少しだけ張り詰めた空気の中、研究員さんが持ってきてくれた高そうな紅茶の香りが、その空気を溶かしてくれた気がした。
美味しそうな紅茶の香りに少し心が落ち着いて、私は安堵のため息を漏らす。

「…博士、××のこれからの事なんですけど」
「うむ。××くんにはちと辛いかもしれんが、帰れるまでこの世界で頑張れるかの?」
「あっ…は、はい!そのつもり、です」
「そうか。なら決まりじゃな」
「え、なにがですか?」
「この街を出て少し先へ行った所に、トキワシティという街がある。その街にあるジムのジムリーダーがわしの孫であるグリーンじゃ」

オーキド博士の口から放たれたその名前に、私の胸はドキリと大きな音を立てる。
近いうちに、レッドやオーキド博士の口からその名前が出るだろうとは思っていたけど。
彼に会いたいと願ってしまったのは、私だ。
だけど、今のこんな状況じゃ私の心境は少し複雑だった。もう二度と会う事はないだろうと思っていたから、尚更。
もし彼に会う機会があっても、彼に会うのが少し恐い。
だってどんな顔をして、どんな気持ちで彼に会えばいいのか、分からない。

「××くんにはトキワシティのジムに行って、そこの手伝いをしてもらいたい」
「は、はあ……ええっ!?」

オーキド博士の口からとても信じられない言葉を聞いて、口に運んでいた紅茶を思わず吹き出してしまいそうになった。

え、何でどうしてそうなった?

「この研究所の手伝いでも良かったんじゃが、生憎今は人が足りておってのう…グリーンがこの間人手が足りないと言っていたのを思い出してな」

すまんが、そうしてくれるかの?と申し訳なさそうにするオーキド博士に、私が何かを言える訳でもなく。
オーキド博士が私のこれからの事を考えてくれてそう言ってくれた事には本当に感謝しているし、本当に嬉しいけど、まさかこんなにも早く彼に会う機会が訪れようとは。
思いもよらなかったその状況に、少しだけ早くなる心拍数。
いくら彼に会うのが恐くても、いずれは会う事になるだろう。私は今、自分が在るべきではないこの世界に存在しているのだから。それが早いか遅いかというだけの話。
断る言葉なんて、私の口から出てくるはずもない。
今の私には、そうする他に選択肢がないんだ。
この世界で生きる為には。

「…分かりました」

オーキド博士を真っ直ぐ見つめながらそう答えれば、博士はうむ、と力強く頷いた。

「グリーンにはわしから伝えておこう。それで良いな?」
「…はい、ありがとうございます博士」
「それではレッド、××くんをトキワシティまでよろしく頼んだぞ」
「分かりました」
「ああレッド、お母さんに顔を見せるのも忘れずにな」
「…はい、」

行こう、とレッドは博士に背を向けて歩きだし、私は博士に頭を深々と下げてお礼を言ってからそれを追い掛けた。



研究所から出たレッドを追い掛けていくと、一軒の家の前にたどり着いた。
もしかしてここがレッドのお家なのかな、と思ったのもつかの間、レッドは「少し待ってて」と颯爽と家の中に入っていく。
レッドの家の玄関の前でキョロキョロと首を動かしていると、そこから少し離れた場所(お隣りさんと言っていいかもしれない)に、もう一軒家があった。
恐らくグリーンさんの家なんじゃないかと思われるその家は、グリーンさんが言っていたように確かに私が住んでる家と外装が少しだけ似ている。
もし似ていなかったら、私とグリーンさんは出会ってないかもなぁ、と初めてグリーンさんに会った日を思い出しながら苦笑した。

「××、」
「うわっ!れれ、レッドいつの間に出てきたの!」
「今さっき」

急に声をかけられ振り向けば、家の中に入っていったはずのレッドの姿が私の後ろにあった。
ねえ今、家から出てきた時ドアの音した?してないよね?
なんか恐いよレッド…!

「は、早かったね。もうお母さんに顔見せてきたの?」
「…また帰ってくればいつでも見せれるから」

それは、レッドらしいといえばレッドらしいのかもしれない。
でもレッドって、私の中ではひたすらシロガネ山に引きこもってるイメージなんだけど。
今日だって久しぶりに下山したんじゃないのかな。
それなら、もう少しお母さんとの時間を…ってやめとこう。
人の家庭事情を、他人がとやかく言うもんじゃないよね。

「××は、何見てたの」
「あ、えっと…あの家、私の家に少し似てるなーって…」

グリーンさんの(だと思われる)家を見ながらそう言えば、レッドもその家へと視線を向ける。
見れば見るほど、それは私が住んでた家とかぶってしまって。

「……あっちの世界は、今頃どうなってるんだろう…?」

ふと頭に浮かぶのは、夜中まで一緒に飲み明かした仕事の同僚だったり、よく一緒に買い物をしたりして遊んだ友人だったり。たまーに「元気にしてる?」といったメールをくれた家族だったり。
私が居ない今、あっちの世界はどうなってるんだろう。
仕事はもちろん、欠勤扱いになっている事だろう。それどころか、行方不明扱いになっているかもしれない。
捜索願いとか出されちゃったりしてるのかな。
…何だか、胸が痛いな。
どれだけ胸を痛めようが、あっちの世界の事を考えようが、その答えは何も出てこない。
それを知る術は今のところどこにもないし、知ったとしても私がこの世界に居る限りどうしようも出来ない。
家族や友人の顔が浮かんで無性に会いたくなってしまったのは、もう会えないかもしれないと思ったから。
だけどそれは、グリーンさんの時も同じこと。
私は後先を考えずに、自分勝手な我が儘でもう二度と会えないだろう彼を想って、会いたいと願ってしまった。
あの時は、こんな事になるなんて思ってもみなくて。
…みんな、心配してるかな。急にいなくなってごめんなさい。私なら、ここでちゃんと元気にしてるから、ね。きゅっと唇を噛み締めていたらレッドから手が伸ばされて、それは私の頭をくしゃり、と撫でた。

「れ、レッド…?」
「…いいよ」
「…?」
「…思いっきり、泣けばいい」
「……っ、」

彼に会いたいと願ってしまった私に、あっちの世界を想って泣く資格なんてないのかもしれない。それでも、それからはもう私の視界は歪んでしまって、レッドの顔がぼやけて見えた。
確かに私は彼に会いたいと願ってしまったけど、決してこうなる事を望んていた訳じゃないの。ただ彼と、もう少し一緒に居たいと思ってしまったの。
なんて身勝手な、私の我が儘。

…それでも、私は、

「…よう、レッド」

もう聞き慣れてしまったその声に、ひどく安心してしまった。




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