珈琲と紅茶の香りがゆらゆらと漂う薄暗い部屋の中で、ゆっくりと時間は流れる。私もグリーンも言葉を交わす事はなく、私は自分の心拍数が早くなっている事に気付いていながら気を紛らわすように、こんな時間まで仕事をするなんてジムリーダーってのは本当に大変な仕事なんだな、とぼんやりとマグカップを眺める。
何だろうこの空気は。少し気まずいような感じがしているのはきっと私だけなんだろうけど。なんだかよく分からない空気になってる。私の周りだけ。こんな空気、あっちの世界でグリーンと暮らしていた時には味わった事なんてなかった。それは、私が彼に持ってはいけない意識を持ってしまったからなのかもしれない。
いつもならうるさいくらい人をからかってくるのに、どうしてこんな時に限ってグリーンはこうも大人しいの。
良かった電気つけてなくて。私にはグリーンの顔がぼんやりとしか見えないから、グリーンにも私の顔はあまり見えてないはずだ。今の私は、変に緊張しているせいか絶対におかしな顔をしているはずだから、暗くて本当に良かった。紅茶を喉に流し込みながら、このうるさい心拍数をどうやって落ち着かせようか、と必死に考える。

「××、」
「へあっ!」
「ヒトデマンみたいな声だったな」
「ちょっと、私の声みたいなポケモンどれだけいるの!ねえ!」

ケラケラと笑うグリーンの声に、なんだか妙にホッとして少しだけ私の心拍数が落ち着いた。私の周りだけおかしかった空気も、少しだけよくなった気がする。要は私の気の持ちようなんだ。平常心を保っていれば、なんてことない時間のはず。

「手持ち増やすつもりとかねーの?」
「バトル経験ゼロな私に言う?」
「だからこれから経験するんだろ?つーかバトルすんなら尚更手持ちは必要になってくんだろ」
「あー、そっか。…でもやっぱりちょっと不安かな」
「最初は誰だってそんなもんだぜ。まあバトルは経験が物を言うからな。慣れていく他ねえけど」

まあ俺が見てやるから××は安心してていいぜ、なんて言うグリーンの表情は薄暗いこの部屋じゃぼんやりとしか見えないけど、きっと自信を含んだ表情を浮かべているんだろうなあと思う。というかジムリーダーの仕事をしながら私の面倒を見るって、至極大変なんじゃないだろうか。あんなに大量な書類仕事を任されながら、こんな夜中まで起きているグリーン。そんな仕事をしょっちゅうしているんだろうっていうのに、その上私の面倒を見るだなんて。グリーンは、優し過ぎるにもほどがある。

「……でもそれって、」
「迷惑かけてるとか言うなよ?俺が勝手にやってんだから」
「だ、だって今までずっとグリーンに甘えてきたのに…そんなの甘えすぎにもほどがある!」
「今さらだろそんなの」

珈琲を口に運びながら、グリーンはさらりとそう言いのける。そしてそれでも、と言いかけた私を黙らせてしまう一言を、さらに覆い被せた。

「頼ればいいだろ、もっと」
「………っ、」

そんな事を言われてしまったら、言い返す言葉が何も出てこない。というか、言い返す気も起きない。
あっちの世界でもこの世界でも散々甘えてきたっていうのに、まだ甘えろと言うのかこの人は。申し訳なく思う半面、グリーンのその言葉はどうしようもなく嬉しくて。本当に、電気がついてなくて本当に良かった。熱を帯びた頬と目頭に、気付かれないで済んだ。グリーンの優しさは、閉じようとしていた蓋をこんなにも簡単にすんなりと開けてしまう。

溢れて、しまう。

「とりあえずはバトルからだな。明日にでもやるか?俺と」
「ハードルが高い!」

冗談だっつーの、と言いながらグリーンは珈琲を飲み干したマグカップを手に持って腰を上げ、流し台へとそれを持っていく。
それ飲んだら××も寝ろよな。身体があったかい内に寝ないと眠れなくなるぜ、という言葉を残して、グリーンは自分の部屋へと戻っていった。
グリーンの背中が見えなくなっても、私の心音はこれでもかってくらいうるさくて。もう蓋が閉じれないほど溢れ出しててしまったそれは、私には止めることが出来ない。
気付いてしまった。いや気付かないフリをしていた。グリーンが優しくする度に、それは段々と積み重ねられ勝手に大きくなって。その想いはきっと、小さきながらもあっちの世界にいた時からあったのだと思う。そうじゃなきゃ、彼に会いたいだなんて思うはずがないのだから。

「………ばかだなあっ…」

優し過ぎるグリーンも、どうしても埋まらない溝があるのに彼に想いを寄せてしまった私も。次から次へと押し寄せてくる涙は彼の言葉が嬉しかったからなのか何なのか、私には理解が出来なかった。



「ピカチュウ、ボールに入ってね」
「ぴかちゅ!」

自主的に自分のボールのボタンを押して、赤い光とともにボールの中へと吸い込まれていくピカチュウ。よく出来た子だと思う。結局眠ったのは今日の明け方だったけど、ちゃんと目覚ましで起きることが出来た。これでグリーンからの説教は回避できるはず。
着替えてピカチュウが入ったボールを腰にセットして、部屋から出ようとドアノブを掴もうとした、けど何故か躊躇する。グリーンに抱いてしまった気持ちに気付いてしまった今、どんな顔をして彼と向き合えばいいのか解らない。そんな事を悩んでいたって、結局は顔を合わさなければいけないんだけど。彼に抱いてしまったこの感情だけは、悟られないようにしなければ。

出来るだけ平常心を装いながらゆっくりと引いたドアは、なんだか少し重たく感じた。




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