愛と勇気とエトセトラ(1)
二階の自室への階段を上がる最中にあることに思い至り、青木は血の気が引いた。
先ほど帰宅時に玄関で下宿先の奥方に言われた言葉と重ね合わせると非常にまずい。残りの階段を意味もなく駆け上がった。
『そうそう、さっきまで益田くんが来てたのよ。もう少し待ってみたらって言ったんだけど帰っちゃったの』
益田が帰った理由が分かった。
扉を開ける。卓袱台の上を見る。残念ながら昨夜のままだ。
青木は力なく卓袱台の隣へと座りこみ、視線を移した。何に喜びを見出しているのか理解出来ない倒錯趣味の一種がでかでかと印字されている表紙が嫌でも目に飛び込んでくる。
――――最悪だ。
卓袱台の上には悪趣味にも程があるポルノ雑誌が置きっぱなしになっていた。
***
益田は確実にこれを見て帰ったに違いない。帰る筈がないのだ、本当は。
『絶対に寝過ごしたくないんで、もう青木さんとこに前夜泊まって朝起こして貰おうかなぁ、楽しみ過ぎて寝れませんもん。うっかり明け方寝て、悲劇が起こるやつですよ、これは』
こないだ会った時そう言って笑っていたのを思い出す。本当に嬉しそうだったから、そうしなよ、だとかそんな言葉を返したのも覚えている。
明日から共に旅行に出かける予定で。つまり益田はその言葉通りに今日は泊まる予定で来た筈なのだ。
――――なんで帰っちゃうんだ、益田くん。聞いてくれよ、こんな危ない趣味があるんですかって。そうしたら違うって言えたのに。
こんな趣味はない。全くない。冤罪だ。
雑誌は、少し前に怪我をして入院した際に同僚が悪ふざけの見舞い品として持ってきたものだった。
他の見舞い品と一緒に紙袋にまとめて押し入れに放り込んでいたのが、昨夜旅行鞄を探している時に出てきて。何の袋か思い出せずに袋を覗いて。これは次のごみの日に捨てようと思ってこの雑誌だけ出して。…ぱらぱらっと中を見た。やはり理解不能な世界だ、としみじみ思いながら閉じた。で、そのまま卓袱台の上に置いた。それだけのものだ、と事実を説明できたのに。
そのあとは旅行の荷物の準備に戻ったし、今日だって帰ってくるまで忘れていたような存在だ。大体、本当にこんな趣味があったら隠し通すに決まっている、机の上に堂々と放置する馬鹿がいるものか。
全部お前のせいだ、とばかりに雑誌を睨んだ。己のせいなのは分かっている。馬鹿だった。
気のせいかもしれないが雑誌に動かされた形跡が無い。元通りの位置へときっちり戻す意識を感じる。僕は触ってませんよ、という主張すら感じる。まさかあんな悪趣味なものを目に触れさせてしまったとは考えたくもないが、とりあえず表紙は絶対に見ている。ましてや益田も男である訳で。
予定を変更して帰っているあたり、まず見ている。
しかも面と向かって聞くことが出来る気がせずに帰ったのだろうから、こんな趣味があるのか、と疑われていると覚悟していい。
明日からの旅行にだって確実に影響が出る。今すぐにでも弁明したいが、益田からこの話題を切り出してこないのに、こちらから違うと言えば言うほど、もう逆に疑いを深めてしまいそうだ。ただただ正直に言えばなんとかなる話題ではない。
最悪だ。
旅行の為に書類を連日残業してやって。頼むから事件よ起こるな、そもそも事件なんて地上から消え失せろと願いながら日々を過ごして。その結果がこれとは、あんまりだ。
益田に変態疑惑をかけられているのかと思うと、比喩ではなく本当に頭が痛くなってきた。
最悪だ。
寝過ごすよりも酷い悲劇がまさに今、この瞬間に起きている。しかも現在進行形で。
明日予定の列車に乗るために益田が駅へと来てくれるか正直自信が無い。自分が逆の立場であったら行くか怪しい。でも少しは信じてくれよとも思うのだ。
本っ当に。
ただひたすらに。
不安だ。
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タイトルは「六区」様からお借りしました。
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