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ある晴れた春の日

その日のことは、ところどころ曖昧であるけれど、基本的には鮮明に覚えている。

春だった。窓から射し込む日射しがとても暖かかったから、正午は既に回っていたのだと思う。

僕は窓の近くで寝そべりながら新聞を読んでいて、青木さんは壁に凭れて本を読んでいた。

いつものように穏やかな時間を過ごしていた。

遠い昔の春の午後。いつもの空気。それを時折大切に思い返すのは、今の生活を手に入れた、特別な日であったからだ。



*****


決して重々しい口調ではなかった。


「どこか部屋でも借りて、一緒に暮らさないかい?」


明日の昼御飯は蕎麦にしよう。

まるで、そんなことを言うような、思いついたことをそのまま口に出してみましたよ、といった軽いもの。


そんな口調であったから、青木がどこまで本気で言っているのか掴めずに、益田は文庫本を手にしたままの青木の側へと近寄って、顔を覗きこんだ。


「なんですか。本の台詞の音読ですか?」


踏み込んだ質問をするのは苦手で下手くそで、結局茶化した(でも茶化してしまう自分が一番嫌いだ)。
「いや、そんな台詞出てこないよ、この本。剣豪モノだし。君に言ってるんだよ」


優しく細められた瞳が、自分を捕らえる。


―――とりあえず冗談を言っているのではなさそうだ。


現段階で判別ついたのは、その程度のことで。

もどかしくて堪らずに、胡座をかいた青木の膝に手を置くと、読みかけの本の頁に指を挟んだ手が重ねられた。

冷たい青木の手が、自分の手に馴染んで温度が混ざりあう。

柔らかな声が耳へと届く。


「なぁ、どうだい?」


視線が注がれる。瞳は変わらず優しい。

だからこそ、目を逸らしてしまう。


「えっと…」


何と言おう。

この場限りの気紛れの言葉なら、どうしよう。気紛れは一瞬の本気ではあるから少し嬉しくもあるけれど、悲しいという気持ちが上回っている。随分と欲張りになったものだ。


「…急にどうしたんですか?」


応とも否とも返事を出来ずに質問で返すと、青木の声に、軽さがさらに含まれた。


「家に帰るだけで君に会えたらいいなぁと思ってそのまま口に出してみたんだけど、駄目かな?」


やはり思いつきだったらしい。残念ではあったけれど、そんなに真面目に考えこまなくてもいいとも受け取れて、肩から力が抜けた。


「でも周りに変なことを言われますよ、絶対。いいんですか、青木さんは」
「世間一般とやらの意見を聞いてるんじゃないよ。君自身がどう思うか、を僕は聞いてるんだ」


軽薄さを取り戻して揶揄するように言ってみると、青木が微笑んだ。


「君が嫌ならこの話は終わりで、僕は本の続きを読むし、君が良いと言うなら、今から僕は不動産屋へ直行だ。それだけだよ」
「今からですか」
「そう。今から」
「行動が早いですよ」


微笑む青木につられるように、笑みがこみ上げてくる。声に出して笑ったところで、青木がわざと軽く言っていてくれたことに漸く気づいた。

うだうだとすぐ悩む自分を引っ張りあげてくれている。大真面目な口調で言われれば、今頃自分はさらに大真面目に悩んでいただろう。笑うどころか声も出せずに、青木のためには断らなければいけないのだと、泣きそうになっていた筈だ。今だって、その思いはある。

世間体を考えれば、こんな風に一緒に過ごすことだけでも危ういのだ。

でも。それでも。

今断れば後悔も同時にすると直感していた。もう言ってくれるのは最初で最後かもしれないし、とてもでないが自分からは言い出せない。

事件で忙しくても、たまには帰ってくる。その時、少しでも顔を合わすことが出来るなら。無理をしているという意識もせずに無理をする人であるから、せめて無理をし過ぎていないかだけでも確認出来たら。

日常を当然のように共有出来たら。


想像を広げる。広がっていく。


――欲張るだけ、欲張ってみよう。


そう思った。

逸らしていた目を戻す。


「ねぇ、青木さん」
「なんだい?」


青木が本を畳に置いて満足げに微笑む。

もう答えは知っている。そんな笑みだった。いつだってお見通しだ。

それでも自分の答えを待っていてくれる。


「不動産屋にっ、行きませんか」


軽く言おうとはしたけれど、途中でつっかえた。

必死だった。顔が赤く染まっているのは自覚していたけれど、もう目は逸らさなかった。

そうしないと駄目だと思った。


「うん」


くすくすと笑いながら、青木が宣言通りに立ちあがる。本当に今から行く気らしい。


伸ばされた手を掴んで、益田も立ち上がる。

立ち上がっても、その手をしばらく離さなかった。









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「TOY」様からお借りした「同棲20題」「今日からここに住むんだね」を改題。


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