別に下心なんてものがあった訳じゃない。ただ彼女の存在が余りにも当たり前過ぎて、気が付いたら動いていただけで。
ぐっと引き寄せた××の腕は細く、ふわりと揺れた髪からは俺が使っているものと同じシャンプーの匂いがした。
ホントにこいつは危なっかしい奴だな、と思ったそれは自然に口から零れて、××が人にぶつからなかった事にホッと胸を撫で下ろした。…が次の瞬間、××が見せた気まずそうな表情に少し戸惑う。その上××にぐっと身体を押し返されてしまった。
いくら一緒に生活をしているといっても、これだけ距離が近付いたらそりゃこんな反応にだってなるだろう。この時はそんな事を頭の中で冷静に考えて、俺はくしゃりと頭をかきながら彼女との距離を取った。
それからふっと苦笑を浮かべ、俺は何事も無かったかのようにデパートの中へと足を進めて。

…あとからあとから、じわじわと押し寄せてくる鼓動の波。
さっきまでの××との距離を思い返せば返すほど、鼓動が早くなっていくのが分かった。
それはただ単に××との距離が近すぎたからだとか、きっとそんな簡単な理由ではない。

…俺は気付いてるんだ。

それはとても曖昧だけど、ひとつの感情としてしっかりとそれは俺の中に溢れている。
そして、それは異世界から来た彼女に決して抱いてはならない感情だという事も、解っている。

解っている、のに。

頭では解っている。だけど、感情は制御する事ができない。俺は感情を制御する術を知らない。
気付いたらでかくなってやがるんだ。その感情は。
その半面、××を元の世界に帰してやりたいという想いも確かにあるはずなのに。
帰してやりたい、けど帰してやれない、でも、だけど、

……帰ってほしくない。

どの感情を優先すべきか、そんなものは考えなくても解る。
解っているのに彼女と居る時間が多くなればなるほど、抱いてはならないその感情はじわりじわりと大きくなっていくんだ。
…このままでいいのだろうか、俺は。このまま××と過ごしていたら、今は曖昧なそれはきっとはっきりと見えてくる。
それがはっきりと見えた時、俺は笑って××を見送ることが出来るのだろうか。
だけどこうなる事を解っていたつもりで、俺は××を自分の傍に置いたんだ。覚悟は出来ていたつもりなんだ。

…そんな「つもり」で。今さらになってぐだぐだと、なんて情けないんだ俺は。

「…………ごめんな、」

それは帰してやる事の出来ないふがいなさと、少しでも帰ってほしくないという想いにかられてしまった事から出た言葉で。
デパート店内の客や店員の声に掻き消されたその言葉は、自分の脳内にやけに響いた。



ざわざわとざわめく店内、それはいつもの事だが、今日はいつもとは少し違う理由でざわついている。
それは俺たちが見世物にされているようで、あまり気分のいいものではない。
肩を竦めるように歩く××を見ればそれは一目瞭然で、はっきりとは聞こえない周りの声は、途切れ途切れでも何を伝えたいのか十分に伝わった。
言いたい奴には言わせておけばいい。俺はそう思いながら必要な物を買い物カゴに入れていく。
だけど、だんだんと歪んでいく××の表情。それは、俺と一緒に居るせいでそんな表情をさせてしまう訳で。そんな彼女を見ていて思うのは、彼女はきっと自分の事よりも俺の事を考えているに違いない。
それは××と過ごしてきて分かった事だが、彼女は自分の事よりも、まず先に相手の事を考えてしまう傾向があるようだった。

「その目覚ましでいいのか?」
「うん、だってピカチュウがずっとこれ見てたから」
「まあ自分と同じ姿してるんだったらコイツも壊さないかもな。もう壊すなよ?」

わしゃわしゃとピカチュウの頭を撫でれば、ピカチュウの愛らしい笑顔は消え見る見る内に歪んでいき、どこか不満げな声で鳴く。

…これは、もしかして。

「…嫌われてんのか?俺」
「ええ?そんな事は…」

ないよね?と××に問い掛けられたピカチュウは、顔を歪ませたままふいっとそっぽを向いた。
正直可愛くねえなと思ったが、何故俺がピカチュウに嫌われているのかは何となく分かる。
ピカチュウが××の前に現れてから、俺は××に説教をする姿しか見せていない。
ピカチュウは俺のそんな姿を多く見ているから、きっと俺の事は「××をイジメる嫌なヤツ」程度に思っているんだろう。
別に好きで説教をしている訳ではないんだけども。

「…よし、必要なもんはこれくらいか。××、他に欲しいもんとかあるか?」
「ううん、大丈夫」

どことなく情けないような、力無い笑顔を浮かべ、××は首を横に振る。
彼女をそんな表情にさせているのはもちろん俺な訳で、それは十分承知の上だ。
会計を済ませて彼女の元に戻った時、××は気を遣ったのか、「私が持つよ」と俺の手から半ばムリヤリ荷物を取る。

「いや、別にそんな気遣わなくても…っておい、」

多少の気遣いはあったんだろうけど、それだけじゃないという事に気が付いた時には、××はもう周りの視線や声に我慢が限界だったのか足を進めていた。
そんな××を眺めながら漠然と浮かび上がる感情は、苛立ちにも似たようなものだったけど、それとはまた少し違う。
それは××に向けたものでも、周りの不快な視線や声に向けたものでもない。
きっと不甲斐なくて情けない、自分自身に向けたもの。

…ただひとつだけはっきりとしているのは、そんな彼女は何だか見ていたくないというそれだった。それだけが、俺を動かしたひとつの理由なんだろう。
少しずつ遠くなる××の背中を追い掛けて彼女の名前を呼べば、××はくるりと振り返る。
どうしたんだと言わんばかりの顔で振り返った××は一瞬目を丸くさせ、そんな××を気にもせず俺は彼女の髪にゆっくりと手を伸ばし指を絡ませて。

「…ゴミ、ついてるって、」

騒がしかった店内が、ほんの少しだけ静かになる。
××は目を丸くさせたまま固まっていて、その隙に彼女の手に握られた荷物を奪って、俺は静かになった店内を歩きだす。

この時俺がこんな行動を取ったのは、この時の××が見ていられなかったからだと思っていた。
…だけど、今思えばこれは、ほんの少しの下心があったからなのかもしれない。

何故ならこの時××の髪には、ゴミなんてひとつもついてなかったのだから。

(こんなにも近い君との距離は、限りなく程遠い)




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