疲れてしまったのか、肩で息をする。男の子は追い付いた私を前に肩で息をしながら、不思議そうに砂だらけの地面を撫でていた。
それでもやっぱり逃げたいのか、何かに怯えるようにおずおずと後ずさる。そんなに怯えられたら本当に私が変質者みたいじゃないか。
どうしたものかと考えて、とりあえず男の子に目線を合わせるようにその場に座り込んだ。それに驚いたのか、目をくりっと丸くさせた男の子と視線がぶつかった。遠目から見てた時は解らなかったけど、この子ハーフとかなのかな。髪の毛は赤いし、目は綺麗な緑色だし。吸い込まれそうなその緑に、私はくぎ付けになった。

「大丈夫か少年。痛いの痛いのしょうがねー」
「…………、」

わ。私の渾身のギャグを見事にスルーしよったこのガキ。なんなのこの滑り具合めちゃくちゃ恥ずかしい。男の子がこけて腕に作った傷よりもこの空気の方が痛々しいわ、アイタタタ。気を取り直すように私は頬をぽつりと掻いて、男の子に向き直る。

「…ね、もうこんな時間なのにまだお家に帰らないの?」
「っ………、」
「お父さんとお母さんは?」
「………、」

ガン無視だよ。こんな小さな男の子がいっちょ前に大人の話をガン無視してるよ。
全くどんな風に育てられてきたのか、親の顔が見てみたいわ。どうしてこの子は何も応えてくれないんだろう。それでも私は男の子に質問を投げ掛ける。

「お家はどこ?この辺?」
「………、」

やっぱりガン無視かこの野郎。このままじゃ埒があかないな、と諦めようとしたその時、男の子は私から視線を外して僅かに口を動かした。それには少しだけ安堵して、私は男の子の声に耳を傾ける。

「………す、」
「す?」
「……砂隠れの、里…」
「へえー…、」

なにそれ、どんな里なの。名前からして砂漠っぽい里の名前だな。っていうか今時「〜の里」ってそんな地名あるんだ。まあいいや。この時の私は男の子が質問に応えてくれた事が嬉しくて、物事をあまり深く考える事はしなかった。いや元々あまり深く考える方じゃないけれど。
それにしてもさっきからずっと気になってるんだけど、この子背中に何を背負っているんだろう。自分の身体と同じくらい、いやそれよりも大きな何かを背中に背負っている。重くないのかな。

「ねえ、それ何を背負ってるの?重たくない?」
「……ひょうたん、」
「ひょうたん…って瓢箪?」

首を傾げる私に、男の子はおずおずとしながらも小さく頷いた。っていうか瓢箪を背負ってるってなに。何の為に背負ってるんだろう。中には何が入っているんだろう。砂隠れの里とか瓢箪背負ってるとか、よく解らないことだらけなのに何故か私は目の前の男の子に興味津々。何者なんだろう、この子。

「その中何が入ってるの?」
「………砂、」
「その砂で何するの?」
「…僕を守ってくれたり、…ひとを、ひとを殺したり」

なにその物騒な瓢箪。その言葉ひとつで、この男の子はこの世界の人間じゃないと言っているようなもんだ。こんな小さな男の子が砂を使って人を殺すような世界って、どんな世界なのよ。まるでなにかの映画のよう。なんてファンタジーなの。というかこんな小さな男の子から「ひとを殺したり」なんて言葉がこんなにも簡単にぽろっと出てくるなんて。こんなに小さいのに沢山の命を奪ってきたのだろうか。それには普通に恐怖を感じたけれど、それ以上にこんな小さな子の手が赤に染まってしまっている事が、なんだか酷く悲しい。

「…キミは、すごい力を持ってるんだね」
「…でも、ココじゃ使えないんだ。さっきも何も起こらなかった」

それは、こけた時の事を言っているんだろうか。そういえばあの時、この子は不思議そうな顔をしながら地面の砂を撫でていた。こけただけの時でさえも砂が彼を守ってくれていたんだろうか。なんて過保護な砂なの。こけただけの怪我なんて唾でもつけとけば治るっていうのに。ふと男の子の腕を見てみれば、こけた時の小さな傷から少しだけ血が滲んでいた。何ともないかすり傷のように見えるけどこの子くらいの年頃の子供からしたら、きっと普通に痛いんだろうな。

「傷口にばい菌入っちゃうといけないからあっちで洗おうよ。手伝ってあげるからさ」
「……めて、だったんだ」

それはとてもか細くて少し震えていて、非常に聞き取りにくい声だった。それでも私の耳はその弱々しい声をはっきりと拾った。

「……こんなに追いかけられたの、初めてで、」
「…うん」
「こんな風にこけたのも初めてで、」
「……うん、」
「自分の身体に、傷を、…作ったのも初めてで…」

だんだんと小さくなっていく語尾。か細く弱々しい声を奮わせながらぽつぽつと言葉を紡ぐ彼を見ていたら、何故だか胸が締め付けられるようだった。今まで砂に守られてきたこの子だから、きっと痛みなんて知らないんだろう。

「傷って、やっぱり痛いね」

ぐらりと揺れた緑色の瞳からは、大きな粒の涙がぽろぽろと溢れ出していた。




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