その光景を見た瞬間、一度だけどくんっと胸が大きく鳴った。
それからはもう、私の心音はどくどくと小刻みに脈打って、何も考えることが出来なくなってしまったその思考。
その光景はこの長い長い夢の終わりを、知らせに来たんだろうきっと。
…ああ、もっと鏡の前で、笑う練習をしておくべきだった。



グリーンさんの驚いたような声にすかさず私も玄関へと小走りで向かえば、ドアの前にはグリーンさんの背中があった。
グリーンさん、と背中越しに彼に声をかければ、グリーンさんは無言でこっちに振り返る。
振り返ったグリーンさんの腕の中には、見たことはないけど知っている、茶色い生物が収まっていた。それは動物に例えるなら猫ほどの大きさ(猫よりは大きいかも)で、見た目は動物に例えようにも思い浮かばない。
しいて例えるなら、キツネっぽい感じだろうか。
茶色い体に首周りは白いふさふさの毛で覆われ、ぴんっと長く大きい耳にくりっとした真ん丸い瞳。グリーンさんの腕の中でブイ、と小さく鳴いたその生き物は、グリーンさんの姿を確認するかのように顔をグリーンさんの胸辺りに擦り寄せていた。
その可愛らしい姿の生き物に感動している余裕なんてものはなくて、思考もままならない私は、ただその光景を見つめる事しかできない。
イーブイ、とグリーンさんが呟けば、その生き物は小さく鳴いてグリーンさんと顔を見合わせる。そうだ、グリーンさんの腕の中で抱き抱えられている生き物は、確かイーブイというポケモンだ。
画面越しに見ていたそのポケモンには、何度胸をキュンキュンさせられたことだろう。
どれに進化させようかと悩みに悩んだりした、大好きなポケモンの中の一匹だ。
それは、画面の中での話で。
この世界に、こんな愛くるしい姿をした生き物が、存在しているはずがない。
口を開こうとしてもなかなか言葉が見つからなくて、グリーンさんがイーブイを抱き抱えているその光景を突っ立ったまま見ていたら、先に口を開いたのはグリーンさんで。

「…さっすが、聖なる夜とかいうだけあるよな…」

そうぽつりと呟き、その存在を確かめるかのようにイーブイを強く抱きしめる。
今まで一人でこの世界にいたグリーンさんにとって、歓喜とも言えるべきことなんじゃないだろうか。このイーブイの存在は。そしてそれと同時に、グリーンさんが元の世界に戻る為の手がかりにもなるかもしれない。
ついさっきまでなんてことないクリスマスを過ごしていたのに、グリーンさんが言った通り聖なる夜に起こったこの奇跡。
その奇跡は大変喜ばしいことのはずなのに、何故かチクっと胸が痛む。

「…その、イーブイは…グリーンさんの…?」
「…ああ。どっからどう見てもそうなんだけどよ…」

なあ、お前どうやってココに来たんだ?そう問い掛けたグリーンさんの服を、イーブイは口でぐいぐいと引っ張る。
それはまるで、グリーンさんを外に連れていきたいかのように見えた。
おいおい引っ張んなよ、伸びんだろ。そんなグリーンさんをお構い無しに、イーブイはグリーンさんの服を口でぐいっと引っ張り続ける。

「…外に、なんかあんのか?」

ブイッ!と元気な返事をしたイーブイはグリーンさんの腕の中から飛び降りて、玄関のドアを開けてくれとせがむ。
グリーンさんは何とも言えない表情をしながら、頭をかき私を見た。

「…俺、ちょっと行って見てくるから。××は中で」
「―待って、ください」
「××?」
「わ、わたしも、行く」
「……ああ、分かった」

何て言うんだろう。
胸がざわつくというか、モヤモヤするというか。
それは良い知らせでもあり、悪い知らせでもあるような。
終わりを告げるカウントダウンが、始まったような気がした。



グリーンさんと一緒に道案内をするイーブイに着いていく、と、それはさほど遠い場所ではなく、むしろ近いくらいで。
たどり着いた場所は、私の家の、裏。どうしてこんな所に?なんて疑問は、その場所の光景を見た瞬間吹き飛んだ。
いつかグリーンさんが私に話してくれた、「空間が裂けている」という状況は、まさにこの事を言うんじゃないだろうか。
イーブイがグリーンさんと私を連れてきたその場所では、間違いなく空間が裂けていた。

「…ココから、来たんだな」

グリーンさんのその言葉に、ブイッと返事をしながら力強く頷くイーブイ。
…そうか。
この子は、迷子になってしまったグリーンさんを元の世界に連れ帰るために、ココを通ってこの世界にやってきたんだ。
グリーンさんが元の世界で、「裂けていた空間に触れたらこの世界にいた」という事が事実なら、今この場所にあるその空間の裂け目にグリーンさんが触れたら、きっとグリーンさんは元の世界に戻れるはずだ。
私の胸のざわつきは、きっとこのことを知らせてたんだ。
…そうだよね。
グリーンさんは、この世界に居たらダメなんだよね。分かってたよ、最初から。
この長い長い夢は、いつか終わってしまうということ。
そのいつかが、正に今。
分かっているのに、それでもその事実を受け入れることを躊躇する自分がいて。
錘まで乗せて閉めた蓋は、こんなにも簡単に開いてしまう。

『待って』『行かないで』

蓋が開いてしまったそこから、波が押し寄せるかのように、溢れ出しそうになるそれ。
もう喉にまで出かかっているそれを必死に飲み込んで、私はグリーンさんを真っ直ぐ見た。

「…××」
「グリーンさん、イーブイが待ちくたびれてますよ?」
「…そうだな。今まで、サンキューな××」
「それは、私のセリフですよ。グリーンさんにはいっぱい甘えちゃいましたね」

言いたいこと、まだ沢山ある。
でもそれがなかなか言葉にならなくて、上手く言えない。
言葉を濁らせていると、グリーンさんからお前ってホントあーだこーだ…と降ってくる小言。グリーンさんて本当にお母さんですね、言ってやれば、お前がガキすぎんだよ。とグリーンさんは困ったように笑う。

「…元気でな、××」

見慣れた茶髪に、聞き慣れた声に、こうして名前を呼ばれるのもきっともう最後。
それならせめて、精一杯の笑顔で彼を見送りたいのに、声が掠れ、震える。視界が歪む。

「…グリーンさんも」

ああ、と軽く頷いたグリーンさんは足元にいたイーブイを抱き抱え、裂けている空間に片手を伸ばす。その瞬間、グリーンさんとイーブイはやんわりとした光に包まれて。
私は咄嗟に手を振って、声にならない言葉で「バイバイ、」とグリーンさんに向けた。
その一瞬、グリーンさんが驚いたように、少し目を丸くしたような気がした。

(ねえグリーンさん、私は上手く笑えてましたか?)




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