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わたしのものになればいいのに(後編)


どうしよう。顔を合わせてしまった。

何度目かも分からぬ後悔が益田を襲う。

これで女性と二人で会っていたことを自分が知っていると青木に知られてしまった。もう知らぬ振りは出来ない。何より逃げるように出てきたことを青木は何と思っただろう。次会った時にどう言い訳をしよう。いや、次なんて有るのだろうか。考えただけで泣いてしまいそうだ。


「益田くん!」

背後から青木の声がして追ってくるのが分かった。青木の大声など聞いたことがないから驚いて止まりそうになったが、別れを告げに来たのかもしれないと思うと、それを一分一秒でも先延ばしにしたくて足が勝手に進んでいた。


「益田くん、止まれ!」


青木の声が往来に響く。古書店街を歩く人々が、前を走る益田に視線を向けてくる。犯罪者にでもなったかのような気持ちになった。実際、後ろを走るのは現職刑事だから、現実感はたっぷりだ。

かなりの距離があった筈なのに、どんどん駆ける音が近づいてくるのが分かって、益田も本気で走って逃げた。

榎木津ビルディングはもう見えていた。あそこに逃げ込めば安心だと、これといって根拠のない思いで頭がいっぱいになっていて必死に走った。建物内へと入るための、磨硝子の嵌まった金縁の扉へと滑り込んだところで追い付かれ腕を掴まれたが、なんとかホールまで力づくで進んだ。

青木もそのまま付いてきたが、そこで腕を掴む力がさらに強くなったので、逃げるのは諦めた。足から崩れ落ちそうになるのを耐えながら立ち止まる。

「益田く…」
「っ!喫茶店に戻ってください。僕はもう分かってますから」

直接的な別れの言葉を投げつけられる恐怖に耐えきれず、青木の言葉を遮り、自分から諦めたようなことを言ってしまって、すぐに後悔した。

そう、それなら良いんだ。などと返ってきたらどうする。

「戻るよ。でも君は分かってない。こっちを向きなよ」

青木の声は穏やかであったけれど、戻るという言葉が全てを物語っているように思えた。こぼれそうな涙をぐっとこらえていると、青木のため息が聞こえて腕が離れていく。あぁ、もう終わりなんだなと思うと涙が次から次へとあふれる。泣いている自分が情けなくて、さらに涙が出た。肩をつかまれて青木の方を向かされても、じっと床を見ていると、青木の両手で頬を包まれて顔を上向かされていく。

きっと不機嫌な顔をしているだろう。逃げられて泣かれて、心底嫌になったに違いない。こんなに青木の顔を見るのを恐かったことなんてなかった。いつだって優しい眼差しが、嫌悪に変わっていたりなどしたら。


とてもでないが目を開けていられず瞼を閉じた。



*****



――あぁ、泣かせてしまった。

声もなく、ただ小刻みに震える益田の背中はいつも以上に小さく見える。

しっかり顔を見据えて、違う、勘違いだと伝えたくて、青木は震える肩に手を伸ばして振り向かせたが益田は顔を上げようとしない。涙で濡れた頬を包んで見上げさせても、瞼をきつく閉じている。どこまでも頑なな態度に呆れ果てながらも、少し心が浮き立つのも止められない。弱い癖に、弱さを見せることを良しとしない、バカでオロカな探偵助手が、これだけいっぱいいっぱいになって涙まで流しているのが全ては自分の為だと思うと堪らない気持ちになる。


堪らなく愛おしい。


頬へと添えていた手で涙を拭ってやると益田がうっすらと目を開けた。微笑んで応えると、抱きついてきた細い体を受け止める。なんと言えばいいものかと思案している最中に、先程まで嗚咽を押し殺すために引き結ばれていた薄い唇が開いた。

「青木さん…!お願いします、何でもしますから!だからっ…!」

涙声が必死に訴えてくることからすると、まだ変な想像をしているらしい。何でもするというなら、まずその悲観的な思考をなんとかしてくれよと思う。

「あのさ、益田くん」

ついに我慢しきれず声に出して笑ってしまうと、益田がぴたりと口を閉じた。見れば、じっと息を殺して青木の次の言葉を待っているが、もう既に顔が悲しそうだ。期待の欠片もない。どこまで信用されていないのだろう。悔しい気持ちも出てきて、髪の毛の隙間からちらりとのぞく耳を甘く噛んだ。そうしてそのまま耳元で囁く。


「悪いけどさ、僕は君と別れる気なんて、さらさらないよ」
「へ?」

腕を緩めて身を屈め、下から顔を覗きこむと益田はぼんやりと青木を見返してくる。何を言われているかが分からない様子に説明を重ねた。

「君の勘違いなんだよ、全部」
「でも…」

聞こうかどうか迷って視線が泳いでいる益田の問いの先回りをする。

「君が見た女性は、お潤さんに頼まれて今日初めて会った、警官に話を聞いて欲しいって人だから」
「え、…え?」

唖然とした顔が赤く染まっていくのを眺める。

「嘘だと思うなら、猫目洞に行って聞いてごらん。それとも君も一緒に喫茶店で話を聞くかい?君は元刑事だし、丁度いいよ」

耳まで赤くして絶句している益田に腕を広げて見せた。

自分から抱き締めようかとも思ったが、益田から来させる方が独占欲が満たされるというのをついさっき見つけてしまった。

今さら恥ずかしがって狼狽えている益田を急かす。


「ほら、おいで」


お前が必要なのだと、全身で叫んで欲しい。





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タイトルは「彼女の為に泣いた」様からお借りしました。







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