「それじゃあ××ちゃん、また後でね」

にっこりと柔らかい笑みを浮かべながらヒラヒラと右手を振るナナミさんに、私は吃らせた返事を返しながら深々と頭を下げた。突如姿を現して去っていくナナミさんは、さながら嵐の様だった。
もうナナミさんの中では私も一緒に暮らすというそれが決まっていて、もちろん私には断る言葉なんて思い浮かばなくて。
チラリとグリーンを見れば「まあ、これもなんかの縁だろ」と笑顔を浮かべながら言う。
そんな事を言われたら、何も言えなくなるじゃないか。
哀しい訳じゃないのに視界が歪みそうになるのは、この人達が優し過ぎるせいだと思う。
今の私の状況が状況だからか、この世界の人たちの優しさが本当に身に染みる。

「…お前、鼻水出しすぎ」
「…こっ…これは、嬉し涙、だからっ…」
「あ、そ」

素っ気ない返事をしながらも苦笑を浮かべるグリーンは、ぽんっと私の頭を軽く叩く。
この人は分かってやっているんだろうか。そうされる事で、私の涙腺が更に弱くなってしまう事を。いやグリーンの事だから、きっと分かってやっているんだ。そうに違いない。



「…だぁーから言っただろ?やめとけって」
「…こ、こんなに激しいとか、思わなかった…だもん…」

グリーンにこんな醜態を見られてしまったのは、これで何回目になるだろう。
口元を手で押さえながら前屈みになる私の背中を、グリーンが優しく撫でる。あ、それはやったらダメだよグリーン。
それをやられると、私の口からハイドロカノンが出ますよ。
そもそもどうして私の気分がこんなにも優れないのかというと、それはこのトキワジムにある仕掛けに問題があると思う。

「俺は止めただろ」

思考を読まれていたのか、グリーンの口からそんな言葉が返ってきてしまった。
…まあ確かに、グリーンの言葉を聞かなかった私も悪いのかもしれない。でも私は違う世界から来たんだもの。
そんな人間がこのジムの仕掛けを見て、興味が沸かないはずがないでしょう。
大体ゲーム画面越しに見ていたその仕掛けは、すごく楽しそうに見えたよ私には。
だから私がどんな人間なのか知っているグリーンが無理にでも止めていてくれたら、こんな事にはならなかったと思う。

「それ責任転嫁」
「なんかグリーンが怖い!」
「分かりやすすぎるお前の方が俺は怖い」

はあ、とため息を漏らしたグリーンは「しょうがねえな」と呆れたように呟いてから、一人で何処かへ歩きだしてしまう。
でもひどく気分が悪い私にそれを気に留める余裕はなくて、しばらく座り込みながら壁に身体を預けていると、手に何かを持ったグリーンが戻ってきた。
グリーンは手に持ったそれを、ぐったりと座り込んだ私の顔に近付けてくる。

「―うぎゃあっ!」

ピタッと私の頬に触れたそれはひんやりと冷たくて、思わず可愛くない悲鳴を上げながら私は勢いよく顔を上げる。
くっと喉を鳴らして自分の口元を押さえるグリーンは、笑いを堪えることに必死な様子。

「おっまえ…仮にも女だろ?」
「仮ってなに!っていうか誰のせいだと思って…!」
「あー悪い悪い。まあほら、これ飲んどけよ」

ぐいっと差し出されたそれを、まだ笑いを堪えているグリーンから受け取る。
可愛くない悲鳴を上げたのは誰のせいだと文句の一つでも言ってやろうとした、けど、気分が悪い私の為にわざわざ持ってきてくれた冷えたミネラルウォーターを渡されてしまえば、私はもう何も言えない。
文句を言わせる隙を与えてくれないんだ、グリーンは。
ふて腐れたように「ありがと」と呟けば、グリーンは口角を上げて「ん」と綺麗に笑った。



「…まあ要するに、雑用だな」
「ですよねー」

ジム内の一角で、私はグリーンから「ジムの手伝い」の具体的な説明を受けた。
その内容は報告書の整理だとかジム内の掃除だとか事務的なもので、要するに雑用という名の雑用。そんな雑用のような仕事でも、今の私にとって大きな仕事にはかわりない。
それにどんな雑用でもやるべき事があるのなら、今の私にとってそれは何よりも嬉しい事。
私はこの世界の事を知っているようで、きっと何も分かっちゃいない。
そんな私が今こうして居られるのは、グリーンやレッド、そしてオーキド博士やナナミさんといった、私がこの世界に来て関わった人たちのおかげで。
もしこの人たちに出会っていなかったら、私は今頃この世界でどうなっていただろう。
想像してみると、何だか少し怖い。この世界に来て出会えた人たちが、この人たちで本当に良かったとしみじみと思う。

「ねえグリーン、」
「あ?何だよ」
「改めて言わせてもらうけど、これからよろしくね」

グリーンは一瞬だけ目を丸くさせて、ははっと渇いた笑い声を上げてから「こちらこそ」と私の頭をぐしゃりと撫でる。
これをされるとひどく子供扱いをされているように思うんだけど、それは不思議と私に安心感を与えてくれる。

その安心感は、また私の涙腺を弱らせてしまうんだけども。
今日一日で何回泣いたか分からないけど、この日から私はしばらくの間グリーンに「泣き虫」と呼ばれるはめになる。




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