文章 | ナノ

(3)

すぅと目が覚めた。寝ようとして寝た訳ではない時の常か、どこか夢見心地とでもいうか、浮遊感があった。珍しく酒精が残ってもいたせいかもしれない。

探偵社内は自然光で十分に明るく、夜はとうに明けていた。いつの間にか掛けられていた薄い毛布の内から左手を持ち上げて腕時計を見れば、九時を回っている。

エヅはどうしたんだろう、そう思って頭を起こそうとすると、隣から声がして一気に目が冴えた。

「すみません、五月蠅くして起こしちゃいました?」

思わず視線をやると済まなさそうな顔した益田と目が合った。瞬時に言葉は出なかった。久しぶり、だなんてわざとらしい言葉をかけることを何故だか喉が拒否していた。

机の上を片付けている途中らしく、あらかたの酒瓶は既に無かった。確かに一応事務所であるから、応接机にこういった物があるのはまずい。この探偵助手が決めている始業時間は何時であったか。探偵は自由に過ごしているのに、助手なりに、自分なりに決めて、どれだけ前日に深酒をさせても無理をさせても、出社すると言って起きだして行く姿を何度も見ていたのに覚えていない。

ソファに横たわる男なんてのも一刻も早くどいておいた方がいいだろうと思ったが、座ってしまえばそれからすぐ立ち上がって帰らねばならないような気がして身体を起こさなかった。自分がどうしたいのか分からなかった。せめて自分の意志をはっきりさせてから、この場から去りたかった。

この探偵助手を手に入れたいのかどうかも、そんなことも分からなかった。

「水、飲みます?」
「うん。お願い」

布巾で机を拭きながら、最後の酒瓶を持ち上げて視線をこちらに向けぬまま益田が言うのに返事をした。久しぶりの会話はそんなものだった。

益田がこちらを向いて頷き、布巾と机に残っていた残りのものを盆に載せて歩いていく。流し台で起こる生活音を聞きながら思考を揺蕩わせている間に足音が戻ってきて隣へとやってきた。

「どうぞ」

まるで自分達の間には何も無かったかのような軽薄な笑みと一緒に差し出されたグラスを持つ手を衝動的に掴んだ。

驚いたように引こうとする手に、そのまま触れ続ける。

自分が何をしているのか分からなかった。連絡をとらずにいたのは半ば自然消滅を狙っていたのも多分にあった筈だ。今自分がやっていることとは正反対のことの筈だ。


―――僕は何がしたいんだ。


自問自答をする。

益田がさらに手を引こうとするので、掴んでいた手をあっさりと離した。嫌われちゃったか、と他人事のような感想を抱く。しかしそれは違っていたようで、水の入ったグラスを机の上に置いたあと益田の方から手を伸ばしてくる。水が零れるのを憂慮しただけであったらしい。真面目な子だ。

そんな真面目な子の掌が、ほんの少し体重をかけて胸にのせられる。

「…司さん」
「なに?」

誘うような目をして、益田が靴を脱いでソファへとあがってくる。ただ、男一人寝転がるソファにそう残された隙間がある訳もなく、ソファの縁からずり落ちそうになっている益田の膝を手で押さえて支えた。

色仕掛けを使う相手が違うでしょ、だとか、靴を脱いじゃうとこがまだまだ甘いね、だとか。適当に言葉をかけて流してやろうと思うのに、声が出ない。この拙いながらも精一杯誘おうとする仕草に弱かった。

どこの誰だか知らないが、そいつを誘う為に練習しているのだ、自分は実験台に過ぎないのだと理解はしていても、錯覚はしたくなる。

色仕掛けで襲わせてしまえと言い出した手前やめろとも言いづらい。最初のうちは、こうして誘おうと色々してくる度に笑っていたのに、何がどうなってここまで落ちてしまったのか。

腹の上に跨がるように腰を下ろし、益田がそのまま上体を倒して唇を重ねてくる。

もう流されてしまおうかと思ったのは、それに応えながら背へと腕をまわした時までだった。もともと薄い身体がさらに薄くなっていて、肩を掴んで押しやる。何か言わずにはいられなかった。

