お風呂から上がったら、グリーンはもう自分の部屋に戻ったのか姿が見えなかった。ポケモン協会から頼まれた仕事を持ち帰ってきたから、それをやっているんだろう。なんとなくだけど、グリーンの姿がなかった事にホッと胸を撫で下ろした。タオルで髪を拭きながら、屋根に当たるばらばらという雨音を聞く。
雨足は弱くなる気配がなく、強くなる一方だった。髪を乾かしてからふと時計を見れば、すでに日付が変わりそうな時間。しまった。お風呂に少し時間をかけすぎた。
というのも、お風呂であれやこれやと思考を廻らせていたからで。

「そろそろ寝よっか?」
「ぴーか!」

ピカチュウを抱き抱えながら部屋に向かい(部屋はナナミさんと共用)、布団の中へと潜り込む前に、今日グリーンに買ってもらったばかりの新品の目覚まし時計を出して、それを枕元にセットする。一応ピカチュウに頼んでおいたけど、せっかく新品の目覚まし時計を買ってもらったんだから、ちゃんとこの目覚まし時計で起きないと。
自分と全く同じ姿をした目覚まし時計と見つめ合っているピカチュウを呼び、布団の中へと潜り込む。
ばらばらという雨音とカチカチという目覚まし時計の音を聞きながら、私はゆっくりと目を閉じた。



「……どうしよう、」

全然眠れない。睡魔に襲われているような気はするんだけど、目を閉じればぐちゃぐちゃな思考がそれの邪魔をしてくれる。頭に悶々と浮かび上がる思考は、もちろんグリーンと自分自身のこと。タマムシデパートでグリーンが謎の行動を取ったりさえしなければ、こんなに悩むこともなかっただろうに。あの時はびっくりし過ぎて鼓動を跳ねさせることしか出来なかったが、よくよく考えれば、グリーンだって何か考えがあってあんな行動を取ったのかもしれないのだ。そう、例えば、周りの視線や声をどうにかする為の行動だったとか。
自分たちに向けられた周りの視線や声に、グリーンが気付いていなかったとは考えにくい。本当のところは気付いてほしくなかったんだけど。だからグリーンはあんな行動を取った。そう考えたら、別に深く考えるようなことではないし、むしろ自分の為に動いてくれた彼に、感謝するべきところではないか。そこまで考えて、きっとそうだ、という答に行き着いたものの、持ってしまった意識を簡単に無くすなんて私には出来やしない。自分の世界にグリーンと二人で暮らしていた頃、よく平然と暮らしていたな、と我ながら思う。いやあの頃も、蓋を閉じることに精一杯だったけども。
あの頃の私には、一緒に暮らしていてあんなにも近くに居たのに、グリーンの背中がすごく遠く感じていた。彼が違う世界から来た人間、だから。
それが今では逆の立場で、またグリーンが私の世界にいた時とは少し状況が違う。彼は帰りたいと思っていたはず。この世界に。いや帰らなければいけなかった。この世界の人間なのだから。だけど自分はどうなんだろう。帰らなければいけないというのは、同じだ。この世界は、本来私が在るべき世界ではない。だけど私はもう、元の世界に帰ることを諦めかけている。
…いや違う、諦めかけているんじゃない。私はこの世界のことを、もっともっと知りたいんだ。

帰りたく、ない。

この世界の何処かに、私の居場所はきっとある。

それは決して諦めているのではない。私が望んでいて、信じていること。

やっぱりいけないことなんだろうか。違う世界から来た私が、そんな風に思ってしまうのは。
私が帰れるようにと色々と調べてくれているオーキド博士やグリーンには、本当に申し訳ないと思う。こんなことをグリーンに言ったら、彼は呆れるだろうか、怒るだろうか。

(……雨、止まないなあ)

強く降る雨音を聞きながらぱちりと目を開ければ、規則正しい寝息を立てるピカチュウが隣で気持ち良さそうに眠っている。ピカチュウを起こしてしまわないように、ゆっくりと身体を起こし静かに部屋から出ていく。
階段を下りると、雨が降っているせいか辺りの空気がひんやりとしていて、少し肌寒い気がした。眠れないのは、この寒さのせいもあるかもしれない。少し身体を暖めてから寝ようかな。電気を点けようかと思ったけど、それは眩しすぎて目が冴えてしまうかもしれない。外の街灯がこの部屋に差し込んでいるから、見えないこともないし電気は点けないでおこう、と私は薄暗い闇の中でマグカップを探した。なるべく音を立てないようにとマグカップを探したが、やっぱり小さな物音がしてしまうのは仕方ない。その小さな物音でさえも、静寂に包まれたこの部屋には響き渡る。

(なに飲もう?ココアか紅茶か…)

お湯を沸かす為に火をかけ、ぼんやりとココアと紅茶のパッケージを眺めながら、お湯が沸くのを待つ。
すると後ろからギッという音が聞こえて、その音に振り返れば、少し目を丸くさせたグリーンと視線がぶつかってしまった。片手を首の後ろに回しながら階段を下りてくるグリーンの姿に、思わずどきりと心臓を跳ねさせる。

「…なにやってんだ、××」
「え、えっと…ちょっと眠れなくて。…もしかして起こしちゃった?」
「や、さっきまで仕事片付けてたからそんなんじゃねえけどよ」
「こんな時間まで…!?」
「まあな」

壁にかかった時計の針はもうすぐ3時をさそうとしていた。ポケモン協会が持ってきた大量の仕事は、一週間の期限付き。ジムトレーナーたちが「これ二週間はかかる量なのに」とぼやいていたのを聞いた。
それでも彼の元にそんな仕事を一週間という期限付きで持ってきたのは、彼ならやってのけるだろうと信頼をしているから持ってきたのだろう。

きっと彼は、そういう人だから。

「なに飲むんだよ?」

言いながらグリーンは沸騰したお湯の火を止める。と、小さな物音を立てながら自分のマグカップも探し始めた。

「紅茶にしようかな…っていうか自分でやるから大丈、」
「自分の作るついでだしいいって。大人しく待ってろよ××は」

それが当たり前、というように言われてしまっては、私は素直に引き下がるしかない。まあ自分でいれるよりも、グリーンがいれた方が美味しいんだろうけど。しばらくすると、珈琲と紅茶の香りが部屋に広がり始める。
火傷すんなよ、とマグカップを私の前に置き、グリーンは私の向かい側に腰を下ろした。そんな冗談に「子供じゃないんだから!」と返せば、くっと押し殺したような笑い声がグリーンから降ってくる。薄暗いから、グリーンがどんな顔をしているのかあまりよく見えない。けど、彼の優しい声色から、すごく優しい笑顔を浮かべているんじゃないかって思う。

湯気が立つマグカップを両手で包み込みながら、カチカチと時間が流れる音を背中で聞いていた。
なんだかすごく、時間がゆっくり流れているように思えた。

…ゆっくりと流れる時間の中で、私の鼓動は早くなるばかりで。

この心拍数が示しているそれに気付いてしまうまで、もう少し。


(そして静かに、蓋は開かれる)




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