ぼくのためだけの呼吸
青木は黙って目の前のソファに座る益田の話を聞いている。
小さな口実を作って訪れた事務所には、益田と自分の二人だけしか居ない。それなのに、益田は榎木津のことばかり考えて、榎木津のことばかり話し続けている。
益田が榎木津に恋焦がれているのは、とっくに知っていた。益田からも聞いたし、見れば分かった。榎木津には揺るがない相手がいて、益田のその想いは決して届かないのも知っていた。
益田にも、そのことがはっきりと分かっていることも。
決して叶わぬ恋をした相手と四六時中共に過ごすというのはどういった気持ちなのだろうか、とふと思う。例えば益田が自分と同じ警視庁で働いていたら。違う人間を狂おしく眺めていたりなどしたら。
………顔を頻繁に見られるだけ、今よりはマシかもしれない。
そう思う自分はきっと末期だ。目の前で辛そうに話す益田も。
「たまにね、思うんです。箱根の事件で榎木津さんに会わなければ僕は今どんな風に暮らしてたんだろうって。でも僕はもう榎木津さんに会う前の自分がどう過ごしていたのかが、よく思い出せないんです。馬鹿みたいですよね」
笑顔をつくろうとして失敗しているのが痛ましい。どんな話も聞いてくれる友人という仮面をかなぐり捨てる。もうそんな立場では我慢出来なくなっていた。
「…なぁ、馬鹿ついでに試してみないか。僕は退屈しているし、君は寂しいんだろう?丁度良いじゃないか」
なんてことないようなフリをして。寂しさにつけこんで。何を言われているのか分からないと怪訝な顔をしている益田に近づき、頬に手を添える。
ようやく意味を悟ったらしい益田が顔を赤らめて、もごもごと何か言うのに余裕ぶった返事を返して。
深く口づける。
引こうとする益田の頭を押さえ込んで、舌を差し入れ歯列をなぞり、舌を吸い上げた。角度を変えながら、息を奪うように何度も繰り返しているうちに益田の強張りが解け、おずおずと舌を絡めてきた。
叶わぬ恋情など忘れてしまえ、そう願う。せめて少しの間だけでも忘れて気を楽にして欲しい。どうせ悩むのならば、僕とのことで悩めばいいんだ。
苦しそうに眉をひそめるのが見えて、惜しみながらも唇を離す。
益田が溢れて顎を細く伝う唾液をぬぐって、小さく何度も息を吸う。
その様を見ていて思う。
今の、この呼吸だけは。再度僕からの口づけを待つように熱を持った視線で見上げてくる益田の、この瞬間の呼吸だけは。
僕のものだ。
たとえ、その心が他人に向けられたものであっても、それだけは。
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タイトルは「彼女の為に泣いた」様からお借りしました。
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