「え、どうしたの、益田ちゃん。ちょっと痩せすぎでしょ」
「…そりゃ僕は女性と違って柔らかくはないですけど」

かけた言葉に平淡な声が返ってくる。構わずに服を脱ごうとし始めた益田の手を掴んで止めた。

「そんな嫌味が言いたいんじゃないよ。とりあえずさぁ、なにか一緒に食べにいかない?牛鍋でもさ」
「一緒に?いいんですか?」

益田が目を瞬かせた後にふわりと微笑んだ。自然な笑みを見たのは随分久しぶりで、こちらも自然と笑みが浮かんだ。

関係を持つ前の方が親しかった気がするなんて馬鹿馬鹿しくて話にもならない。

遊び相手には向かない子だったのだ。真面目な子だということは分かっていたのに。こんな不毛な関係は断ち切るべきなのだ。自分のお遊びにこれ以上付き合わせるのは酷だ。


やっと腹が決まった。


誰かを手元に置いておきたくなったのは随分久し振りで、もうどうやって大事にすればいいのか忘れ去った自分に付き合わせるのは嫌だった。

「うん。あとね、飲みすぎた人間の腹の上に乗るのは止めといた方がいいよ、益田ちゃん。今まさにそうなんだけどね、気持ち悪くなっちゃうから」
「す、すいません」

茶化すと益田が慌てて下りていく。安堵と同時に覚えた寂しさは無視した。

目で追ってしまわないよう何かすることはないかとひとまず眼鏡を外し、レンズ部分を拭いた。それでも、その間も益田は側から離れなかった。ソファの横に膝をつき、近距離から見つめてくる。その目がそっと細められて口元にも微笑が浮かんでいた。

「やっぱり水いります?」
「貰おうかな」

グラスを受け取る際に触れ合った指先の感触が手に残る。僅かに氷の入った冷えた水は言葉少なにさせる喉をこじ開けるように滑らかに通っていった。カランとグラスの中で涼やかな音がする。思考がクリアになる。もう自然な会話が出来そうな気がした。

「エヅは?寝てるの?」
「朝僕が来たのと入れ違いでお出掛けです。実家にいきなり行くって言って、和寅さんまで連れていっちゃいましたよ」

朝飯すら食べずに飛び出しちゃって。一晩中飲んでた榎木津さんはともかく和寅さんは今頃腹ぺこですよ。まぁ、腹いっぱいの時に乗る榎木津さんの運転する車は地獄ですけどね。そう言って苦笑する様子に苦笑した。

探偵は二人きりになるよう取り計らってくれたのかもしれない。探偵業務を逸脱しているから、神の業務なんだろうか。友人としての優しさだとはあえて考えない。

この機会を生かそうなんて気は無かったから。優しさを無碍にするのは嫌だった。無理矢理にでも手に入れようだとか、振り向かせてやろうだとか、そんな風には思わなかった。

元々手に入らないものを無理に手に入れようとはしない性分だったし、元々寂しさを埋めてやるだけの約束だった。

―――司さんには関係ないじゃないですか!

叫ばれた言葉のその通り。関係ない。横恋慕をする自分だなんて自分じゃない。己のペェスを乱してまで、おかしな感情に振り回されてやる気なんてさらさら無かった。抱く女に不自由もしていないし、ただでさえいっぱいいっぱいの子を更に悩ませるような真似をする気もない。

そこまで思考が行き着くと、もう自分の姿を取り戻せていた。


「もうさ、今日は休んじゃいな。探偵社」
「えぇ?そんな訳にはいきませんよ」
「大丈夫、大丈夫。今からエヅの実家に電話して、エヅに了解とるから。そもそも探偵社の社長が居ないんだし、社長が休みって言ったら休むでしょ?そんで牛鍋食べに行こう」

無茶苦茶だなぁと言って益田が笑う。

「そろそろまた海外に行くから。しばらく会えないし、最後に我が儘聞いてよ」

先延ばしにしていた予定も決めた。

最後って、と小さく呟く探偵助手の声は、聞こえなかった振りをした。






[ 53/62 ]

[*prev] [next#]
[戻る]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -